第2話 初回無料という悪魔
『《淫獄》に最初の住民が登録されました』
目の前に浮かんだ文字を、俺は黙って見つめた。
『条件達成を確認』
『《淫獄の王》Lv.1――機能の一部を解放します』
最初の住民。それは、隣にいるファステのことだろう。俺が彼女を《淫獄》へ連れてきたことで、何らかの条件を満たしたらしい。
表示が薄くなり、代わりに新しい項目が現れる。
《住民管理》。
《淫獄石》。
通常《住民召喚》。
《淫獄》基本情報。
「一気に増えたな……」
「何が?」
ファステが不思議そうに首をかしげる。どうやら、この文字は彼女には見えていないらしい。
「俺にだけ見える表示があるんだ。たぶん、この場所の機能について書いてある」
「あなたにだけ……」
「ああ。今、何ができるのか確認してる。少し待ってくれ」
理解できていないことを、そのまま説明するのは危険だ。まずは1つずつ確かめる。
俺は《住民管理》へ意識を向けた。表示が切り替わる。
『登録住民』
『ファステ・フェルン』
『区分:現地加入』
『状態:滞在中』
本当にファステの名前がある。
彼女は俺が召喚した存在ではない。この世界で出会い、本人の同意を得て《淫獄》へ受け入れた。そのため、現地加入という扱いになっているらしい。
住民登録という言葉へ意識を向けると、初めて扱う機能の注意事項だけが続いた。
『住民登録によって人格および記憶が変更されることはありません』
『王への忠誠、服従、好意および恋愛感情は付与されません』
『登録住民の行動は、本人の自由意思に基づきます』
「ずいぶん細かいな」
王の住民と聞けば配下や臣下を想像するが、これは居住資格に近いらしい。ファステの心や行動を縛るものではない。当たり前のことなのに、少し安心した。
「ファステ」
「何?」
「君は、この場所の住民として登録されたらしい」
彼女の肩が小さく揺れた。
「住民……?」
「ああ。でも、ここで暮らせるようになっただけだ。君の記憶も意思も、そのままらしい。出たいと思えば自分で出られる」
「あなたに従わなくても?」
「もちろん。住民だからって、俺のものになるわけじゃない」
口にしてから、少し偉そうだったかと思った。しかし、ファステは茶化さなかった。
ファステは何も言わなかった。灰色の壁へ視線を向け、それから俺を見る。
「ここから、出られるの?」
「出られる。ただ、今すぐ戻るのは危ない」
俺たちが消えてから、まだそれほど時間はたっていない。追手が周囲を探している可能性が高い。
「俺が外を確認する。それまでは、ここにいたほうがいいと思う」
「外へ出たら、あなたは戻ってこられる?」
「戻れる」
即答した。実際に1度出入りしている。《淫獄》が俺の意思へ従う感覚もある。そこは疑っていなかった。
「俺が外にいる間も、ここは消えない。たぶん、君もここに残れる」
「たぶん……」
「そこは、これから確認する」
ファステの表情が曇る。当然だ。俺にとって《淫獄》は、自分の意思で動かせる領域だ。しかし彼女にとっては、出入口すら見えない密室でしかない。俺が戻らなければ、1人で閉じ込められるかもしれない。
「無理に残れとは言わない。外へ出たいなら出す。でも、追ってきた連中が近くにいる。今はここにいたほうが安全だ」
ファステは傷ついた腕を抱いた。その手首には、何かで長く締めつけられていた跡が残っている。
「……ここにいさせて」
小さな声だった。
「あの人たちがいなくなるまででいい。だから、それまでは……」
「分かった」
俺はうなずいた。ファステがここへ残ることを選んだ。俺が命令したわけではない。それでいい。
彼女の緊張がわずかに緩む。その途端、身体から力が抜けたらしい。ファステは壁へ手をつき、その場に座り込んだ。
「大丈夫か?」
「少し疲れただけ」
少し、という状態には見えない。服は泥で汚れ、腕にはいくつもの痣がある。呼吸もまだ浅い。
「傷を見せてもらってもいいか?」
ファステの身体が強張った。俺はすぐに両手を上げる。
「触らない。必要なら手当てをしたいだけだ」
「手当てできるの?」
「……道具があれば」
改めて室内を見回す。灰色の床。灰色の壁。それ以外は何もない。水も、布も、薬もない。治療の知識だってない。
「ごめん。今は何もできない」
「謝らなくていい。助けてもらったから」
「ここへ連れてきただけだ。水すらない」
安全な場所を用意できても、傷を治せるわけではない。腹を満たすこともできない。
俺はポケットを探り、小さな菓子を取り出した。転移前に買った、今ある唯一の食料だ。
「これ、食べるか?」
「それは、あなたのものでしょう?」
「半分にする」
「でも……」
「俺1人で食べても腹の足しにならない。2人なら、もっと足りない。それなら半分ずつでいい」
自分でも理屈になっていないと思う。だが、ファステだけに渡せば彼女は受け取らないだろう。
袋を開け、菓子を半分に割る。少し大きくなったほうを差し出すと、ファステは迷った末に受け取った。
「ありがとう」
「礼はいい。これから水も探さないといけないしな」
2人で灰色の床へ座り、菓子を食べる。1口でなくなりそうな量を、ファステは大切そうに少しずつかじっていた。
表情から、ほんの少しだけ緊張が消える。怯え続けていた瞳が柔らかくなり、口元にかすかな笑みが浮かんだ。
きれいだと、思った。
泥で汚れていることも、腕に傷があることも関係なく、その笑顔へ目を奪われた。
