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第十話 貸借

 違うクラスの友人から辞書を取り戻してほっと一安心しながら僕は廊下を歩いていた。

 全く、普通借りた方が返しに来るのが筋ってもんだろ。それなのに、何で貸した方の僕が取りに行かなきゃいけないんだよ。

 そう悪態を吐いたのは何度目だろうか。

 まあ、取り敢えずこうして辞書を回収出来たから良しとするか。いや、全然良くはないけど。今度同じことをしたらもうあいつには貸してやらん。

 そう心に決めつつ、自身の教室に辿り着く。すると、何やら大きな声が聞こえてきた。

 教室内に入ってみれば、その声の発信源は香宮さんの席の方からした。

 見れば、椅子に座っている香宮さんの前に一人の女子生徒がいた。このクラスの女子ではない。巻かれた髪に短めのスカートで、清楚というよりは派手目な見た目をしている……こう言っては何だが性格が少々キツそうに見える女子だった。

 その女子は少し目を吊り上げて香宮さんを睨んでいる。

 ピリピリした空気が漂っているような気がして、僕は近くにいた友人に状況説明を求めた。


「何あれ」

「何か、隣のクラスのあの女子が友達にノートを借りたらしくてな。んで、今ちょうどそいつがいなくて、代わりに渡しておいてって香宮に頼んだんだよ。そしたら……」


 どんっと机を叩く音が教室内に響き渡る。


「ただノート渡すだけじゃん!そんな簡単なこともできないの?」

「それじゃあ、自分で渡してください」


 きっぱりと香宮さんが断った。

 それが、少し意外だった。香宮さんなら「いいよ」と二つ返事で了承してくれそうなのに。

 香宮さんとその女子生徒はどうやら友人という訳ではないらしい。多分、女子生徒にとって、頼む相手は誰でもよかったのだろう。入り口付近の席に香宮さんがいたから、白羽の矢が立っただけ。別に香宮さんじゃなくてもよかったのだ。

 女子生徒が欲しかった言葉は「いいよ」というその一言で。容易く了承してもらえると思ったのに、言われたのはまさかの「自分で渡してください」で。何でこんな簡単なことを拒否するんだと腹を立てたらしい。


「そんなことで怒らなくてもいいのにな。香宮も香宮で適当に了承しておけばいいものを」


 女って怖ぇー……。

 そう言って、身震いしている友人のことは置いておくとして。

 ここからでは香宮さんの後ろ姿しか見えない。彼女がどんな表情を浮かべているかはわからなかった。

 誰もが見守る中、憤慨している女子に臆することなく香宮さんが言い放つ。


「そのノートを預かったとして、わたしがノートをちゃんと持ち主に返す保証がどこにあるんですか?」

「……は?」

「勿論、そのノートを私物化するつもりはありません。でも、ノートを持ち主に返すのをわたしが忘れる可能性も無きにしも非ず。その時、何が起こるか想像してみてください」


 香宮さん曰く、



「貸したノート返してよ」

「え、窓側の席の子に渡しといてって頼んだけど」

「何それ。もらってないんだけど。というか、何で直接返しに来ないの?普通お礼を言って返すのが当然でしょ」

「あーもう、面倒くさいなー。あんたにノート借りるんじゃなかったわ」

「こっちも貸すんじゃなかった」

「何ですって!」

「何よ!」



 ……みたいな遣り取りになったらどうするの、ということらしい。


 声色を変えて一人二役を演じた香宮さんの突飛な発言に女子生徒はきょとんとしていた。

 完全に勢いを削がれた女子生徒に対して、香宮さんは止まらなかった。


「たとえ付箋にお礼を書いてノートに貼り付けて机の上に置いておいたとしても、その子が戻ってくる前に第三者の手によって持ち出される可能性も無きにしも非ず。それでさっき言ったような遣り取りになったら、そっちの方が面倒くさいと思いませんか?」

