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第十五話 決意

 ちりんちりんと来客を告げる鈴の音が響く。

 次いで聞こえてきたのは、ずるずると何かを引き摺るような音で。


「……何しているんですか」


 思わず僕は目の前の人物に声を掛けた。いや、掛けざるを得なかったといった方が正しい。だって、見過ごせない光景が目の前で繰り広げられていたから。

 その人は――先輩は、外に出していたはずの店の立て看板を引き摺っていた。

 ふぅ、と一仕事終えたかのように溜息を吐く先輩に、僕は再度「何しているんですか」と訊ねる。

 すると、先輩はくるりと身を翻した。


「やあやあやあ、久しぶりだね少年」


 先輩は何事もなかったかのようにひらひらと手を振って挨拶してきた。


 ……いいや、騙されない。騙されないぞ僕は。


「何しているんですか、先輩」

「何って……見てわからない?店の看板をしまっていたのさ」

「いや、それはわかります。何で勝手に看板をしまっているのかを訊いているんです」

「それはだね、ちょっとの間お店を貸し切らせてもらおうと思って」

「……はい?」


 僕はその場で固まった。

 何を言っているのだろうかこの人は。


「他にお客さんはいないんだよね?」

「確かに、いませんけど……」

「店主は?」

「今頃ドラマを見ていると思います」

「それなら大丈夫だね」

「何が大丈夫か全然わからないんですけど」

「いや、君は本当はわかっているはずだよ。何で私がここを訪れたのか。何でお店を貸し切らせてもらおうとしているのか」


 眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐ僕を見つめてくる。

 僕はその視線に根負けした。


「……少しの間なら構いませんよ。まあ、何となく来るとは思っていましたし」

「あらあら。私の行動が読める癖に、どうしてそれを肝心なところで発揮しないものかねこの男は」


 明らかに棘のある言い方に「うぐっ」と言葉に詰まる。

 そんな僕を気にすることなく、先輩が口を開く。


「これ以上お店に迷惑を掛けたくないから率直に訊くね。高瀬くんはあの子から聞いたんだよね?あの子の『秘密』を」

「……はい」


 先輩の言葉にゆっくりと頷く。

 先輩がずっと言っていた香宮さんの『秘密』。それは、香宮さんが人の顔を認識できないという症状を抱えているということで――。


「そうか」


 先輩が何処となくほっと胸を撫で下ろしたような気がして僕は眉を顰めた。

 それに気がついた先輩が小さく笑う。


「いやなに、あの子、ちゃんと話せたのかと思ったらほっとしちゃってね。高瀬くんも、ちゃんとあの子に話せたかい?」

「鳴のことなら、植物園に行った時に打ち明けましたけど……」


 でも、と言葉尻が段々と弱くなっていき、僕は顔を俯かせた。

 口を噤んだ僕にかわって先輩が言う。


「あの子から何となくは聞いたよ。私が予想するに、植物園で君が怒鳴った理由はナンパ野郎と君に対する日咲ちゃんの反応が一緒で、ショックを受けたからってところかな?」


 答え合わせをするかのように「どうだい?」と訊かれ、僕は力なく首肯した。


「まあ、君が怒るのも仕方がないね。これまでにもそういう子いたし。君の場合、あの子の症状を知らなかったから尚更だね」


 香宮さんの症状を知って、それでも親しくしてくれる人もいたのだと先輩は言う。だけど、不意に素っ気ない態度を取る香宮さんに――取ってしまう香宮さんに、腹を立てたり気分を害したりして、皆離れて行ってしまったらしい。


「そんなのはただの言い訳だよ。ちゃんと覚える気がないからいつまで経っても人の顔がわからないんじゃない?」


 と、直に言ってきた人もいたそうだ。


「何で、そんなことを……」

「そういう人間もいるよ。何を言っても通じない人は放っておくしかない」


 諦めたように、その時を思い出したのか少し憤慨した様子で先輩は言い捨てた。


「それで、あの子の秘密を知って君はどうするんだい?」

「どうするって……」

「私は、君の『先輩』だから教えてあげよう。人生の先輩として、あの子と先に関わった先輩として。血の繋がりがあっても、従姉妹なんて所詮他人と一緒だからね。結構辛いものだよ?ずっと一緒にいても覚えてもらえないのは。君も経験したと思うけど、知らない人を見るような目で見られる。何度も何度もね。それに耐えつつ、あの子に何もしてあげられない自分の情けなさを感じつつ、側にいるのは辛いよ?」


 それでも君は、あの子の側にいられるの?

 そっと先輩が僕の顔を覗き込んできた。


「僕、は……」

「覚悟がないなら、離れなさい。あの子はこんなことには慣れているからね、心配しなくても大丈夫だよ」


 幼子に言い聞かせるように先輩が囁く。それは、冷たさと優しさを含んだ声音だった。


「以上、貸し切りタイム終了!」


 ぱんぱんと手を打ち鳴らして、先輩が近くの棚から消しゴムとペンとルーズリーフを手に取った。


「これくださいな。貸し切り代としては安すぎるけど」


 先輩から、僕は無言でそれらを受け取る。その時、手に力が入ってしまったことにきっと先輩も気づいただろう。

 いつも通りに会計をして「ありがとうございます」と言う。酷く掠れた、力ない声だった。

 それは、会計を終えたら挨拶をするという身に染みついた習慣から出た言葉であって、無意識に出ただけの言葉だった。

 商品を受け取った先輩が僕を一瞥した。そして――

 ごめんね。

 と、そう小さく呟いて、先輩は店から去って行った。


「……看板戻して行けよな」


 鈴の音を聞きながら、悪態を吐く。

 看板を表に出さなければ。

 そう思ったけれど、僕はその場から動くことが出来なかった。



   *



 結局、香宮さんと話すことがないまま後期補習が終わった。その間、彼女が虹文堂に訪れたことはやはりなくて。

 来週からは体育祭と文化祭の準備が始まる。まだ夏休み期間中ではあるが、それらの準備があるため、大半の生徒が学校へと行くことになる。

 僕は文化祭の方の準備を任されることになったのだが、それは香宮さんも同じだった。因みに、僕たちのクラス企画はバザーとなった。友人が「ゲームに出てくる店っぽい感じにしたい」と意気込んでいたが果たしてどうなることやら。

