第十四話 彼女の秘密
いつも通りに過ごしてはいるものの、僕は何処かおかしいらしい。
自分では普通にしているつもりでも、父さんから見たら上の空に見えるらしい。父さんに「店の手伝いなんてしなくてもいいんだぞ?」と言われたが、それは断った。何かをして気を紛らわせたかったから。
だから、自室にいる今もずっと手を動かしている。タッチペンを持って、絵を描いている。それは、いつもと変わらない。
僕にとって絵を描くことは好きなことで、とても楽しいと、面白いと思えることだ。
たとえ嫌なことがあっても、悲しいことがあっても、辛いことがあっても、そんな好きなことをすれば憂鬱な気分も少しは紛れる。経験論だ。
そう、紛れる、はずなのに。
「あー、もう!」
無茶苦茶に手を動かす。握っていたタッチペンごと。そうすれば、何が起こるかなんて明白で。
画面にはぐちゃぐちゃに描かれた線が絵を潰していた。台無しになったそれを見て、何だか無性に虚しくなった。
「台無し、か……」
僕が、台無しにした。
今も。あの時も。
思い出すのは植物園での出来事。あれからもう何日も経ったというのに、僕を見て怯えたあの眼差しが、怒鳴ってしまった時の悲しげなあの表情が、頭にこびりついて離れない。
誰の、なんて言わずもがな。
香宮さんは何も悪くない。ナンパされて困惑している最中に、いきなり手を掴まれたらそりゃあ誰だって驚くだろう。僕が勝手にショックを受けて怒って怒鳴ってしまって……ああ、ほんとに最悪なことをしてしまった。
途中までは上手くいっていたのに。最後の最後で、ほんの一瞬で、一時の感情で、僕は全てを台無しにしてしまったんだ。
あの時から、僕は香宮さんに会っていない。メールの遣り取りもしておらず、謝ることもできていなかった。
明日から後期補習が始まる。そうすれば、当たり前だが教室で香宮さんと顔を合わせることになる。
あの時のことを謝らなければ。
そう思ってはいるものの、どうやって話し掛けようか悩んでいる自分がいる。難しいことは何もない。話し掛けて、謝る。
ただそれだけのことなのに、こんなも悩んでいるなんて……。
僕は数ヶ月前となんら変わっていない、情けない男のままだ。
「……もういいや、寝よ」
もう何かもぐちゃぐちゃだ。絵も、僕の頭の中も。
このまま描き続ける気も起きなくて、僕はパソコンの電源を落とした。何処までデータが保存してあったかは記憶にないけど、そんなことどうでもよかった。
けど、どうでもよくないこともある。
布団に入って強く目を瞑る。眠りに就くために考えることを放棄する。
でも、考えないようにすればするほどそれしか考えられなくて。
瞼に浮かぶ香宮さんの姿に胸が苦しくなって、何度も何度も寝返りを打つ。
「昔はあんなに簡単に話し掛けられたのになぁ……」
泣いている女の子に躊躇することなく話し掛けた過去の自分に嫉妬しても仕方のないことだというのに。女々しいにも程がある。
ますます自己嫌悪に陥って大きな溜息を零したその時、枕元のスマホが鳴った。
徐にそれを手に取り、メールの差出人の名前を見た瞬間僕は飛び起きた。
「え……え?」
まじまじと画面を見つめるが、もちろん内容が変わるはずもなく。
そのメールは、香宮さんからのものだった。
もしかして気づかないうちに眠ってしまっていて、これは僕の願望が見せた夢なのかものしれない。
そう思い、古典的だが自分の頬を抓ってみる。
「……うん、痛い」
どうやら、夢ではなく現実のようだ。
『話したいことがあります。明日の補習後、社会科室で待っています。』
メールにはそう記されていた。
香宮さんからの久しぶりのメールは、相変わらず味気ないもので。でも、それが彼女らしいといえば彼女らしくて。
そんなに長い間メールをしていなかった訳でもないのに懐かしさが込み上げてきた。次いで込み上げてきたのは、寂しさ。少し前までは普通に話せていたのに、と思わずにはいられない。
僕は暫し悩んだ末、結局『了解しました』と一言だけ打って返信した。スマホを置いて、再度寝転ぶが目はさっきよりも冴えていて、とても寝られそうにない。
香宮さんの話したいことが何かはわからないが、その時に謝らなければ。
頭の中で何度もシュミレーションする。謝って……そして、前みたいに話せたらいいのに。
大丈夫、簡単なことさ。小学生にだってできる。
自分にそう言い聞かせる。けれど、その時のことを考えると緊張してしまって、気づいた時には夜が明けていた。
*
全然眠れなかったのに、全く眠気はない。尤も、それで補習の内容が頭に入ってきたかと問われれば否と答えるしかないけど。
補習を終えた僕は社会科室の前に立っていた。
五月蠅いくらいに心臓が鳴っている。落ち着きために大きく深呼吸をして、そして、久方ぶりにその扉を開いた。
ゆっくりと足を踏み入れる。すると、そこには既に香宮さんがいた。
「……高瀬くん?」
「うん」
いつも通りの香宮さんの問いに僕はぎこちなく頷く。でも、僕たちを取り巻く空気は全然いつも通りじゃなかった。
何処がギスギスしていて、僕は香宮さんの顔を上手く見られない。
「呼び出してごめんね」
「いや、それは大丈夫……」
「あの、わたし、高瀬くんにどうしても直接会って言いたいことがあって……」
詰まりながらも、香宮さんが話し出す。
「まず、不快な思いをさせてごめんなさい」
