第2話:『万象の罠と、走る少女』
第2話:『万象の罠と、走る少女』
あの日、広場で交わした『オリオン騎士団』への誓いから数日が経った。
村の裏手に広がる鬱蒼とした森の開けた場所で、九歳のリゲル・ブレイズは一人、地面に木の枝を突き立てていた。
「くそっ、まただ……! なんでだよ……!」
地面には、光の粒子となって今まさに消えゆく幾何学模様の残骸。リゲルがいくら優しく魔力を流そうとしても、第一級魔術の魔法陣は耐えきれずにパリンと砕け散ってしまう。額に汗を浮かべ、泥だらけの手で何度も挑戦するリゲルの姿は、痛々しいほどに必死だった。
そこへ、草木をかき分ける物音が響く。
「リゲル、やっぱりここにいたんだね」
現れたのは、親友のカナタ・レイルだった。その手には、リゲルの母親ファンシーが経営する食堂特製の、包みに包まれたお弁当箱が握られている。
「カナタ……。わざわざ来てくれたのか?」
「うん。ファンシーおばさんに、特訓中のお腹を空かせた熱血馬鹿に届けてやってくれって頼まれちゃってさ。ほら、一緒に食べよう」
カナタは屈託のない笑顔で隣に腰掛けた。その優しさに、リゲルは情けなさと感謝が混ざった複雑な息を吐きながら、隣に並んで座る。
――そして。そんな二人の様子を、少し離れた草むらの陰からじっと見つめている影があった。幼馴染のミリィ・シルバだ。
(ちょっと、美味しそうなお弁当じゃない……。アタシもおねだりしに行っちゃおうかしら)
ミリィは悪戯っぽく笑いながら、二人に声をかけようと腰を浮かせた。
だが、次の瞬間。森の空気が、一瞬で凍りついた。
ゴウッ、と不気味な突風が吹き荒れ、リゲルたちの目の前の空間が、生き物のようにグニャリと歪んだのだ。そこから現れたのは、全身に緑と紫の不気味に偏光する光を纏った、外套姿の男だった。
男の肌はどこか硬質な鱗に覆われ、瞳はコモドドラゴンのように怪しく黄色くうごめいている。世界のすべてを解き明かそうとする『万象の魔王』クロマの配下――『腐蝕』のサルバザールだった。
「ほう……これが報告にあった、国境沿いのサンプルの子供たちか」
サルバザールが喉を鳴らすような歪んだ声を漏らした瞬間、形容しがたいほどの禍々しいプレッシャーが森全体を支配した。
「な、なんだあいつ……!? 魔物、なのか……!?」
リゲルは本能的な恐怖に全身の毛を逆立て、カナタを庇うように前に出た。だが、あまりの威圧感に足がガタガタと震え、一歩も動くことができない。
草むらにいたミリィも、その圧倒的な絶望感を前に、悲鳴を上げることすらできず、地面にへたり込んでガタガタと震えることしかできなかった。
「ククク、怯えるな。お前たちは偉大なる万象の魔王様のための、崇高な実験材料となるのだ。人間の体内に魔石を埋め込んだ時、どのような変質を遂げるか……その答えを私に見せてくれ」
サルバザールが不気味に魔導書をめくると、地面から黒い霧のような触手が伸び、リゲルとカナタの身体を容赦なく締め上げた。
「うわあああッ!? 離せ、離せよッ!」
「リゲル……! ボク、身体が動かない……!」
二人の叫び声が森に響き渡る。サルバザールが細い指をパチンと鳴らすと、まずはカナタの胸に、赤黒く脈打つ不気味な『魔石』が突き立てられた。
「ぎゃあああああああああッ!!!」
カナタの口から、この世のものとは思えない絶下げがほとばしる。彼の血管が黒く浮き上がり、体内の魔力が濁った闇へと変質していく。
「素晴らしい……! 適合したぞ! これほどの拒絶反応の少なさは、一級品の素体だ!」
狂喜するサルバザールの手によって、意識を失ったカナタが、闇の魔法陣の中へと吸い込まれるように連れ去られていく。
「カナタァァァーッ!!! 待て! カナタを返せッ!!」
リゲルは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に手を伸ばした。だが、次にサルバザールの冷酷な視線が、リゲルへと向けられる。
「次は貴様だ、三男坊」
「ひっ……!」
男の指先から放たれた黒い雷が、リゲルの胸を容赦なく貫こうとした――その時だった。
「――我が子に、手出しはさせんぞおおおおおおおおおッ!!!」
ボキボキと木々をへし折りながら、凄まじい怒号と共に突進してきたのは、リゲルの父親、ダンセル・ブレイズだった。
身長198センチ、体重95キロという、熊のようにはち切れんばかりの巨体。手には牧場から掴んできたであろう、鉄製の大きな重いフォークを握り締めている。
「父ちゃん……!? なんで……!?」
