第9話 「それぞれの夜、それぞれの本音」
その夜。
午後九時十五分。
春樹は自宅のソファに寝転びながら、スマートフォンを眺めていた。
テレビでは、特に興味のないバラエティ番組が流れている。
夕食は、冷蔵庫に残っていた豆腐と卵で作った簡単な炒め物だった。
思ったよりおいしくできたので、少し満足している。
そこへ、美紀からメッセージが届いた。
『春樹先輩! 今日のプリン、本当においしかったです!』
春樹は苦笑した。
『それはよかった。』
『また買ってきてくださいね♡』
『自分で買え。』
『えーっ!』
すぐに、ふてくされたウサギのスタンプが届いた。
春樹は笑いながら返信した。
『今度は自分で買ってね。二個目半額だったから。』
すると、少し間が空いてから返信が来た。
『じゃあ、先輩と一個ずつ食べたいです。』
春樹は画面を見つめた。
(……こいつ、ほんと懲りないな。)
『はいはい。そのうちな。』
そう送って、スマートフォンをテーブルに置いた。
しかし、数秒後。
再び通知音が鳴った。
『約束ですよ!』
春樹はため息をついた。
「……プリンで人生狂いそうだな、俺。」
その頃、美紀は自分の部屋で、スマートフォンを胸に抱えていた。
ベッドの上には、クッションと読みかけの雑誌。
春樹とのメッセージを読み返しながら、彼女は小さく笑った。
「……もう。」
画面には、春樹の返信が残っている。
『はいはい。そのうちな。』
美紀はその文字を指でなぞった。
「……そのうちって、いつなんですか。」
独り言をつぶやき、枕に顔を埋めた。
いつもなら簡単に言える。
好きです、と。
付き合ってください、と。
けれど、本当に伝えたいときほど、冗談にしてしまう。
春樹はきっと、自分の気持ちなど少しも分かっていない。
(……本当、鈍感なんだから。)
美紀は寝返りを打った。
そして、もう一度スマートフォンを見つめた。
その表情は、会社で見せる明るい笑顔とは少し違っていた。
◆◇◆
同じ頃。
小泉美奈は、自宅のダイニングテーブルに座っていた。
仕事用のスーツから淡い色の部屋着に着替え、髪を後ろでゆるくまとめている。
目の前には、今日買ったプリンが二個。
一個はすでに食べ終えていた。
空になった容器の横に、未開封のもう一個が置かれている。
「……おいしかった。」
美奈は小さくつぶやいた。
確かに、春樹が言っていたとおりだった。
なめらかな口当たりと、少し苦みのあるカラメルソース。
二百円ちょっととは思えない満足感がある。
彼女は未開封のプリンを見つめた。
(……もう一個、食べようかな。)
少し迷ってから、首を振った。
(駄目。夜に二個は食べすぎです。)
そのとき、昼間の春樹の言葉が頭に浮かんだ。
『でも、二個も食べたら太りますよ。』
「……余計なお世話です。」
誰もいない部屋で、思わず言い返してしまった。
そして、自分の行動に気づき、はっとした。
「……私、何やってるんでしょう。」
美奈は額に手を当てた。
今日は、何だか調子が狂う一日だった。
プリンがきっかけで社員を呼び出し、その社員にからかわれ、帰りに偶然会ったコンビニでも笑わされてしまった。
しかも、その相手の言葉を、今になって思い出している。
(……ただ、印象に残っただけです。)
美奈は自分に言い聞かせた。
(仕事上、少し変わった案件だったから。それだけです。)
彼女は未開封のプリンを冷蔵庫にしまった。
そして、ソファに腰を下ろすと、読みかけの恋愛小説を開いた。
ページの中では、主人公の女性が、気になる男性と偶然再会する場面が描かれていた。
美奈は数行読み進めたところで、ふと手を止めた。
偶然の再会。
何気ない会話。
予想外の笑顔。
そして、自分でも気づかない小さな感情の変化。
「……。」
美奈はゆっくりと本を閉じた。
「……いやいや。」
小さく首を振る。
「ないですから。絶対に。」
誰に向かって否定しているのか、自分でもよく分からなかった。
彼女はテレビのリモコンを手に取り、適当な番組をつけた。
画面には、若い男女が楽しそうにデートをする恋愛ドラマが映し出された。
美奈は数秒間それを見つめたあと、慌ててチャンネルを変えた。
今度は料理番組だった。
料理人が、なめらかなカスタードプリンの作り方を説明していた。
「……もう!」
美奈は思わずリモコンをソファに放り投げた。
そして、両手で顔を覆った。
今日は、どこまで行ってもプリンから逃げられないらしい。




