第5話 Rだからこその大当たり
召喚陣の中央で、ミラ・コレットが目を開いた。
最初に動いたのは、包丁を握っている右手だった。
ミラは反射的に刃を胸元へ引き寄せ、周囲を見回す。頭へ巻いた布の下から、焦げ茶色の髪が何本かこぼれていた。年齢は俺より明らかに上だ。使い込まれた前掛けも、日に焼けた腕も、料理場で長く働いてきたことを感じさせる。
「ここは……どこだい?」
低く構えた声には、混乱より警戒が強く表れていた。
「俺は白瀬朝斗。ここは俺のスキルで作られた《淫獄》っていう場所だ」
「いん……何だって?」
「俺がつけた名前じゃない」
もう何度目か分からない弁解を、今回も先に済ませる。
「あなたは通常《住民召喚》でここへ呼ばれた。勝手に呼んだことは謝る。でも、危害を加えるつもりはない」
「召喚?」
ミラの眉間に深いしわが寄る。
「ちょっと待ちな。あたしはさっきまで宿の厨房にいたんだよ。鍋の前に立って、客に飯を――」
そこでミラの声が止まった。
彼女の視線が、俺たちの後ろへ向いている。
灰色の床へ置かれた魔獣の肉だ。
警戒していたはずのミラが、包丁を下ろして肉へ駆け寄った。
「これ、いつ仕留めた?」
「ついさっきだけど」
「血抜きは?」
「してない」
「内臓は?」
「まだ身体のほうに残ってる」
「水はあるのかい?」
「少しなら」
「火は?」
「ない」
答えるたびに、ミラの顔が険しくなっていく。
「話はあとだ。このままじゃ、食べられるものまで食べられなくなるよ」
「食べられるのか?」
「それを今から確かめるんだよ」
ミラは肉へ鼻を近づけ、表面を指で押した。切断面と脂肪の色を確かめ、包丁の先で薄く切り取る。
少し前まで、自分が召喚されたことに動揺していたはずだ。それなのに、食材を前にした途端、目つきも動きも変わっている。
「水を見せておくれ。使える量を確かめたい」
「少しだけなら、ここに」
アクアリアが答え、小さな水球を浮かべる。ミラは目を丸くしたが、すぐに水の量を確かめた。
「驚いたね。あんたが出したのかい?」
「アクアリア・メルシェです。水の操作と浄化ができますが、今は魔力を消耗しています」
「だったら、肉を洗うために全部使うんじゃないよ。飲み水が先だ。濡らした布を1枚作れる程度でいい」
「分かりました」
「赤毛のお嬢さんは怪我人だね。座ってな」
「でも、私も何か――」
「倒れられるほうが困る。木の実と葉っぱを見て、食べたことがあるものだけ教えておくれ」
「はい」
最後に、ミラが俺を見る。
「あんたは?」
「何をすればいい?」
「平たい石と、乾いた枝。石は火に入れて割れそうなものを避けるんだよ」
「見分け方は?」
「分からなければ持ってきな。あたしが選ぶ」
召喚されてから、まだろくな説明もしていない。
それでもミラの指示で、全員が動き始めていた。
◇
俺が《淫獄》の外から枝と石を運び込む間に、ミラは肉を部位ごとに分けていた。
灰色の床には葉が敷かれ、食べられそうな肉と、捨てる部分が混ざらないよう離して置かれている。
「その肉はこっちへ置かないでください。先ほど取り除いた部分に触れています」
アクアリアが俺を止める。
「何が違うんだ?」
「こいつの背中にある岩みたいな突起。その根元に、ひどい臭いの液をためる袋があるんだよ」
ミラが包丁の先で、切り離した黒っぽい肉を示した。
「気づかず一緒に焼けば、全部駄目になる。毒があるかまでは分からないけどね」
「俺たちだけで食べてたら?」
「腹を壊すだけで済めば運がいい」
迷わず2回目を回してよかった。
もし召喚を先延ばしにしていたら、俺たちは食べられる肉を駄目にするか、危険な部位まで一緒に口へ入れていたかもしれない。
ミラは俺が集めた石を選び、床の上へ低く組んだ。その中央へ乾いた草と細い枝を置き、腰の道具袋から火打ち金を取り出す。
「火を起こせるのか」
「厨房に立つ人間が、火を持ってなくてどうするんだい」
ミラが火打ち金を乾いた草へ近づける。
「待ってくれ」
「今度は何だい?」
「ここで火をつけたら、煙が出るよな」
「そりゃあ出るよ。外じゃないのかい、ここは」
