第7話 王国には外が必要だ
朝まで待った。
正確には、眠れないまま朝になるのを待っていた。
寝床代わりに敷いた葉は薄く、灰色の床の硬さをほとんど和らげてくれない。何度寝返りを打っても身体が痛み、目を閉じれば1,000という数字が浮かんだ。
それでも、夜の間は召喚しなかった。
俺は衝動に負けているわけではない。回せる状態で一晩待てたのだから、十分に自制できている。
《淫獄》の明るさを朝に近づけ、俺は召喚画面を開く。
『4回目通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:1,000個』
『所持《淫獄石》:1,000個』
『実行可能』
「朝になった途端、それかい」
厨房では、ミラが昨日の肉を確認していた。
「一晩待った」
「胸を張ることじゃないよ」
「食料が足りないんだろ。だから外を調べられる人が必要だ」
「そんな人が来るとは限らないでしょう」
アクアリアが女性用寝室から出てくる。水色の髪には寝癖一つなく、すでに長衣も整えられていた。
「限らない。でも、今までの3人は全員、そのとき必要な力を持ってた」
「今度も同じだと?」
「確かめる」
リディアは新しい壁にもたれ、腕を組んだ。
「止めても実行する顔ね」
「だったら、先に回したほうが時間を無駄にしない」
ファステが心配そうに俺を見る。
「次の人にも、全部話して」
「約束する」
俺は実行を選んだ。
『《淫獄石》を1,000個消費します』
『4回目通常《住民召喚》を実行しますか?』
「実行する」
『所持《淫獄石》:0個』
召喚陣が灰色の床へ広がる。
光の中へ現れたのは、片膝をついて周囲をうかがう成人女性だった。
日焼けした褐色の肌。顎のあたりで切りそろえられた黒髪。灰緑色の瞳は、目覚めた瞬間から俺たち全員の位置を追っている。
丈夫そうな外套の下には革鎧。背には短弓と矢筒を負い、腰には短剣と縄、火口箱らしき道具が下がっていた。
『SR 《帰る隊を失った斥候》 セリア・ノクス』
「SR――」
また口へ出しかけ、途中で止める。
セリアの右手はすでに短剣へ伸びていた。
「ここはどこだ」
「《淫獄》っていう、外界から切り離された場所だ。俺は白瀬朝斗」
「私をここへ移したのは、お前か」
「俺の召喚で呼んだ」
「戻せ」
「今は戻す方法が分からない」
短剣が鞘から指1本分だけ抜かれる。
「ふざけるな。隊の仲間を探している途中だった」
「それも含めて説明する。嘘はつかない」
「説明で帰れるのか?」
「帰れない」
「なら、先に外を見せろ。ここがどこにつながっているか確認する」
声を荒らげてはいない。それでも、拒めば迷わず刃を抜く目だった。
「外へは出られる。ただし、あなたがいた場所とは限らない」
「それを決めるのは、見てからだ」
セリアは短剣から手を離さず、俺たちを順番に見た。
◇
セリアは事情を聞き終えると、《淫獄》の中を歩いた。
新しい壁や棚にはほとんど興味を示さない。最初に見たのは食料庫だった。
「食料はこれだけか」
「ああ。干してはいるけど、長くは持たないよ」
ミラが答える。
「水は?」
「私が生成と浄化を行えます。ただし、無制限ではありません」
続いてアクアリアが答えた。
「外の水場までの距離は?」
「歩いて、それほどかからない」
「方角は」
「……分からない」
「地図は?」
「ない」
「入口から水場まで目印を残したか?」
「残してない」
セリアが目を閉じ、長く息を吐いた。
「よく戻れたな」
「アクアリアが水の気配を追えた」
「運がよかっただけだ」
「結果として戻れた」
「次も同じ結果になるとは限らない」
アクアリアと同じことを言う。
