【Day13】純白の拘束衣と、幻の煙
土曜日の午前。私は自室の大きな姿見の前に立ち、息を潜めていた。
「……少し、肩のラインが硬いわね。リラックスして」
私の背後に回った母が、待ち針を口に咥えながら、私が着ている純白のワンピースの背中をきゅっと摘み上げる。
来週行われる、父の会社関係のレセプションパーティーに着ていくためのドレスの仮縫いだ。母の冷たく美しい指先が、私の首筋から肩甲骨へと滑り、骨の角度をミリ単位で矯正していく。
「背筋を伸ばして。あなたは私の最高傑作なのだから、どこに出しても恥ずかしくないように、完璧でいなければならないのよ」
母の言葉は、以前の私にとっては絶対的な法であり、唯一の存在意義だった。
「最高傑作」と呼ばれるたびに、私は自分の空っぽの輪郭が美しいガラスで縁取られていくような安心感を覚えていたはずだった。
けれど、今は違う。
母の指が触れるたび、私の肌はひどく粟立ち、拒絶反応を示していた。
(冷たい……)
母の手は、恐ろしいほど冷たくて、なめらかだ。
その感触を味わうたびに、私の脳裏に蘇ってくるのは、月曜日に私の手首を強引に掴んで人波から引きずり出した、あのざらついた熱い手のひらだった。
タバコの匂いが染み付いた、少し骨ばった無作法な指先。
私の『完璧な比率』など気にも留めず、有無を言わさぬ力で私を動かした、あの乱暴な熱。
「朱里? どうしたの、上の空ね。目を瞬きすぎよ」
母の鋭い声に、私はビクッと肩を震わせた。
「……ごめんなさい、お母さん。少し、疲れているみたいで」
「そう。大学なんていう無秩序な場所に通い始めたから、気が立っているのね。今夜は特別に、精神を安定させるハーブティーを淹れてあげるわ」
ハーブティー。
母が厳選した、完全無農薬の、澄み切った黄金色の液体。
それを想像した瞬間、私の胃の奥から強烈な吐き気が込み上げてきた。
違う。私が欲しいのは、そんな正しくて美しい飲み物じゃない。
火曜日に飲まされた、舌が痺れるほどチープで甘い、あの百二十円の泥水だ。
そして、それを「飲めば」と強制してくれる、絶対的な飼い主の声だ。
姿見の中の自分を見つめる。
純白のドレスに身を包み、髪を完璧に結い上げられた私は、まるで美しい棺桶に納められた死体のように見えた。
母の作り上げたこの無菌室は、今の私にはただの真空状態にしか感じられない。純度百パーセントの正しい酸素は、今の私の肺を焼け焦がす猛毒だった。
早く、月曜日になってほしい。
早くあの大学という混沌に戻って、彼を見つけ出したい。
そして、彼が吐き出す不純物だらけの煙を、肺の奥深くまで吸い込みたい。
私は、母が背中の布地を待ち針で縫い止めていくかすかな痛みを感じながら、ただひたすらに、幻の紫煙の匂いを渇望し続けていた。
狂いそうなほどの息苦しさの中で、彼という『濁り』だけが、私を生かしてくれる唯一の希望に変わっていた。
【本日の水質記録】
濁度: 4%(維持)
状態: 純度100%の無菌水(母の環境)に対する明確な拒絶反応(吐き気)を観測。汚染源(周防)への依存が限界点に達し、月曜日への異常な執着を見せる。




