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第十六話 涙

 履いていたスニーカーを脱いで下駄箱の中にある茶色のスリッパに履き替える。

 他の学年は校章とスリッパの色が同じなのに、何故か僕たちの学年は違っていて、校章の色は青色、スリッパは茶色なのだ。何故そのようになっているのか、僕は知らない。

 普段なら人が多くいるはずの昇降口には――少なくとも、僕たちのクラスの下駄箱付近には僕以外誰もいなかった。

 同じクラスだとしても、体育祭や文化祭の準備でそれぞれ集合時間が違うのだ。事実、既に校庭からは掛け声が聞こえていて。恐らく、体育祭の応援団のものだろう。

 僕が担当しているクラス企画は一応いつも通り学校に来る時間帯に集合しようということになっているので、決して僕が遅過ぎるという訳ではない。

 これでも、はやる気持ちを抑えていつも通りに来たのだ。それは、文化祭の準備が楽しみだから、という理由では勿論ない。

 スニーカーを下駄箱に入れていたら、視界の端で何かが動いた気がした。あれ、と思ってそちらを見遣れば、下駄箱に隠れるようにして誰かがいることに気がついた。


 ……うわー、出たー。


 内心で顔を歪めたがそれを表情に出すことはしない。

 無視して通り過ぎようとしたら、不意に足を引っ掛けられて転びそうになった。

 前のめりになりつつ、何とか堪える。……あっぶな!


「何するんですか先輩!」

「君が私を無視して通り過ぎようとするからだよ」


 キッと睨めば、悪びれることなく先輩が言った。

 やれやれと首を振るその姿が、私は何も悪くないと言っている。……確かに無視しようとしたけどさ!

 息を一つ吐いて、憤慨する気持ちを鎮める。ここで相手のペースに巻き込まれてはいけない気がした。

 ゆっくりと僕は先輩に問うた。


「それで、こんなところで待ち伏せして僕に何の用ですか?」


 いつだって、この人が僕の目の現れるのは何か目的がある時だ。それも、全ては香宮さん関係のことで――。

 問われた先輩は顔から感情を消した。

 紅い眼鏡を押し上げて、すっと目を細める。


「この数日間、君もいろいろと考えただろう?それで、君の考えを教えてもらいたいと思ってね。まあ、ここじゃなんだし、場所を変えようか」


 そう言って、先輩が歩き出す。恐らく、社会科室に向かうのだろう。

 でも、僕は動かなかった。

 距離が離れて行く後ろ姿に、僕はぽつりと言葉を発した。


「……ませんよ」

「ん?」


 振り返った先輩が訝しげに僕を見る。それでも、僕は怯まなかった。


「先輩には、話しません。最初に香宮さんに伝えるんだって決めているんです」


 そうだ。僕は、香宮さんに伝えるんだ。

 声に出したことにより、自分の決意がより一層固まった気がした。


「でも、これだけは言えます。心配しなくても大丈夫って先輩は言っていましたけど、そんなこと言われても無理ですよ。僕は、香宮さんを心配します。でも、同情からじゃない。大切な子を気にかけるのは当たり前のことだから」