頭上を見上げる。天井はあるが、煙を逃がす穴はない。何も考えずに火をつければ、この空間へ煙がたまり、全員が苦しくなる。
入口を開けたままにするのは危険だ。外から何かが入り込む可能性を無視できない。
新しい部屋や煙突を作るような力も、今の《淫獄》にはない。
それでも、明るさを変えられたように、この空間の中なら少しくらい調整できるはずだ。
「火をつける前に試したい。煙が出ても、人のいないほうへ流して、ここから外へ出せないか?」
俺が強く意識すると、頬へかすかな風が触れた。
「できた」
「風だけで煙がどう流れるか分かるのかい?」
「たぶん。火をつけてみてくれ」
「頼りない返事だね。苦しくなったら、すぐ消すよ」
火花が乾いた草へ落ちる。ミラが息を吹き込むと、赤い火が生まれた。
《淫獄》で初めて見る炎だった。
枝を足すと、白い煙が立ち上る。煙は天井へ昇りきる前にゆっくりと向きを変え、俺たちから離れた壁際へ流れていく。灰色の壁へ触れた煙は、吸い込まれるように少しずつ消えていった。
「本当に流れた……」
ファステが煙の行方を目で追う。
思ったとおりだ。
俺が具体的に望めば、《淫獄》は可能な形を選んで応えてくれる。
「あんた、本当にここの王様みたいだね」
ミラが火を見ながら言った。
「みたい、じゃなくて王らしい」
「ずいぶん頼りない王様だこと」
「召喚されたばかりの人に言われたくないな」
「召喚した相手に、石拾いしか任せられない王様には言っていいだろう?」
ミラが初めて笑った。
警戒が解けたわけではないだろう。それでも、包丁を向けられていたときよりは話せそうだった。
◇
鍋はなかった。
ミラは太めの枝を削って串を作り、魔獣肉を薄く切って刺した。小さな塩入れから、指先で量を測りながら塩を振る。持っていた乾燥香草と、ファステが知っていた木の実を石の上ですり潰し、肉の表面へ塗りつけた。
「塩は、それだけしかないのか?」
「ああ。だから無駄にはできないよ」
「肉を保存する分は?」
「この量じゃ塩漬けには足りない。今日食べない分は、細く切って火のそばで乾かす。長くは持たないだろうけど、生のまま置くよりはましさ」
R。
召喚時に見えた文字を思い出す。
アクアリアはSSRだった。水を生み出し、傷を処置し、魔獣と戦える。比べれば、ミラは火も水も魔法では生み出せない。
だが、俺たちが持ち帰った肉を食料に変えられるのはミラだけだ。
レアリティが低いから役に立たないわけではない。少なくとも、今の俺たちにとっては完全な当たりだった。
「焼けたよ。最初はあたしが食べる」
「危険かもしれないぞ」
「だからだよ。調理した人間が確かめるのが筋だ」
ミラは小さく切った肉を口へ入れ、時間をかけて噛んだ。
「臭みは残ってる。でも、食べられないほどじゃない」
「身体は?」
「食べた瞬間に分かる毒ばかりじゃないよ。全員、最初は少しずつにしな」
ミラは串を4本並べた。
俺、ファステ、アクアリア、そしてミラ。
この場所へ来てから、初めての温かい食事だった。
恐る恐る肉へかじりつく。
少し硬い。獣独特の臭いもある。それでも塩気と香草の香りがあり、噛むたびに熱い脂が染み出した。
「うまい」
「その顔なら、お世辞じゃなさそうだね」
ファステも小さく肉をかじる。
何度か噛んだところで、その目に涙が浮かんだ。
「どうした? 苦いのか?」
「違う。温かいものを食べたの、久しぶりだから……」
ミラは何も聞かず、ファステの串へ少しだけ木の実の汁を足した。
「慌てて食べるんじゃないよ。空っぽの腹に詰め込むと、あとで苦しくなる」
「ありがとう、ミラさん」
「ミラでいいよ」
アクアリアも肉を口へ運ぶ。ゆっくり味わったあと、ミラへ向かって頭を下げた。
「限られた水と材料で、よくここまで整えられますね」
「料理人だからね。あんたが水をきれいにしてくれたおかげでもある」
「私は、言われた量を渡しただけです」
「必要な量を必要なだけ使えるのは、大したことさ」
ミラはそう言ってから、自分の串へ視線を落とした。
「うちの宿じゃ、最後はこの程度の肉も出せなかった」
火が小さく爆ぜる。
「食料がなくなったのか?」
「街道の先で争いが起きてね。荷馬車が来なくなった。そのうえ、焼けた村から逃げてきた人たちが宿へ押し寄せた」