「……まあ、確かに」

「借りた物は貸してくれた相手に直接手渡す。面倒くさい確執を生み出さないためにも、それが一番確実だとは思いませんか?」

「そう、ね……確かにそうだわ」

 一理あるわ、と女子生徒が同意した。

「……すげーな。あの女子を頷かせたぞ」

「……ああ」


 その友人の言葉に僕は頷いた。

 皆が注目している中、香宮さんが堂々と言う。


「ただノートを渡すだけかもしれないけど、そのことにどうしても責任を感じてしまうので、わたしはお受けすることができないのです」


 ごめんなさい、と香宮さんが頭を下げた。

 女子生徒は唖然としていた。

 誰も何も話さない。


「それじゃあ、自分が代わりに渡しといてあげるよ」


 なんて、名乗り出る勇者はいなかった。

 多分、香宮さんの話を聞いて、彼女に賛同する気持ちが皆にもあったからだろう。


「……変なこと頼んで悪かったわね」

「いえいえ。わたしもお役に立てず申し訳ありません」


 ぼそりと呟いた女子生徒に香宮さんが手を振った。その女子生徒はノートを手に持ったまま、踵を返して教室を出て行った。

 皆の注目を集めたまま、まるで何事もなかったかのように香宮さんが手元の小説を読み始める。


「……香宮すげー」

「……ああ」


 友人が零した言葉に僕は賛同した。

 因みに、その後ノートは無事持ち主の手に直接返されたそうだ。



   *



 コロッケパンに噛り付いて咀嚼する。

 ふと思い出したのは、休み時間の教室内での出来事だった。


「さっきは災難だったね」

「さっき?」


 ごくんと飲み込んで言えば、香宮さんが小首を傾げた。


「ほら、ノート返しといてっていう遣り取り」

「あー……」


 一口お茶を飲んだ後、香宮さんがぼつりと口を開いた。


「さっきはああ言っちゃったけど、申し訳ないなぁっていう気持ちはあるんだよ。ただノートを渡すだけなのに、それくらい引き受けろよって話だよね。でも、わたしにはそれが難しいから……」


 ほんと、自分が嫌になるよ。

 香宮さんが力なく笑う。何処か諦めているような感じがした。


 ……ああ、失敗した。そんな顔をさせるくらいなら、この話題出すんじゃなかった。


 そう悔いてももう遅い。

 愚かな僕にできるのは、香宮さんをフォローすることだけだった。


「そんなに深く考えなくてもいいんじゃないかな。あっちも最終的には納得していたし。香宮さんの言ったことは正論だと思うよ」


 借りた物はお礼を言って本人に直接返す。それは当たり前のことだ。それができないのなら、他人から物を借りるべきではない。


「ほんと、あいつにも見習ってもらいたいものだよ」

「あいつ?」

「別のクラスの友達に辞書貸したんだけど返しに来なくって。わざわざ取りに行ったんだ」

「それはそれは、ご苦労様です」


 溜息を吐く僕に香宮さんが苦笑をしてゆっくりと弁当箱と箸を置いた。そして、机の横に掛けてある鞄の中をがさごそとあさくって、中からあるものを取り出した。


「そんなお疲れの高瀬くんには、これをあげましょう」


 そう言って手を伸ばしてきた香宮さんに、反射的に僕は手のひらを差し出した。

 ぽとぽとと落ちてきたのは、雨――じゃなくて、飴だった。包みを見ると『塩ミルク味』と書いてある。

 塩ミルク味……そんな味の飴があったとは。


「季節限定味なんだよ!」


 まじまじと飴を見ていれば、何故かドヤ顔でそう説明された。

 女子って限定って言葉に弱いよなぁ。

 そう考えている間にも、手のひらの飴が増えていく。……っておいちょっと待て。


「……香宮さん」

「ん?」

「もういいよ」


 僕の手のひらにせっせっと飴を積んで行く香宮さんに待ったをかければ、彼女は小さく首を傾げた。


「疲れた時には甘い物だよ」


 それはわかる。


「夏は塩分とらないといけないんだよ」


 それもわかる。


「という訳で……」

「いやいやいや」


 香宮さんがなおも積んでこようとするので僕は手を引っ込めた。流石にこんなにもらえないと思って飴を戻そうとするも、「それはもう高瀬くんにあげたから」ときっぱりと断られる。


「若い者が遠慮してちゃいけないよ」

「いやいや、同学年だし」

「同学年だからといって、同い年とは限らないよ?」

「えっ」

「冗談だよ冗談」


 悪戯っぽく香宮さんが笑う。

 こういうところ、先輩と似ているよなぁ……流石は従姉妹だ。


「正直に言いますと、季節限定にひかれて買ったはいいけど、ちょっと溶けかけているので消費に協力してもらいたいのです」

「……わかったよ」

「ご協力感謝します」


 僕は一つを残して、残りの飴はズボンのポケットの中に押し込んだ。

 包みを破れば、確かに飴は少し溶けて歪な形になっていた。

 それを口に放り込んで舌で転がす。それは甘くてしょっぱくて、何だか不思議な味がした。

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