「壁の内側だけ整えても、外の場所が分からなければ籠と同じだ。出た人間が帰れなくなれば、この場所が安全でも意味はない」
「だから、外を調べてほしい」
「お前のためじゃない。私が元の場所へ戻る手がかりを探すためだ」
「理由は何でもいい」
「勝手な王だな」
「よく言われる」
セリアは短弓の弦を確かめた。
「外を見せろ。地形を確認する」
「私も行く」
ファステだった。
「駄目だ。傷が治ってない」
「入口の近くだけでいい。川まで、自分で見たい」
「追手がいるかもしれない」
「だから見たいの」
ファステは俺から目をそらさなかった。
「外がどうなっているか何も知らないまま、朝斗が帰ってくるのを待っているだけじゃ、自分で何も決められない」
「ここにいれば安全だ」
「安全でも、ずっと閉じこもっていたいとは言ってない」
言葉に詰まる。
「歩けるのか?」
セリアがファステへ尋ねた。
「川までなら」
「無理なら途中で戻す。私か水色の髪の女から離れるな。何か見つけても勝手に触るな。それを守れるなら、周囲を知っておいたほうがいい」
「セリアまで」
「逃げ道を知らない者は、逃げるときに死ぬ」
反対しているのは俺だけになった。
「川までだ。危険を感じたら、すぐ《淫獄》へ戻す」
「分かった」
ファステの表情が少しだけ明るくなった。
◇
外へ出たセリアは、その場からすぐには動かなかった。
土へ膝をつき、落ち葉を持ち上げる。木の幹に生えた苔を見てから、枝の隙間にある太陽を確認した。
「川はあちらだな」
「分かるのか?」
「空気が湿っている。それに、地面が緩く下っている」
アクアリアが示していた方向と同じだった。
セリアは短剣で木の表面へ浅い印を刻む。
「何をしてる?」
「帰る方向を残している。深く傷つければ遠くからも目立つ。私たちだけが分かる程度でいい」
歩き始めても、セリアはほとんど音を立てなかった。
俺とファステが落ち葉を踏む音のほうが大きい。アクアリアはファステのすぐ横につき、いつでも支えられる距離を保っている。
「止まれ」
セリアの腕が俺の胸へ伸びた。
「何だ?」
「右足を動かすな」
足元を見る。落ち葉の下から、細い縄がわずかにのぞいていた。
「罠か?」
「小型獣用だ。踏めば足を取られる」
「全然見えなかった」
「見えるように作る罠はない」
セリアは縄をたどり、曲げられた若木と簡単な仕掛けを見つけた。
「古いが、自然にできたものじゃない。近くに人がいた証拠だ」
「集落があるのか?」
「決めつけるな。猟師が通っただけかもしれない」
俺が前へ出ようとすると、外套の胸元をつかまれ、強く引き戻された。
「言った直後に罠へ近づくな」
背中がセリアの革鎧へぶつかる。片腕が俺の身体を抱えるように回り、顔のすぐ横で低い声がした。
「死にたいのか」
「確認しようとしただけだ」
「確認は私がする。お前はそこにいろ」
腕が離れる。
汗と革の匂いが、妙に意識へ残った。
セリアは何事もなかったように罠を解除し、縄だけを回収した。
「使えるものは持っていく」
「それは賛成だ」
「なら、荷物持ちをしろ」
渡された縄を肩へかける。
戦えなくても、運ぶくらいはできる。
◇
川へ着くと、ファステが周囲を見回した。
「ここで、肉を切ったの?」
「ああ。魔獣を倒したのは向こうだ」
アクアリアが魔獣の死骸を置いた方向へ目を向ける。
セリアは川ではなく、柔らかい岸辺の土を見ていた。
「誰か来ている」
「俺たちの跡じゃないのか?」
「違う。底の硬い靴が4人以上。川沿いを歩いたあと、森へ散っている」
セリアは足跡の縁を指でなぞる。
「昨日か、遅くても一昨日だ。一定の間隔で広がり、また集まっている。何かを探している歩き方だ」
