第3話 枯れた聖泉の守り人
召喚陣の中心へ光が集まっていく。
白く輝く輪郭が、少しずつ1人の女性の姿へ変わる。背丈は俺より少し低い。腰近くまで伸びた長い髪が、光の中で水中にいるように揺れていた。
細い肩を覆うのは、白と青を基調とした長衣だ。神官服にも見えるが、裾は汚れ、ところどころ擦り切れている。旅をしてきたというより、長い間、手入れする余裕がなかったように見えた。
女性の輪郭が完全に形作られたとき、俺の前へ新しい表示が現れた。
『初回通常《住民召喚》が完了しました』
『SSR 《枯れた聖泉の守り人》 アクアリア・メルシェ』
「SSR――」
そこまで口にして、俺は止まった。
アクアリア・メルシェ。名前はともかく、本人をレアリティで値踏みするような言葉は口にできなかった。
「えす、えす……?」
ファステが不思議そうに聞く。
「いや、何でもない」
俺は表示を閉じた。
光が消える。召喚陣の中央に立つ女性の姿が、はっきりと見えるようになった。
淡い水色の髪。澄んだ青い瞳。人間よりわずかに尖った耳。胸元には、ひび割れた青い雫形の石が下がっている。
女性は目を開いた。
最初に見たのは俺ではなかった。床。壁。天井。出入口のない灰色の空間を素早く見回し、それから俺とファステへ視線を移す。
驚いていないわけではない。けれど、声を上げるより先に状況を把握しようとしている。
俺の服装。何も持っていない両手。床へ座り込んでいるファステ。彼女の腕に残る痣と、手首の傷。最後に、もう1度俺を見る。
「ここはどこですか」
静かな声だった。
「あなたたちは、どなたです?」
丁寧な言葉とは裏腹に、その目は警戒している。当然だ。俺だって、いきなり知らない部屋へ呼び出されれば同じ反応をする。
「俺は白瀬朝斗。こっちはファステ・フェルン」
「……ファステです」
ファステが小さく頭を下げる。
「ここは《淫獄》という場所らしい」
「淫獄?」
女性の眉がわずかに動いた。
「待ってくれ。俺がつけた名前じゃない」
「あなたが、ここの主ではないのですか?」
「主ではある。たぶん」
「たぶん?」
説明を始めて数秒で信用を失っている気がする。だが、分かっていないことを分かっているふりはできない。
「俺も今日、この世界へ来たばかりなんだ。そのとき《淫獄の王》という固有スキルを与えられた。ここは、その能力で入れる別の空間らしい」
「別の空間……」
「外の世界とは切り離されている。俺が入口を開かない限り、外からは入れない」
女性はもう1度、灰色の壁を見回す。窓も扉もない。俺の説明を信じるしかない状況だが、それだけで信用する様子はなかった。
「では、私をここへ連れてきたのも、あなたですか?」
「そうなる」
「なぜです?」
「新しい住民を呼ぶ機能があったから、使った」
「私を選んだのですか?」
「いや。召喚されるのが成人女性だということ以外、俺には選べなかった。種族も、能力も、名前も、何も知らなかった」
女性の表情が硬くなる。
「私の意思とは関係なく?」
「ああ」
否定できない。通常《住民召喚》を実行したのは俺だ。誰が来るか分からなくても、誰か1人の人生を動かすことだけは分かっていた。
「元の場所へ戻してください」
「……今の俺には、戻す方法が分からない」
女性の青い瞳が鋭くなる。
「分からない?」
「隠しているわけじゃない。表示されている機能には、元の世界へ戻すものがない」
「それを確認せず、私を呼んだのですか?」
「そうだ」
言い訳はできなかった。初回無料。その言葉に引かれて実行した。役に立つ住民が来るかもしれないとも考えた。だが、召喚される側が何を失うのかまでは、深く考えていなかった。
「すまない」
女性は答えない。怒鳴ることも、泣くこともなかった。ただ、胸元の青い石を握り締める。ひび割れた石だった。彼女にとって大切なものなのだろう。その手が、わずかに震えている。
「戻す方法が見つかったら、隠さず伝える」
「私がそれを信じると?」
