第4話 100個目の誘惑
森の奥から、低い唸り声が響いた。
アクアリアは短杖を構え、俺を背にかばう。淡い水色の光が杖先へ集まり、細い流れとなって周囲を巡り始めた。
「私から離れないでください」
「戦えるのは護身程度じゃなかったのか?」
「あなたを守るには、それで十分です」
即答だった。ずいぶん頼もしい言葉だ。ただ、それを証明するようなものが森から出てこないことを祈りたかった。
茂みが大きく揺れる。
姿を現したのは、狼に似た獣だった。四つ足で立っているのに、頭の位置が俺の胸元近くまである。灰色の背中には岩のような突起が並び、口の端から粘り気のある唾液を垂らしていた。
「……あれも、護身程度でどうにかなるのか?」
「少し黙っていてください」
「はい」
獣は低く身を沈めた。逃げるなら《淫獄》へ戻るしかない。そう考えたときには、すでに獣が地面を蹴っていた。
「下がって!」
アクアリアが短杖を振る。細い水流が一気に伸び、獣の前脚へ巻きついた。巨体が空中で傾く。それでも勢いは止まらず、獣は俺のすぐ横を通過して地面へ転がった。
「うわっ!」
尻もちをついた俺へ、アクアリアが叫ぶ。
「朝斗さん、立って!」
獣もすでに立ち上がっていた。脚へ絡みついた水を振り払い、怒りのこもった声を上げる。
「今ので倒せないのか」
「私は水を操れます。しかし、今ここにある水は多くありません」
アクアリアの周囲を巡る水流は、先ほどより細くなっていた。《淫獄》で水を作り、ファステの傷を処置した直後だ。魔力を消耗しているという話は本当らしい。
「逃げたほうがいいんじゃないか?」
「背を向ければ追われます」
「俺にできることは?」
「私の後ろから動かないでください」
「本当に、それだけ?」
「それが最も安全です」
分かっていたが、戦力として完全に数えられていない。
獣が再び走り出す。アクアリアは水流を鞭のように振るい、その顔を打った。水が目と鼻へまとわりつく。それでも獣は止まらない。
アクアリアが横へ動く。俺もついていこうとしたが、草へ足を取られた。
「待っ――」
身体が傾く。獣が迫る。
「朝斗さん!」
水流が俺の腰へ巻きつき、強く引かれる。俺の身体は地面を転がり、獣の爪が直前までいた場所を切り裂いた。
助かった。だが、アクアリアの顔色はさらに悪くなっている。
獣が向きを変えたとき、右の前脚がわずかに遅れた。最初に水を巻きつけられ、転倒した脚だ。体重をかけるたび、巨体が右へ傾いている。
「アクアリア、右の前脚だ!」
「何です?」
「さっきからかばってる。そこへ体重をかけられてない!」
アクアリアの視線が獣の脚へ動く。
「分かりました」
獣が3度目の突進を始める。
アクアリアは正面から止めようとせず、ぎりぎりまで引きつけた。細い水流を傷めた右脚だけへ絡ませ、横へ強く引く。
踏ん張れなかった獣が地面へ倒れる。
残っていた水が杖先へ集まり、細く鋭い刃へ圧縮された。
水の刃が獣の喉を切り裂く。獣は立ち上がろうともがいたが、傷めた脚では身体を支えられない。
アクアリアは水で頭部を押さえ、同じ場所へ2撃目を放った。
やがて、獣の動きが止まる。
アクアリアはすぐに杖を下ろさなかった。少し離れた位置から呼吸と魔力の流れを確かめ、完全に息が止まるまで警戒を続ける。
俺は動かなくなった獣を見ていた。血の臭いに胃の奥が持ち上がる。
「見なくていいです」
アクアリアが俺と獣の間に立った。
「無理に慣れる必要はありません」
「アクアリアは平気なのか?」
「平気ではありません。必要だからしただけです」
その言葉を終えた直後、アクアリアの膝が崩れた。
「おい!」
俺は慌てて手を伸ばし、どうにか肩を支える。
「大丈夫です。少し、魔力を使いすぎただけです」
「それを大丈夫とは言わない」
アクアリアは短杖を杖代わりにして立ち上がった。周囲を巡っていた水は、もう一滴も残っていない。
「助けてくれて、ありがとう」
「あなたも弱点を見つけたでしょう」
「それくらいしかできなかった」
「十分です。あれがなければ、さらに力を使っていました」
俺には戦う力がない。《淫獄》も、外界の敵を倒すために使えるわけではない。それでも、見つけたことを伝えるくらいはできた。
アクアリアが俺へ近づく。
「今度は、あなたの怪我を確認します」
「俺より自分の心配をしたほうがいい」
「地面を転がったのは、あなたです」
胸元へ手を当てられる。顔が近い。戦闘で乱れた水色の髪が頬へ張りつき、先端から水滴が落ちている。
さっきまで獣の前に立ち、迷わず俺を守っていた女性。その本人が、今は俺の無事だけを確かめている。
強く意識するなというほうが無理だった。
『《淫獄石》を12個獲得しました』
『所持《淫獄石》:92個』
「あと8個……」
「どこか痛むのですか?」
「いや。近いだけだ」
「近い?」
アクアリアが意味を理解し、すぐに手を離す。白い頬がわずかに赤くなった。
「怪我がないか確認しただけです」
「分かってる」
「本当に、ほかに痛むところは?」
「ない」
