第10話 「社内恋愛禁止令と新たな疑惑」
翌朝、午前八時五十五分。
春樹が会社の六階に到着すると、廊下の掲示板に新しい社内通知が貼られていた。
差出人は、代表取締役社長、大河内武。
件名は大きな太字で印刷されていた。
『社内交際に関する服務規程の再徹底について』
春樹は足を止めた。
「……またかよ。」
通知には、社員同士の交際に関する規則を改めて周知し、適切な職場環境を維持するよう求める文章が並んでいた。
どうやら、昨日のプリン騒動とは関係なく、以前から予定されていた全社通知らしい。
春樹は小さくため息をついた。
「……ほんと、面倒くさい会社だなぁ。」
そのとき、背後から声がした。
「足立さん。」
振り返ると、小泉美奈が立っていた。
昨日と同じように、きちんとしたスーツ姿。
その表情は、すっかり仕事モードに戻っている。
「あ、小泉さん。おはようございます。」
「おはようございます。」
美奈は軽く頭を下げた。
そして、掲示板へ視線を向けた。
「通知をご覧になっていたんですか?」
「ええ。ずいぶん熱心ですよね、うちの社長。」
「社内規程ですから、全社員に理解していただく必要があります。」
「まあ、そうでしょうけど。」
春樹は少し笑った。
「でも、これじゃあ、会社の中で誰かを好きになっただけでも大変そうですね。」
美奈は春樹を見た。
「……そうですね。」
「小泉さんは、どう思います?」
「何についてですか?」
「社内恋愛です。」
美奈の表情がわずかに硬くなった。
「個人的な意見を申し上げる立場ではありません。」
「いや、仕事じゃなくて。」
「……はい?」
「小泉さん自身は、どう思ってるのかなって。」
廊下を歩く社員たちの足音が、二人の横を通り過ぎていった。
美奈は少し考えてから答えた。
「……好きになる気持ちそのものは、規則で決められるものではないと思います。」
春樹は意外そうに目を上げた。
「へえ。」
「ただし、会社には秩序があります。個人的な感情によって業務に支障を出すようなことは、あってはならないと思います。」
「なるほど。」
「ですから、私は……。」
美奈はそこで言葉を止めた。
春樹は続きを待った。
しかし、美奈は首を振った。
「……いえ、何でもありません。」
「えっ、気になるじゃないですか。」
「業務開始の時間です。足立さんもお仕事に戻ってください。」
「はいはい。」
「返事は一回で結構です。」
「はい。」
春樹は思わず笑った。
そして、ふと思い出した。
「あ、そうだ。小泉さん。」
「今度は何ですか?」
「昨日のプリン、どうでした?」
美奈は一瞬、固まった。
「……。」
「食べました?」
「……はい。」
「おいしかったでしょう?」
「……まあ。」
「ほら、やっぱり。」
春樹は嬉しそうに笑った。
「俺、あれ結構好きなんですよ。」
美奈は何か言い返そうとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
代わりに、小さくうなずいた。
「……おいしかったです。」
春樹は満足そうに笑った。
「ですよね。」
その笑顔を見た瞬間、美奈はなぜか少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。
別に、特別なことを言われたわけではない。
ただ、同じプリンをおいしいと思った。
それだけの話だった。
けれど。
(……何でしょう、この感じ。)
美奈がそう考えていると、背後から明るい声が響いた。
「あーっ! 春樹先輩!」
相良美紀だった。
美紀は二人の姿を見るなり、目を丸くした。
「あれ? 小泉主任も一緒なんですか?」
「おはようございます、相良さん。」
「おはようございます!」
美紀は春樹と美奈を交互に見た。
そして、にやりと笑った。
「……へえ。」
春樹は嫌な予感を覚えた。
「何だよ、その顔。」
「いえいえ、別にぃ。」
「絶対、何か考えてるだろ。」
「そんなことないですよぉ。」
美紀は楽しそうに笑った。
そして、突然、春樹の腕に軽く手を添えた。
「ねえ、春樹先輩。」
「何?」
「今日のお昼、一緒に食べません?」
「えっ?」
「昨日のプリンのお礼に、私がおごります!」
「いや、別にいいけど。」
「やったぁ!」
美紀は嬉しそうに笑った。
そして、ちらりと美奈を見た。
美奈は何も言わず、二人を見ていた。
ほんの一瞬だけ、その表情が変わったように見えた。
しかし、すぐにいつもの冷静な顔に戻る。
「……では、私は失礼します。」
「あ、小泉さん。」
春樹が呼び止めた。
「はい?」
「よかったら、小泉さんも一緒にどうです?」
美奈と美紀が、同時に春樹を見た。
「……えっ?」
「……ええっ?」
春樹は何も気にせず続けた。
「昨日、いろいろお世話になりましたし。せっかくだから三人で。」
美紀の笑顔が固まった。
美奈は目を瞬かせた。
数秒の沈黙が流れた。
そして、美紀が口を開いた。
「……春樹先輩。」
「ん?」
「先輩って、ほんっとに……。」
「何だよ。」
「何でもありません!」
美紀はぷいっと顔を背けた。
春樹は首をかしげた。
(……何で怒ってるんだ?)
一方、美奈は少し困ったように視線を落としていた。
三人でランチ。
別に、規則上何の問題もない。
仕事上の交流としても、ごく普通のことだ。
断る理由などない。
けれど、なぜだろう。
何となく、落ち着かない。
「……申し訳ありません。今日は少し仕事が立て込んでいますので。」
美奈は丁寧に頭を下げた。
「そっか。残念ですね。」
春樹は気軽に答えた。
「じゃあ、また今度。」
「……はい。」
美奈はそう答えてから、はっとした。
(……また今度?)
自分は今、何に返事をしたのだろう。
しかし、春樹はすでに美紀と話し始めていた。
美奈は軽く会釈し、七階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まる直前。
春樹が美紀に言った言葉が聞こえた。
「じゃあ、昼飯は何食う?」
「先輩の好きなものでいいですよ!」
「俺、カレーがいいな。」
「じゃあ、カレーにしましょう!」
二人の楽しそうな声が遠ざかっていく。
美奈は閉まった扉を見つめた。
そして、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「……別に。」
誰もいないエレベーターの中で、つぶやいた。
「……羨ましくなんか、ありませんから。」
その声は、誰にも届かなかった。
もちろん、春樹にも。
彼はまだ知らない。
昨日買ったたった一個のプリンが、これから自分の人生をどれほど騒がしくしていくのかを。
そして、社内恋愛を厳しく取り締まるはずの女性が、いつの日か自分自身の恋心を持て余すことになるということも。
恋愛禁止の会社で、恋が始まる。
もっとも、当の本人たちは、まだそのことに気づいていない。
今のところ問題なのは、昼休みに食べるカレーが甘口か辛口かという、実に平和な話だった。
そして、その平和も長くは続かない。
春樹のスマートフォンに、新しい通知が届いたからだ。
送信者は神崎勇人。
『春樹、大変だ。』
『今度は何ですか?』
『お前、昨日小泉主任と二人でコンビニにいたって本当か?』
春樹は足を止めた。
『……何で知ってるんですか?』
『いや、ちょっとな。』
『ちょっとって何ですか!』
数秒後。
勇人から、さらに一通のメッセージが届いた。
『しかも、プリンを二個買ってたらしいじゃないか。』
春樹はスマートフォンを握りしめた。
そして、思わず天井を仰いだ。
「……誰か、この会社からプリンを禁止してくれぇぇぇ!」
その叫び声は、朝の静かな六階フロアに、見事なまでに響き渡った。