 はっきりと僕は告げた。

 僕の言葉を聞いた先輩は口を半開きにしてぽかんとした様子で目を瞬かせた。

 そして、突如ふふっとふき出した。どうやらツボに入ってしまったようで、薄らと目に涙までためている。

 ああ、これは暫く待たないと無理かなぁと思った。経験論だ。

 一頻り笑った後、先輩が髪を掻き上げながら口を開いた。


「そうだね。全くもってその通りだ。日咲ちゃんへの言葉を私が聞くなんてそんなことお門違いもいいとこだ」

「先輩?」

「一喝するか駆除するかどうしようか迷っていたけど……そうか、ちゃんと決められたのか」

「あのー……」


 独り言のような呟きの中に何やら不穏な言葉が混じっていたような気がするのだが。

 無視することも出来ずに声を掛ければ、先輩の視線がこちらを向いた。


「そういうことなら、私から言うことは何もないね。早く日咲ちゃんに告げてきなさいな」

「言われなくても告げますよ」

「どの口が言ってるの。第三者に言われないと行動できないくせにー」

「ちゃ、ちゃんと言えますよ!」

「えー、心配だなぁ……。でもまあ、高瀬くんなら大丈夫か」


 先輩は目にたまっていた涙を拭って、ふんわりと微笑んだ。その笑みを見て、あたたかい気持ちが湧き上がってきた。


「先輩は、何だかんだで優しいですよね」

「今更気がついたのかい?」

「……すみません、さっきの言葉訂正します」

「やっぱりちゃんと言えないのか。ヘタレだもんね」

「そっちじゃありません」


 先輩がニヤリといつも通りの意地の悪い笑みを浮かべる。うん、そっちの方が先輩らしいや。



   *



 教室に行けば、既に香宮さんがいた。同じクラス企画担当となった女子と何やら会話をしている。

 少しだけ怖じ気づきそうになる自分を叱咤して、僕は勇気を出して香宮さんの元へ行こうとした、のだが――


「お、来たなー響!お前来るのが遅いぞ」


 見事友人に捕まってしまった。


「いつも通りの時間だけど?」

「いやいや、もうちょい早く来ようぜ。年に一度、高校生になってからの初めての文化祭なんだし、気合い入れていこうぜ!」

「ほんとイベント好きだよなお前……」


 やけにテンションが高い友人に絡まれて、悲しきかな、僕の勇気は不発に終わってしまった。

 その後直ぐに企画担当者全員が揃ったため、僕たちは文化祭のクラス企画についての話し合いを始めた。

 看板やポスター、内装や外装、バザーに出す物品について等、様々なことを話し合う。

 ゲームに出て来る店っぽい感じにしたいという友人の提案は見事受理された。


「よっしゃあー!」


 拳を握り高らかに叫んで喜びを露わにする友人を見て、みんなが笑う。その中には、勿論香宮さんもいた。

 香宮さんも僕も発言はするものの、当たり前だが二人だけで話している訳ではない。みんなで話しているからか、気まずさもあまり感じなかった。だけど、香宮さんと目が合った時、何気なく視線を逸らされて、少し悲しかったのはここだけの話だ。でも、こんなことでくじけるものか。

 何となく企画の方針が決まった頃には、昼になっていた。

 友人たちのように午後から部活があるため教室から出て行く者もいれば、逆に外から戻ってきて休憩する者もいるため、教室内は少し騒がしくなった。

 自分の席に戻ろうとした香宮さんを僕は呼び止める。


「香宮さん」


 教室内で香宮さんに声を掛けたのはこれが初めてのことだった。

 ゆっくりと振り返った香宮さんが僕を見た。

 香宮さんがじっと僕を見つめてくる。彼女が口を開く前に、僕は言った。


「高瀬だけど。今からちょっと話したいことがあるんだ」


 良い、かな?

 声が少し掠れた。

 視界の隅に映る女子たちがちらりとこちらを見たが、直ぐに視線を戻して自分たちの会話をし始める。

 彼女たちにとっては、クラスメイトの男子が女子に話したというただそれだけのことで。

 でも、僕にとっては――僕たちにとっては、それは大きな一歩だった。

 少し驚いた様子の香宮さんが小さく頷いた。

 そして、僕たちは教室を後にする。向かう先は、言わずもがな――。



   *



 相も変わらず社会科室の扉の建て付けは悪かった。

 いつも通りのそれに何処となく安心感を覚えつつ、僕と香宮さんは社会科室へと足を踏み入れる。

 思えば、こうしてここへ一緒に来るのも初めてのことだった。

 僕たちを取り巻く空気は教室内にいた時とは違っていて、やはり少しだけ気まずさがあった。

 僕は香宮さんを見遣る。香宮さんも僕を見た。

 目が合った瞬間、僕は深く頭を下げた。


「ごめん」

「た、高瀬くん?」


 慌てた声が聞こえて来た。それでも、僕は止めなかった。


「ずっと……ずっと謝りたかったんだ。植物園で怒鳴ってしまったことも、今まで話し掛けられなかったことも。ちゃんと、顔を合わせて謝りたかったんだ」

「それは、わたしが悪いからで……」

「悪くない」


 香宮さんの言葉を僕ははっきりと否定した。


「香宮さんは悪くない。香宮さんが悪いなんて思ったことはない。確かに、僕はあの時ショックを受けた。何であんな奴と同じように見るんだって思ったし、腹が立って、怒って……それに、悲しかった」


 素直にそう言えば、香宮さんは目線を下げて小さな手でスカートをぎゅっと握った。

 口を噤む香宮さんに、僕は続けた。 


「でも、それが原因で、香宮さんのことを嫌いにはならないよ」


 香宮さんの肩が揺れた。

 少しだけ上げたその顔を覗き込むように目を合わせ、視線を逸らすことなく僕は続ける。


「香宮さんは人の顔を認識できないって言っていたけど、香宮さんはちゃんと僕のことを認識してくれていたじゃないか」


 昔の僕のことを覚えていてくれた。

 同じ学校で同じクラスになった僕のことに気づいてくれた。

 僕が鳴だということにも気づいてくれた。

 それは、とても凄いことだと僕は思う。そして、彼女のようにありたいと強く思った。


「香宮さんに気づけなかった情けない男だけど……でも、今度は絶対に忘れないから。もし、顔が認識できなくて香宮さんが僕のことを見つけられなかったとしても、僕が香宮さんのことを見つけるから。だから、また二人で絵を描いて、話して、笑い合いたい。ちゃんと、香宮さんと向き合って行きたい」


 ゆっくりと息を吸って、そして、言葉を紡ぐ。


「僕は、これからも香宮さんと一緒にいたい。一緒に、いてください」


 今の自分の気持ちを、想いを、僕は伝えた。


 

 香宮さんは黙ったままだった。

 次第にその目に涙が溜まって行き、やがてそれはぽろりと零れ落ちた。

 いつかのように香宮さんが涙を流す。でも、それは悲しいからじゃないだろう。


「……高瀬くん」


 掠れた、涙混じりの声で香宮さんが僕の名前を呼ぶ。


「わたしも、高瀬くんとこれからも一緒にいたいです」


 言葉と共に、また涙が零れた。

 僕は、香宮さんにゆっくりと手を伸ばす。

 今は画具を何も持っていないから、あの時のように向日葵の絵を描いて、香宮さんの涙を止めることはできないけれど。

 でも、今の僕にしかできないことがある。

 伸ばされた手は、香宮さんの目元へと辿り着く。

 僕は、そっとその涙を拭った。

 少し目は赤くて、頬は涙に濡れていて。


「好きだよ」

「……わたしも」


 蕾が綻ぶように香宮さんは笑った。

 それは、僕の大好きな笑顔だった。

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