それでも彼女は疑い、俺の腕や脚へ視線を走らせる。赤くなった頬。濡れた髪を揺らしながら、俺の服についた泥と草を払う指先。その近さを意識すると、欲望がさらに膨らんだ。
『《淫獄石》を8個獲得しました』
『所持《淫獄石》:100個』
貯まった。
「今度は何です?」
「必要な石が100個になった」
「もう召喚するつもりですか?」
「ここでは回さない。《淫獄》へ戻ってからだ」
石が貯まっても、危険な森で使う必要はない。安全な場所へ戻ってから回せばいい。欲望に振り回されているわけではない。俺はいつでも止まれる。
「先に水場を探そう」
アクアリアは何か言いたそうだったが、短く息を吐いた。
「こちらです。ただし、私から離れないでください」
「分かった」
森へ深く入る必要はなかった。少し歩くと、岩の間を流れる小さな川が見えてきた。
「水だ」
「まだ飲まないでください」
アクアリアは川辺へ膝をつき、すくった水へ目を凝らす。青い光が水の中へ溶けたが、すぐに彼女の身体が揺れた。
「無理をするな」
「水質を確認しただけです。多少の濁りと、小さな生き物が混じっています。浄化すれば利用できますが、今の私が運べる量は多くありません」
アクアリアは川から小さな水球を引き上げる。先ほど《淫獄》で作ったものより、明らかに小さい。
「これだけか?」
「魔力を回復すれば、もっと運べます」
「なら、今日はこれでいい」
俺が川辺で《淫獄》を開くと、いつもの位置へ入口が現れた。アクアリアが小さな水球を操り、中へ移動させる。
水問題は解決へ向かっている。次は食料だ。
川辺には赤い木の実と、香りの強い葉が生えていた。アクアリアは強い毒を感じないというが、彼女の世界にはなかった種類らしい。少量だけ採取する。
それでも、3人分の食事には足りない。
「さっきの獣は食べられないのか?」
「安全だとは断言できません」
「でも、ほかに食べ物がない」
アクアリアは獣の死体を調べた。強い毒や腐敗は感じないが、食べられる保証はできないという。
「持ち帰るだけ持ち帰ろう」
アクアリアはもう水の刃を作れない。俺たちは獣の爪で傷ついた部位を避け、携帯していた小さな短刀で肉を切り分けた。
生温かい肉の感触に気分が悪くなる。それでも手を離さなかった。使える可能性があるものを捨てる余裕はない。
水、肉、木の実、香りの強い葉を《淫獄》へ運び込む。
食料候補は手に入った。しかし、未知の肉を安全に処理する知識がない。火を起こす道具も鍋もない。
◇
《淫獄》へ戻ると、ファステが顔を上げた。
「朝斗!」
「ただいま」
帰還を見て安心した表情は、水球を見てさらに明るくなった。しかし、続いて運び込まれた獣の肉には不安を見せる。
「それは……?」
「食料候補」
「候補?」
「食べられるか、まだ分からない」
水は手に入った。食料になりそうなものもある。だが、食べられるか判断できず、安全に調理する道具も知識もない。
俺は通常《住民召喚》を開いた。
『通常《住民召喚》実行回数:1回』
『次回必要《淫獄石》:100個』
『所持《淫獄石》:100個』
『実行可能』
「朝斗さん。もう呼ぶつもりですか?」
「ああ」
「私が召喚されてから、まだほとんど時間がたっていません」
「でも、水は確保できた。次の問題も分かった」
俺は魔獣の肉を指す。
「これを食べられるか判断して、料理できる人がいれば助かる」
「そのような方が現れる保証はありません」
「分かってる。それでも、使うために貯めたんだ。ここで使わない理由はない」
ファステは俺とアクアリアを交互に見る。
「また、誰か来るの?」
「成人女性が1人。ただし、誰が来るかは分からない」
アクアリアは俺をまっすぐ見た。
「一つだけ、約束してください。召喚された方を、表示された価値だけで判断しないことです」
「本人を見る。これでいいか?」
アクアリアは小さくうなずいた。
俺は通常《住民召喚》を選ぶ。
『《淫獄石》を100個消費します』
『2回目通常《住民召喚》を実行しますか?』
「実行する」
『《淫獄石》を100個消費しました』
『所持《淫獄石》:0個』
『2回目通常《住民召喚》を開始します』
灰色の床へ再び召喚陣が広がる。
食べられるか判断できる人。限られた材料から食事を作れる人。空腹の人間へ温かい料理を出せる人。
通常召喚では、誰が現れるか選べない。それでも《淫獄》が俺の必要へ応えるなら、今度もきっと――。
光の中に1人の成人女性が形作られていく。
頭へ布を巻き、使い込まれた前掛けを身につけている。片手には包丁。もう片方の手には、底にわずかなスープの残った木杓子。
腰の道具袋には、火打ち金と小さな塩入れが下がっていた。
俺の前へ召喚結果が表示される。
『R 《飢えた宿の料理番》 ミラ・コレット』
R。
初回のSSRより低い。その文字を見た瞬間、ほんのわずかに期待が下がりかける。
しかし、続く二つ名と、彼女が持つ道具を見て、すぐに目の前の魔獣肉へ視線を移した。
「料理番……」
「今、何か分かったのですか?」
アクアリアが尋ねる。俺はレアリティについては答えなかった。
「たぶん、今の俺たちに必要な人だ」
召喚陣の中央で、ミラ・コレットが目を開いた。