直後、目の前に表示が現れる。
『《淫獄石》を獲得しました』
「……は?」
黒とも赤ともつかない色の小さな結晶が、表示の中で光っている。《淫獄石》。先ほど解放された項目と同じ名前だ。
俺が詳細を知ろうとすると、説明が浮かび上がった。
『《淫獄石》は、《淫獄の王》の性的欲望から生成されます』
「…………」
俺は無言で表示を閉じた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「でも、顔が赤い」
「本当に何でもない」
最悪だった。
目の前には、追手から逃げ、傷つき、疲れ切った女性がいる。その女性を見て性的欲望から石を生みました、と能力に宣告された。人として終わっている。
いや、待て。
俺はファステの傷を見て喜んだわけではない。彼女が苦しんでいることを望んだわけでもない。少し笑った顔がきれいだと思っただけだ。それも駄目なのか。
もう1度、恐る恐る表示へ意識を向けた。しかし、同じ1文が浮かぶだけで、それ以上の説明はなかった。
俺は直前に起きたことを思い返す。成人女性を見ただけで必ず生まれるなら、ファステと出会った時点で石が出ていたはずだ。
初めて見た笑顔だったからか。
彼女が自分の意思で俺の手を取ったからか。
俺との関係が変わった瞬間だったからか。
それとも、単純に俺の好みに触れたからか。
どれか1つかもしれないし、全部が重なったのかもしれない。同じことを繰り返せばまた生まれるのか、慣れれば減るのか、それすら表示は教えてくれなかった。
ただ、同情や安心だけで生まれたわけではない。それだけは、表示された「性的欲望」という言葉から分かる。
つまり、ファステが自分の意思でここに残ると選び、ようやく見せた笑顔を、俺が1人の女性として意識した。その結果だと考えるのが自然だった。
そう考えても、気まずさは消えなかった。俺はファステから少しだけ視線をそらす。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと、自分の能力のひどさを再確認しただけだ」
「やっぱり変な力なの?」
「名前から想像するより、たぶんもっとひどい」
ファステは困ったように俺を見た。詳しく説明する勇気は、まだなかった。
俺は気を取り直し、《淫獄石》の用途を確認する。石を使うことで、《淫獄》の機能を利用できるらしい。
現在、選べる項目は1つだけだった。
『通常《住民召喚》』
『《淫獄》へ新たな住民を1人召喚します』
『召喚対象は成人女性に限定されます』
『召喚対象の種族、容姿、能力、性格および経歴は指定できません』
新たな住民。つまり、ファステとは別の誰かを、この場所へ呼べるということだ。
召喚されるのは、必ず成人女性。ただし、人間が現れるとは限らない。種族も、容姿も、能力も、性格も選べない。
最後に、初回実行前の注意事項が表示された。
『召喚住民は独立した人格、記憶および自由意思を持ちます』
『王への忠誠、服従、好意および恋愛感情は付与されません』
『召喚後の行動および《淫獄》への滞在は、本人の意思に基づきます』
成人女性だけが現れる。しかし、俺の好みに合う保証はない。
強い女性かもしれない。戦う力を持たない女性かもしれない。人間かもしれないし、見たこともない種族かもしれない。
俺へ協力してくれるとも、ここへ残ってくれるとも限らない。誰が現れるのかは、実行するまで分からない。
「これ、本当にガチャじゃないか」
「ガチャ?」
「何が出るか分からない仕組みのことだ」
「人を呼ぶのに?」
「ああ。人を呼ぶのに」
自分で説明すると、改めてひどい能力だと思う。だが、それ以上に気になることがあった。
必要な《淫獄石》の数だ。
表示を確認する。
『初回必要数:0個』
「無料?」
見間違いではない。現在の所持数に関係なく、初回だけは石を消費せずに召喚できる。
ただし、分かるのはそれだけだった。2回目以降に必要な数は表示されていない。
「2回目から、どうなるんだ?」
表示は答えない。
初回無料ということは、次から《淫獄石》が必要になるのだろう。それでも、最初から途方もない数を求める仕組みではないはずだ。
まずは少ない数で次の召喚を促し、回数を重ねるごとに必要数を増やしていく。ガチャなら、そうなっているはずだ。
「いきなり大量に要求するわけじゃないよな。2回目は100個くらいで、3回目は300個。それから1,000個……そんな感じか?」
そう呟いた瞬間、表示が揺らいだ。
「え?」
何もなかった場所へ、具体的な数字が並ぶ。
『初回:無料』
『2回目:100個』
『3回目:300個』
『4回目:1,000個』
『5回目:3,000個』
『6回目以降:10,000個』
「……増えた?」
さっきまではなかった表示だ。俺が口にした数字だけではなく、その先まで段階的な価格が作られている。
ただ隠されていた価格が出てきたのか。それとも、俺がガチャならこうなるはずだと思ったから、《淫獄》がその先まで形にしたのか。
問いかけても表示は答えない。
それでも、数字が現れたのは俺が口にした直後だ。明るさや出入りを制御したときと同じように、王である俺の意思が《淫獄》の仕組みへ反映された。俺はそう判断した。
ならば、思いつきで条件を口にするのは危険だ。同時に、正しく設計できれば、この領域を俺の望む形へ成長させられる。
「やっぱり、俺が育てられるんだ」