 とまあ、そんなことはどうでもいい。

 今重要なのは、文化祭の準備を通して香宮さんと必然的に顔を合わせることになることだ。

 話さないようにする、という選択肢もあるが、そんなのは嫌だった。

 たとえ話せなくても、話さないようにはなりたくない。でも、話したくても話せないというのが現状であって。

 このままじゃいけないと思いつつも、やっぱり何も思い浮かばない。どう接していいかわからない。

 思考しつつ、口に含んだご飯をゆっくりと咀嚼する。食べ物の味を楽しむというよりは、今の僕にとってそれは事務的な作業だった。

 そんな味気ない食卓で、父さんはいつも通りの他愛もない話をするだけで、僕に何かを訊いてくることはなかった。

 恐らく、父さんは僕の様子が変だと言うことに気がついているだろう。でも、父さんは何も言わないし訊かない。言えない、のではなく、言わない、のであり、訊けない、のではなく、訊かないのだ。


「父さんはさ……」

「うん?」

「病気を患っていた母さんに、どう接していたの?」


 気づいた時にはそう訊いていた。その声は震えていた。

 母さんは病気で亡くなった。僕が物心つく前のことだ。だから、幼い頃の僕は母さんとどのように過ごしていたのかあまり記憶にない。勿論、父さんが母さんにどのように接していたのかもあまり覚えていない。

 病を患っていた母さんと、父さんは一体何を思って、どうやって過ごしていたのだろう。

 突然の僕の言葉に、父さんは目を大きく瞠った。


「急にどうしたんだ?」

「いや、何となく……」


 詳しいことは言えなくて、僕は俯いた。

 黙り込む僕を暫し見ていた父さんが「うーん」と唸る。少し考えるように目を閉じて、そして、ゆっくり口を開いた。


「特別なことは何もしてないよ。ただ、普通に接していただけさ」

「え?」

「母さんは、元々体の弱い人だったから。どう接したらいいのか、俺もよくわからなかった。悩んで、戸惑って、また悩んで……自分でも気づかないうちに苦しそうな顔をしていたんだろうな。俺を見る母さんの目が何処か悲しそうに見えたんだ。ああ、今彼女を悲しませているのは俺自身なんだって、これじゃあダメだって思って。彼女が望んでいるのはいつも通りの日常なんだろうなって思って。だから、彼女といる時はいつも通りでいようって思ったんだ」


 首元の碧のループタイを弄りながら父さんが言う。父さんのお気に入りのループタイ。昔、母さんに貰ったというそれを愛おしそうに父さんは撫でた。


「辛い時だってあった。苦しい時だってあった。でも、それでも側にいたいと願ったから、俺は受け入れる覚悟をして、受け入れて……それで、いつも通りに母さんと、そして響と過ごしていたよ」


 昔を懐かしむように目を細め、父さんが一つ息を吐く。


「だから、お前も普通に、いつも通り接すればいい。他愛もない会話をして、またあの子と一緒に絵を描けばいいじゃないか」


 何てことはないさと父さんが言う。全てを見透かしたような目で見つめられた。


「何、で……」

「今のお前が悩むとしたら、あの子のことだと思ってな」


 これでも、俺はお前の父親だからな。

 と、父さんが力強く言い切った。

 僕は一瞬口を結んで、そして、ぼそりと呟いた。


「……命に関わるものじゃないから」

「……そうか」


 そう言えば、父さんはほっと胸を撫で下ろした。


「もし、お前があの子の傍にいたいと願うなら、受け入れる覚悟しろ。今すぐにとは言わない。でも、ちゃんと受け入れて、普通に、いつも通りに接することが、きっとお前とあの子のためになる。やれる時にやれることを、お前がやりたいと思ったことをやりなさい」


 よく言われる言葉が、僕の中にしみ込んでいく。

 父さんは普段は何処か頼りなさそうで、僕に対して基本放任主義ではあるけれど――いざという時はちゃんと叱ってくれるし、こうして諭してくれる。

 父さんのそういうところが、僕は凄いと思う。


「……はい」


 ゆっくりと僕は頷いた。

 そんな僕を見て満足そうに笑った父さんが身を乗り出して腕を伸ばしてきた。そして、僕の頭をががしがしと撫でた。

 大きくて、節くれ立ったその手はあたたかい。


「父さんって……」

「ん?」

「凄いね」

「そうか?」

「うん」


 やっぱり、凄いよ。

 僕が大きく首肯すれば、父さんは照れたように頰を掻いた。



   *



 その日の夜、ベッドの中で僕は考えた。

 明日、香宮さんに僕の気持ちを伝えよう。

 拙くなるかもしれない。上手く伝えられないかもしれない。

 でも、それでも僕は、今の僕の気持ちを香宮さんに伝えたい。いや、伝えなければならないのだ。

 そうじゃないと、僕は――僕たちは、前に進めないから。

 僕は一人決意する。そして、ゆっくりと目を閉じた。

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