ファステの顔から血の気が引いた。
「追ってきた人たちかもしれない」
少し離れた茂みに、黒い布が引っかかっていた。
ファステが近づこうとする前に、セリアが拾う。
布には、赤い糸で獣の牙に似た印が縫われている。
「知っているのか?」
「同じ印をつけてた。私を連れていた人たちが」
ファステの声が震える。
俺はすぐ《淫獄》の入口を開いた。
「ファステ、中へ戻ろう」
「でも――」
「約束だ。危険があれば戻る」
ファステは布片を見つめたまま、うなずいた。
アクアリアと一緒に入口をくぐる直前、ファステが振り返る。
「朝斗。見つけて」
「何を?」
「私が、いつまでも隠れていなくていい方法」
返事をする前に、ファステは《淫獄》へ入った。
入口を閉じる。
「守るだけでは足りないようだな」
セリアが布片を調べながら言った。
「分かってる」
「本当に?」
「今、分かった」
追手を遠ざける方法が必要だ。
だが、まず相手が誰で、どこから来たのかを知らなければならない。
「足跡を追えるか?」
「追える。だが、今日は追わない」
「どうして?」
「相手の人数も装備も分からない。こちらには、足手まといが1人いる」
セリアが俺を見る。
「俺か」
「ほかに誰がいる」
反論できなかった。
◇
セリアは川の下流を選んだ。
水の流れに沿えば、人の生活圏へ近づく可能性が高いらしい。
途中で食べられる根と木の実を見つけ、少量ずつ採取する。セリアは木へ印を残し、地面の傾きや目立つ岩の形を、焦げた板へ炭で書き込んだ。
やがて、獣道より明らかに広い踏み跡へ出た。
その先に、小さな小屋があった。
屋根の一部は崩れ、扉も外れている。中には人の気配がない。
「炭焼き小屋だな。長く使われていない」
セリアが先に入り、床と梁を確認する。
「入っていい。ただし、頭上に気をつけろ」
小屋には、欠けた鍋、傷んだ縄、粗い布、木製の桶が残されていた。壁際には湿気ていない薪も積まれている。
「全部持って帰れる」
「運べる分だけだ」
「《淫獄》を開けば、すぐ運べる」
俺が入口を開くと、セリアが初めて驚いた顔をした。
「本当に、どこでも開けるのか」
「今のところは」
「便利すぎるな」
「俺もそう思う」
欠けた鍋と桶を《淫獄》へ運び入れる。
小屋の外へ出ると、セリアが遠くを指した。
木々の隙間から、細い煙が空へ昇っている。
「火事か?」
「一定の細さで上がっている。炊事か、仕事で使う火だ。あの方向に人がいる」
「行ってみよう」
「今日は行かない」
「場所だけでも」
「追手がどこまで来ているか分からない。人里が味方とも限らない。装備を整え、逃げ道を決めてからだ」
専門家を呼んだ直後に、その判断を無視するのは違う。
「分かった。ここを外の拠点にする」
「決断だけは早いな」
セリアは遠くの煙を見たまま答えた。
◇
炭焼き小屋から《淫獄》へ戻ると、リディアとミラが持ち帰った道具へ飛びついた。
リディアは桶のひび割れを調べ、ミラは欠けた鍋の底を指で叩く。アクアリアは桶を洗えば水を保管できると判断した。
ファステは、追手の布片を握ったまま黙っている。
「あの小屋なら、木材を運び込む場所にも使えるわ」
「薪と食料を集める道も欲しいね」
「川へ近い入口も残してください。水を運ぶ距離が短くなります」
「追手から見つからない道も必要」
全員が外界との安全な往復を欲しがっている。
住民の欲望が《淫獄》の能力を開くという仮説が正しいなら、今こそ試せる。
「さっき入った炭焼き小屋とは別に、川辺へも戻れるか?」
問いかけても返事はない。
目を閉じて、外を意識する。