「今は信じなくていい」
信用されるようなことを、俺はまだ何もしていない。
女性が俺を見つめる。しばらく沈黙が続いた。先に視線を外したのは彼女だった。
ただし、俺から目をそらしたのではない。ファステを見た。
「あなた」
「……はい」
「腕を見せてください」
ファステの身体が強張る。女性は近づこうとして、その反応に気づき、足を止めた。
「無理に触れるつもりはありません。しかし、その傷は放置しないほうがいい」
「治せるんですか?」
俺が聞く。
「診なければ分かりません」
女性はファステと目線を合わせるように膝をついた。
「触れても?」
ファステは迷い、俺を見る。
「ファステが決めていい」
俺が答えると、彼女は小さくうなずいた。
「お願いします」
女性は、ファステの腕を慎重に取った。傷へ触れないよう袖を動かし、痣と擦り傷を確認する。
「骨は折れていないと思います。ですが、かなり衰弱していますね。最後に十分な水を飲んだのはいつですか?」
「覚えていません」
「食事は?」
「昨日、少しだけ……」
女性の表情が曇る。
「傷を洗う必要があります。清潔な布と、飲み水も」
「どっちもない」
俺は正直に答えた。
「ここには水も食料もない。俺たちも、少し前に菓子を分けて食べただけだ」
「水が、ない?」
女性は目を見開いた。初めて、静かな表情が大きく崩れた。胸元のひび割れた石を握ったまま、部屋を見回す。
「井戸は?」
「ない」
「水瓶や貯水槽は?」
「何もない」
女性は黙り込んだ。
「外へ出れば、どこかに川か泉があるかもしれない。でも、俺には場所が分からない」
「外の地形は?」
「草原と森だ。近くで獣の声も聞こえた」
「あなたは戦えますか?」
「枝を3回振ったら腕が痛くなった」
女性は俺を見た。冗談かどうか判断しようとしているらしい。
「本当だ」
「……そうですか」
少しだけ声が冷たくなった。仕方がない。俺だって、自分の弱さにはがっかりしている。
「ですが、今すぐ外へ出る必要はありません」
女性はファステの腕へ視線を戻した。
「水なら、私が用意できます」
「水を持っているのか?」
「いいえ。作ります。水精族には、水を生み、操る力があります」
女性が片手を上へ向ける。青い光が、その手のひらへ集まり始めた。水精族の力へ、長年磨いた制御技術を重ねているのだろう。魔力が澄んだ水へ変わっていく。
澄んだ水が生まれた。水は床へ落ちず、丸い塊となって女性の手の上へ浮かんでいる。
「器が必要ですね」
「器……」
ない。この部屋には本当に何もない。
俺は何か代わりになるものがないか、自分の持ち物を確認する。財布。スマートフォン。鍵。空になった菓子の袋。
「これじゃ無理か?」
袋を差し出す。
女性は少し困った顔をした。
「清潔とは言い難いですが、何もないよりは」
彼女が指先を動かすと、菓子の袋の内側を薄い水が流れた。残っていた細かな欠片と汚れを洗い流す。汚れた水だけを小さな球へまとめ、床の端に移す。その後、改めて清水を注いだ。
「1度に飲んではいけません。少しずつです」
ファステが両手で袋を受け取る。最初は戸惑っていたが、水を1口含んだ瞬間、その目が揺れた。
「……おいしい」
「急がなくていいですよ」
女性の声が少し柔らかくなる。
ファステが水を飲んでいる間に、彼女は新しい水を作った。今度は細い帯のように操り、ファステの傷口を洗っていく。泥と血が流れ落ちる。
ファステは一瞬だけ痛みに顔をしかめたが、女性は手を止めなかった。
「少し染みます。ですが、汚れを残すほうが危険です」
「はい」
傷を洗い終えると、水色の光がファステの腕を包んだ。腫れがわずかに引き、荒かった呼吸も少しずつ落ち着いていく。
「治ったのか?」
「完全には。傷を清めて、身体が回復しやすい状態へ整えただけです」
女性の額に薄く汗が浮かんでいた。水を作り、傷を洗い、さらに回復を助けた。短い時間に続けて力を使ったせいだろう。