……何で、香宮さんが謝るんだ。謝らなくちゃいけないのは僕の方なのに。
僕も謝ろうと思って口を開きかける。だが、それを遮るように香宮さんが声を張り上げて続けた。
「あと、あとね……わたし、高瀬くんにずっと黙っていたことがあって……。言わなきゃいけないことが、あって……」
香宮さんが口を噤んだ。小さなその手がスカートをぎゅっと掴んだ。
ほんの数秒。けれど、僕たちにとっては長い長い静寂の時間。
視線を少し下に逸らした後、意を決した様子で香宮さんが僕を見た。
「……わたし、人の顔が認識できないの」
震える声で紡がれた言葉。
何を言われたのか、僕はわからなかった。理解、できなかった。
「……認識、できない?」
「そういう症状なの」
静かに紡がれた言葉を聞いて心臓がどくりと鳴った。
握り込んだ手に汗が滲んでいく。
「でも、命に関わるものじゃないから安心してね」
そう言われて少しだけ肩の力が抜けた。
だが、香宮さんの話はまだ終わっていない。
香宮さんがぼんやりと窓の方を見る。窓ガラスには僕たちの姿が薄らと映り込んでいた。
「高瀬くんは、人の顔と名前が一致しないことってある?」
「……まあ、ある、かな」
不意に質問されて、戸惑いながらも僕は答える。
中学の時のクラスメイトだった人が誰かなんて全員は答えられないし、もっと前のクラスメイトなら尚更。今のクラスメイトだって、きっと数年後にはあまり覚えていないだろう。
顔を覚えていても名前は忘れてしまった。逆に、名前は覚えていても顔を忘れてしまったなんてこともあれば、顔も名前も忘れてしまったが出来事だけは覚えていることもある。
事実、僕は昔会ったというのに香宮さんの顔も名前も忘れてしまっていたのだから。
今まで会ったことがある人の顔を全員覚えているなんて、そんなこと僕にはできない。
「わたしの場合それがもっと酷いと言えばわかりやすい、のかな。クラスメイトもそうだけど、数年前とか知り合いとか関係なくて。さっき会った人のこともわからないし、一日中一緒にいた人のことも、今、目の前にいる人の顔も、ね」
僕の顔を真っ直ぐと見つめて、ゆっくりと香宮さんは僕に教えてくれた。
「顔がわからないから、そこにいる人が誰なのかがわからない」
人がたくさんいる教室で香宮さんが人に話し掛けている姿を僕はあまり見たことがない。
僕たちは話すようになった。でも、それは他に人がいない社会科室だったり、僕が店番している時だったりで。人がたくさんいる教室で香宮さんと話したことは一度もなかった。
「顔がわからないから、その席に座っている人が本人かどうかもわからない」
そこにいるのが本人かわからないから、「ノートを渡しといて」と頼まれても拒んだ。
「顔がわからないから、待ち合わせの場所に行っても、待ち合わせ相手を探せない」
二人で出掛けた時、待ち合わせ場所に僕より先に香宮さんはいた。それは、僕に彼女を見つけてもらうためだった。
「顔がわからないから、人混みの中ではぐれちゃったら自力で探すことができない」
移動する時、香宮さんは僕のリュックを掴んでいた。「迷子になったら困るから」と言っていたけど、あれは僕に対してではなく、自分自身に向けた言葉でもあった。
「顔がわからないから、仲の良い人と知らない人への最初の反応が同じになっちゃう」
顔がわからない彼女にとって、知り合いであるか初対面であるかを一瞬で判断するのは困難なことで。
顔がわからなくても、声や服装、体格や振る舞いなどでその人が誰なのかを何となく判断することはできるのだと香宮さんは説明してくれた。
だが、服は毎日変わるものだし、制服だと皆一緒だからそれで識別することは困難だ。
体格だって暫く会っていないと変わっているかもしれない。
声や振る舞いで見分けようにも、ずっと一緒にいないとそれもわからないだろう。たとえ一緒にいてそれを理解していたとしても、咄嗟に識別するのはやはり困難ことで。それも、混乱していたら尚のこと。
「美術の授業で向日葵を描いたのは、この前言った通り高瀬くんに最初に描いてもらった絵が向日葵だったってこともあるんだけど……顔を認識できないからって理由もあったの」
四月の美術の時間。お題は人物画。
人の顔を認識できない香宮さんは――僕の顔がわからなかった香宮さんは、その代わりに向日葵の絵を描いた。
空白のそこに、空白になるはずのそこに、彼女は向日葵の絵を描いたのだ。
「だから、高瀬くんがあの美術の時間に描いたわたしの顔も、本当は認識できていなかったんだ。でもね、わたし、高瀬くんの描く絵がやっぱり好きだなぁって思ったの。タッチや雰囲気とか、上手くは言えないんだけど……」
もどかしそうに口を噤んだ後、力なく香宮さんが笑った。
「この症状のことを何も言わないでこのまま過ごせるかもしれないと思ったけど、やっぱり無理だったね。言わなきゃいけないって思っていたけど、怖くて言えなかった」
――それで嫌われるのが怖かった。
掠れた声で香宮さんはそう言った。
……何か、何か言わなくては。
そう思ったけど、僕は声を出すことも動くこともできなくて。
「本当に、ごめんなさい」
深く頭を下げて、最後にそう告げて、香宮さんが僕に背を向ける。
教室から出て行くその後ろ姿を、僕はただただ呆然と眺めていることしかできなかった。