「リゲル、無事かぁぁぁッ!!」
ダンセルは戦闘能力などほぼ持たない、ただの温厚な民間人だ。魔術の魔法陣すらまともに描けない。だが、愛する息子が絶体絶命の危機にあると知り、彼は恐怖を捨て去り、命を懸けてこの場に飛び込んできたのだ。
「フン、不快な羽虫が。人間風情が魔王軍の私に、その巨体で立ち向かえると思ったか?」
サルバザールが侮蔑の目を向け、魔導書を軽くひと振りする。
それだけで、大気を引き裂くような透明な刃――『真空の魔刃』が、凄まじい速度でダンセルへと襲いかかった。
「グ、ハァッ!?」
ダンセルの分厚い胸板から、大量の鮮血が噴き出す。だが、巨漢の父親は、肉が裂ける激痛に耐え、血を吐きながらも一歩も後ろへ引かなかった。
「まだまだぁぁぁッ! リゲルには……指一本、触れさせなぁぁいッ!!」
ダンセルは血塗れのフォークを振り上げ、狂ったようにサルバザールへと突撃する。その姿は、ただ子供を守りたいという一心だけで動く、一人の偉大な父親そのものだった。
「ちっ、しぶとい脂肪の塊め。ならば死ね」
サルバザールが冷酷に呟き、今度はリンステン式を超えた極大の攻撃魔術――黒い炎の槍を展開した。それは一瞬でダンセルの巨大な身体を、容赦なく深々と貫いた。
「ゴホッ……ア, ガハッ……!」
ダンセルの口から、大量の血が溢れ出る。
ガシャリ、と鉄のフォークが地面に落ちた。ダンセルの巨体が、どさりと膝を突く。その大きな背中が、リゲルの目の前に壁のように立ちはだかっていた。
「父ちゃん……? 嘘だろ、父ちゃん……!!」
リゲルは縛り付けられたまま、叫んだ。
いつも優しく頭を撫でてくれた、大きくて、温かい父親の手。その父親が、今、自分の目の前で命の光を失おうとしている。
「り、ゲル……逃げ……ろ……。お前は……父さんの、自慢の……息子、だ……」
ダンセルは最後に、血塗れの顔でリゲルを見て、優しく微笑んだ。
そして、ドサリと力なく地面に倒れ伏し、二度と動かなくなった。リゲルを守るための、肉体の盾となったまま。
「あああああああああああああああああッ!!!!! 父ちゃん!!! 父ちゃん!!!!」
森に、リゲルの魂を引き裂くような絶叫がこだまする。
だが、サルバザールは眉一つ動かさず、倒れたダンセルの身体を足蹴にしながら、リゲルの前に立った。
「フハハ、無駄な時間を使った。では実験を再開しよう」
サルバザールの冷たい指が、リゲルの胸に迫る。リゲルの心は、親友を奪われた絶望と、父親を殺された激しい怒り、そして己の無力さへの悔しさで、真っ赤に燃え上がっていた。
その直後、リゲルの胸にも魔石が突き立てられ、リゲルの意識は深い闇へと沈んでいくことになる。
――その凄惨な光景のすべてを。
草むらの中で、自分の唇を血が出るほど噛み締めながら、涙を流して見ていた少女がいた。
(アタシのせいで……アタシが、弱くて、何もできなかったから……! リゲルも、カナタも、おじさんも……!!)
ミリィ・シルバの心に、一生消えない深い十字架が刻まれた瞬間だった。
サルバザールがリゲルの胸に魔石を埋め込み、実験の様子を観察し始めたその隙を突き、ミリィは声を殺して草むらを這い出し、森の外へと向かって死に物狂いで走り出した。
喉が焼け付くほどに息を乱し、涙で視界を滲ませながら、ミリィは村へと飛び込んだ。
「村長!!! 村長ぉぉぉッ!!! 大変、大変なの!!! 森に、物凄い化け物が出て、リゲルとカナタが……! ダンセルおじさんが、殺されちゃったぁぁぁーーッ!!」
ミリィの悲痛な叫び声が、平和だった村に衝撃を走らせる。
事態の異常性と、魔王軍の影を察知した村長は、顔を真っ青にしながら、すぐさま大都市キャブの『冒険者ギルド』のギルドマスターへと通信魔道具を繋いだ。
『何だと!? 国境付近に魔王軍の研究員だと!?』
報告を受けたギルドマスターは、即座に椅子を蹴立てて立ち上がった。一刻の猶予もない。これは一村の事件ではなく、国家の、世界の安全を揺るがす危機だ。ギルドマスターはそのまま、隣接する『オリオン騎士団キャブ本部』へと、最優先の緊急通報(SOS)を叩き込んだ。
世界の警察であり、子供たちの憧れのヒーローが集まる、オリオン騎士団。
その巨頭がついに動き出し、精鋭部隊の出撃命令が下される。
――だが、ミリィの足が繋いだその救出リレーが、リゲルの元へと届くには、まだ少しの時間を要するのだった。
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