無菌の箱と、見えないマス目
【Day0】
「顎を引いて。右肩のラインが、ほんの少しだけずれているわ」
鏡の前で、母の冷たく細い指が私の首筋に触れる。
ぴたりと息を止め、指摘された通りに姿勢を微調整すると、母の口元にようやく満足そうな微笑みが浮かんだ。
「完璧よ。あなたはこの比率でいる時が、一番美しいわ」
私の世界は、見えない厳密なマス目で区切られている。
髪の毛先の揃い具合、純白のブラウスの襟の角度、そして肩幅から腰にかけての身体のカーブ。
母の瞳の奥には常に精緻なグリッド線が引かれていて、私はその指定された枠内に、一ミリの狂いもなく収まらなければならない。
少しでもマス目からはみ出せば、それは作品の価値を下げる『エラー』として、優しく、しかし絶対的な力で修正される。
自分の意志で動けば、この完璧な枠組みを壊してしまう。だから私は、ショーケースに飾られた精巧なガラス細工のように、ただ静かに呼吸だけを繰り返す。
着る服も、交わるべき友人も、すべて親がリストアップした「正解」の中から選んできた。
十八歳になるまで、私の世界は温度管理された、濁り一つない無菌の水槽だったのだ。
息苦しいだなんて、思ったこともなかった。
明日から始まる大学生活も、母が綿密に計算したこの「枠」の中で、美しく透き通ったまま過ぎていく。そう疑いもしなかった。
【本日の水質記録】
• 濁度: 0%
• 状態: 見えない枠で固定された無菌状態。少しでも動けばエラーとして修正される。