ミラが召喚されたとき、持っていた木杓子の底には、わずかなスープが残っていた。
「倉にあった麦も豆も、全部鍋へ入れた。最後は水ばかりの薄いスープさ。それでも、子供に何も出さないよりはいいと思った」
「その途中で、ここへ?」
「最後の1杯を渡そうとしたところだった」
ミラの手が木杓子を強く握る。
「あたしが消えたあと、誰があの鍋を見るんだろうね」
答えられなかった。
ミラは今の俺たちに必要な人物だ。召喚してよかったと、さっきまで思っていた。
それでも、ミラを必要としていた人間は元の場所にもいた。
「戻す方法は、まだ分からない」
「まだ、か」
「探す。呼んだ側が言っても、信じられないかもしれないけど」
「信じるかどうかは、これからのあんたを見て決めるよ」
ミラは笑わなかった。
召喚されたからといって、俺の言葉を信じるわけではない。俺へ好意を持つわけでも、ここを新しい故郷と認めるわけでもない。
それで当然だった。
「アクアリアも、戻りたいのか?」
俺が尋ねると、アクアリアは手の中の串を見つめた。
「分かりません」
「分からない?」
「私が守っていた聖泉は、何年も前から少しずつ涸れていました」
彼女は胸元に下がる、ひび割れた青い石へ触れる。
「水が減るにつれ、村の人々は別の土地へ移っていきました。最後には、祈りに来る人さえほとんどいなくなりました」
「それでも残ってたのか?」
「私まで去れば、あの泉が本当に終わってしまうと思ったからです」
水のない聖泉。
人のいなくなった村。
アクアリアは、その場所で1人、涸れた泉を守り続けていた。
「泉を元に戻す方法は?」
「探しました。祈りも、浄化も、水脈を呼び戻す儀式も試しました。ですが、私にはできなかった」
「じゃあ、ここへ来られてよかったとは――」
「簡単には言えません」
アクアリアは俺を見る。
「ここで水を生み、ファステさんを救えたことには意味があります。今日も、あなたを守ることができました」
一度言葉を切り、静かに続ける。
「ですが、それと、故郷を失ったことは別です」
「……そうだよな」
ファステは追われていた場所から、自分の意思で俺の手を取った。
アクアリアは、誰もいなくなった場所へ最後まで残り、そこから召喚された。
ミラは、まだ自分を必要としている人々の中から突然連れてこられた。
同じ《淫獄》にいても、ここへ来た理由は全員違う。
「ファステは?」
俺が見ると、ファステは少し考えてから答えた。
「私は、あそこへ戻りたくない。でも……ずっとここにいるかは、まだ分からない」
一瞬、胸の奥が落ち着かなくなった。
ファステは《淫獄》最初の住民だ。この場所で一緒に暮らしていくものだと、いつの間にか考えていた。
だが、彼女は自分でここへ来ることを選んだ。ならば、いつか出ていくことを選ぶ可能性もある。
「分かった。決めるのはファステだ」
「うん」
ファステがほっとしたように微笑む。
その笑顔を見て、手放したくないという気持ちがわずかに強くなった。
だが、ファステをここへ縛りつけるつもりはない。
本人が出ていきたくないと思える場所を作ればいい。水も食事も、安全に眠れる場所もそろえて、外よりここで暮らしたいと思わせればいい。
俺は、それで十分だと考えた。
それからしばらく、誰も口を開かなかった。
ただ火の爆ぜる音を聞きながら、残った肉を食べた。
◇
食事が進むにつれ、張りつめていた空気が少しずつ和らいでいった。
火のそばで働き続けていたミラが、額の汗を手の甲で拭う。
「暑いね、ここ」
頭へ巻いていた布を外すと、まとめられていた焦げ茶色の髪が肩へ落ちた。ミラは前掛けの首紐を緩め、胸元へ風を入れるように服を引く。
汗に濡れた肌が、炎の光を受けて艶めいた。
「朝斗?」
隣からファステに呼ばれる。
振り向けば、彼女は肉の脂がついた指先を舐めていた。反対側では、アクアリアが濡れた髪を耳へかけている。
意識するなというほうが無理だった。
次は300個。
もう1度回せば、また今の問題へかみ合う女性が現れるかもしれない。
アクアリアで水が手に入った。ミラで食事が作れた。
次は何を解決できる?