最初に感じたのは炭焼き小屋だった。直前に入口を開いた場所。これまでなら、そこしか選べなかった。
だが、その奥にもう1つ、川辺の感覚が残っている。
「2つある」
「何がです?」
「外へつながる場所。小屋と川辺を別々に感じる」
川辺を選び、入口を開く。
向こう側には、見覚えのある水と岩があった。
一度入口を閉じ、今度は炭焼き小屋を意識する。
再び開いた先には、崩れた屋根と積まれた薪が見えた。
「接続する場所が増えた」
表示は出ない。
《淫獄》も何も答えない。
「やっぱり、住民が本気で欲しがった機能ほど早く開くんだ」
俺の仮説が正しければ、住民が増えるほど欲望も増え、《淫獄》はさらに成長する。
そう考えた瞬間だった。
誰かと、目が合った。
姿は見えない。
声も聞こえない。
それでも、今まで触れたことのない何かが、力の向こう側から俺を見返した。
驚愕。
そして、焦り。
こちらを見つけたことへ驚き、こんなはずではないと焦っている。
そんな感情だけが一瞬で流れ込み、すぐに消えた。
「今の……何だ?」
振り返る。
入口の向こうには炭焼き小屋があるだけだ。部屋の中にも、ファステたちしかいない。
「どうしました?」
「誰かに見られた気がした」
セリアが即座に入口の向こうを確認する。
「人影はない」
「外じゃない。もっと遠くから、《淫獄》そのものを通して見られたような……」
説明しても、自分で意味が分からない。
「《淫獄》。今のは何だ?」
返事はない。
「2つの場所を同時に意識したせいで、感覚が混ざっただけかもしれない」
「自分でそう思っている顔には見えないわ」
リディアの指摘から目をそらす。
確証はない。
だが、何者かに見つかったという感覚だけは消えなかった。
◇
セリアが俺の前へ立った。
「腕を上げろ」
「何で?」
「罠へ近づいたとき、強く引いた。傷がないか見る」
「大丈夫だ」
「素人の大丈夫は信用しない」
セリアは俺の返事を待たず、肩と腕へ触れた。革鎧越しに身体が近づき、短い黒髪から汗の匂いがする。
外で背中を抱え込まれた感触まで思い出した。
近い。
命を助けられた直後だからなのか、褐色の肌と灰緑色の目から視線を外せない。
「痛むか?」
「いや」
「ならいい」
離れようとしたセリアの外套を、無意識に目で追った。
斥候を召喚しただけで、地図ができた。食べられるものが増えた。人里の方角と追手の存在が分かった。生活道具を持ち帰り、外界との接続先まで2つになった。
住民を召喚すれば、問題が解決する。
住民が増えれば、欲望も増える。
欲望が増えれば、《淫獄》は成長する。
《淫獄》が成長すれば、さらに多くの住民を呼べる。
止める理由が、また1つなくなった。
『《淫獄石》を3,000個獲得しました』
『所持《淫獄石》:3,000個』
「一気に3,000個……」
「また石か?」
ミラが嫌そうな顔をする。
「次を回せる」
「私が召喚されてから、半日も経っていない」
セリアが呆れたように言った。
「でも、セリアが来たことで全部進んだ」
「だから、また誰かを連れてくるのか」
「次も進む可能性がある」
召喚画面を開く。
『5回目通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:3,000個』
『所持《淫獄石》:3,000個』
『実行可能』
入口の向こうには、森がある。
その先には人の暮らす煙があり、ファステを追う者たちがいる。
さらに遠くでは、正体の分からない何者かが、俺の存在へ気づいた。
危険は増えている。
なら、それより速く《淫獄》を成長させればいい。
閉じた灰色の部屋だった俺の王国は、もう外界へ手を伸ばし始めていた。