もっと増やしたい。
もっと回したい。
その欲望を自覚した瞬間、胸の奥で何かが膨らんだ。自分で考えていたより、ずっと強い欲求だった。
『《淫獄石》を300個獲得しました』
『所持《淫獄石》:300個』
「は?」
「どうしたんだい?」
ミラが訝しげに俺を見る。
「一気に300個、貯まった」
「何が?」
「《淫獄石》。次の召喚に必要なものだ」
アクアリアの表情が険しくなる。
「先ほど100個をすべて消費したばかりでしょう?」
「そうだけど、今ので300個増えた」
こんなに簡単に貯まるとは思っていなかった。
いや、違う。
ついさっき森で100個へ到達したとき、最後に増えたのは8個だけだった。
あのときも、それまでより欲望が弱かったとは思えない。それなのに、92個から100個まで、必要な分だけ増えた。
「もしかして……必要な数に合わせて止めたのか?」
返事はなかった。
所持数を見直しても、表示されているのは300個という結果だけだ。
「余った分は、石にならなかった……?」
つまり、所持できる数に上限があるわけではない。
あのときの俺が欲しがっていたのは、2回目を回せる100個だった。だから不足していた8個だけが石になった。
今の俺が欲しがっていたのは、3回目を回せる300個だ。だから一気に300個が確定した。
俺の望みを読み取り、必要な形に調整している。
「やっぱり、俺の意思で制御できてる」
「本当にそうでしょうか」
アクアリアが静かに言った。
「何が?」
「その力があなたの欲求へ応えていることと、あなたが力を完全に制御していることは、同じではありません」
「でも、欲しい数で止まった」
「止めたのがあなた自身ならば、そうでしょう」
少し引っかかる言い方だった。
だが、《淫獄》が俺の考えを無視して暴走したわけではない。必要な数を超えて石を生み出し続けたわけでもない。
むしろ正確に応えている。
「少なくとも、今は問題ない」
「朝斗さんは、いつもそう言いますね」
アクアリアはそれ以上追及しなかった。
俺も召喚画面を開かず、残っていた肉へ手を伸ばす。
300個は貯まった。だが、今すぐ回す必要はない。ミラにはまだ事情を説明しきれていないし、食事も途中だ。
俺は欲望に振り回されているわけではない。
回せる状態でも待つことができる。
「ほら、あんたもちゃんと食べな」
ミラが焼けた肉を1切れつまみ、俺の口元へ差し出した。
「自分で取れる」
「話に夢中で、さっきから手が止まってるだろう。冷める前に口を開けな」
年上の女性に世話を焼かれ、その指先が唇のすぐ近くまで迫る。
少しためらってから、肉を口へ入れた。
「どうだい?」
「うまい」
「そうじゃなくて、次に焼いたほうだよ。香草を増やしたんだ」
ミラが俺の顔をのぞき込む。緩めた胸元。火照った肌。料理の感想を待つ、期待のこもった目。
さっきとは別の刺激に、欲望が再び動いた。
『《淫獄石》を45個獲得しました』
『所持《淫獄石》:345個』
「増えた」
「またかい?」
「今度は45個」
300個で止まっていたのは、所持上限ではなかった。
目標へ届いたあと、俺が次の召喚を意識したことで、《淫獄》も次の1,000個へ向かって動き始めた。
3回目を回しても45個残る。
次の4回目に必要なのは1,000個。残りは955個だ。
数字だけを見れば遠い。それでも、さっき一気に300個が貯まったことを考えれば、届かない数には思えなかった。
俺は通常《住民召喚》の画面を開く。
『3回目通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:300個』
『所持《淫獄石》:345個』
『実行可能』
「朝斗さん」
アクアリアの声には、はっきりと警戒が含まれていた。
「今すぐ回すとは言ってない」
「画面を開いています」
「確認しただけだ」
「同じことではないのかい?」
ミラまで加わる。
「あたしは、まだここがどこなのかも、元へ戻れるのかも、きちんと聞いてないよ。それに、人が増えれば食べる量も増える」
「分かってる」
「水があっても、食料が勝手に生えてくるわけじゃない。今日の肉だって、いつまでも持たないんだ」
「だから、食べ終わってミラの話を全部聞いてから回す」
「回さない、とは言わないんだね」
「必要な人が来る可能性がある。それを使わない理由はない」
アクアリアがため息をつき、ミラは呆れた顔で俺を見る。
ファステだけは何も言わず、俺の前に浮かぶ見えない画面があるらしい場所を見つめていた。
今すぐ実行を選ぶことはできる。
それでも俺は選ばない。
食事を終え、ミラの話を聞き、次に必要なものを考えてから回す。
順序は守っている。
俺はまだ、自分の意思で止まれている。
ただし、召喚画面を閉じる必要まではない。




