第5話「恋愛監査官とプリンの事情聴取」
午後一時。
春樹は七階の人事総務部会議室の前に立っていた。
扉には「会議室B」と書かれた小さなプレートがある。
普段なら何とも思わない場所なのに、今日に限って妙な緊張感があった。
(俺、何か悪いことしたっけ……。)
何度考えても、プリンを買っただけだった。
ただ、それを説明するために、わざわざ人事部へ呼び出されているという状況が、どうにも納得できない。
春樹は軽くノックした。
「どうぞ。」
中から女性の声が聞こえた。
「失礼します。」
扉を開けると、会議室には一人の女性が座っていた。
テーブルの上にはノートパソコンと、数枚の書類。
黒い髪をきちんと整え、背筋を伸ばした姿勢には隙がない。
整った顔立ちだったが、その表情はやや硬かった。
「営業企画部の足立春樹です。」
「人事総務部の小泉美奈です。お忙しいところ、ありがとうございます。」
美奈は立ち上がると、丁寧に頭を下げた。
春樹も軽く会釈した。
「どうぞ、お掛けください。」
「失礼します。」
向かいの椅子に腰を下ろす。
美奈はパソコンの画面を一度確認すると、春樹に向き直った。
「本日は、少し確認したいことがありまして。」
「はい。」
「今朝、六階のラウンジで相良美紀さんとお話しされていましたね?」
「はい。」
「その際、何か贈り物をされたという情報があるのですが。」
「……贈り物?」
「はい。」
「プリンです。」
「……はい?」
「プリンです。」
春樹は、なぜか二回言った。
美奈は一瞬だけ目を瞬かせた。
「プリン、ですか?」
「はい。食べるほうの。」
「それは存じています。」
「ですよね。」
妙な沈黙が流れた。
美奈は咳払いを一つした。
「失礼しました。つまり、相良さんにプリンを渡されたということですね?」
「そうです。」
「どういった経緯で?」
「朝、買ってきてほしいと頼まれたので。」
「なるほど。」
美奈はメモを取った。
春樹は、その真剣な横顔を見ながら思った。
(……本当にプリンのことで調書を取ってるみたいだな。)
「ちなみに、代金は?」
「えっ?」
「相良さんから受け取られましたか?」
「いや、まだですけど。」
「そうですか。」
美奈はさらにメモを取った。
春樹は少し不安になった。
「あの、それって問題なんですか?」
「問題と決まったわけではありません。」
「じゃあ、何で聞くんです?」
「事実関係を確認するためです。」
「なるほど。」
春樹は腕を組みかけて、慌てて膝の上に戻した。
「小泉さん、一つ質問してもいいですか?」
「どうぞ。」
「プリンって、いくら以上だと交際の証拠になるんでしょうか?」
美奈の手が止まった。
「……どういう意味ですか?」
「いや、二百円のプリンはセーフで、五百円だと疑われるとか。そういう基準ってあるんですか?」
「ありません。」
「じゃあ、千円の高級プリンなら?」
「金額の問題ではありません。」
「なるほど。じゃあ、プリンじゃなくてシュークリームなら?」
「足立さん。」
「はい。」
「真面目にお答えいただけますか?」
春樹は慌てて背筋を伸ばした。
「すみません。」
美奈は小さく息を吐いた。
「こちらも、プリンを渡したこと自体を問題にしているわけではありません。誤解が広まっているようなので、確認しているんです。」
「ああ、そういうことですか。」
「社員同士の交際については社内規程がありますし、噂によって職場環境が悪くなることも避けなければなりません。」
「それなら、俺も困ってるんですよ。」
春樹は少し身を乗り出した。
「朝、普通に後輩にプリンを渡しただけなのに、昼前には結婚することになってましたから。」
「……結婚?」
「はい。」
「相良さんと?」
「そうらしいです。」
「そうらしい、とは?」
「俺も初耳なんです。」
美奈は困惑したように眉を寄せた。
「足立さん。ご自身の結婚について、初耳というのは少々おかしくありませんか?」
「だから、おかしいって言ってるんです!」
思わず声が大きくなった。
春樹は慌てて頭を下げた。
「すみません。でも、本当に何もないんですよ。」
「分かりました。落ち着いてください。」
「はい。」
美奈は書類を一枚めくった。
「ちなみに、相良さんとは普段から親しくされているんですか?」
「まあ、仕事でよく関わりますし。」
「個人的に食事などへ行くことは?」
「たまにありますよ。」
美奈の表情がわずかに変わった。
「二人きりで?」
「いや、ほとんど複数人ですけど。」
「ほとんど?」
「二人のときもありましたね。」
「……そうですか。」
美奈は何かを書き込んだ。
春樹は思わず首を伸ばした。
「何を書いてるんです?」
「確認事項です。」
「まさか、交際疑惑が深まったとか?」
「そのようなことは書いていません。」
「じゃあ、何て?」
「足立さん。」
「はい。」
「人のメモを覗かないでください。」
「すみません。」
春樹は椅子に座り直した。
まるで学生時代、職員室で先生に注意されているような気分だった。
しかし、不思議なことに、嫌な感じはしなかった。
美奈は確かに真面目すぎる。
だが、噂を頭から信じて責めるわけではなく、きちんと話を聞こうとしている。
少なくとも、電話で大笑いしていた神崎課長よりは、よほどまともな対応だった。
「小泉さん。」
「はい。」
「一応、言っておきますけど。」
「何でしょう?」
「俺、社内恋愛とか以前に、今は彼女いませんから。」
「……そうですか。」
「もう二年くらい。」
「……はい。」
「紹介してくれる人もいないし、休日はだいたい一人です。」
「足立さん。」
「はい。」
「そこまで詳しい情報は必要ありません。」
「……ですよね。」
美奈は真顔のままだった。
しかし、その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
春樹はそれを見逃さなかった。
「あ、今、笑いました?」
「笑っていません。」
「いや、絶対笑いましたよ。」
「笑っていません。」
「じゃあ、もう一回言いましょうか? 俺の休日の過ごし方。」
「結構です。」
「先週なんて、二日間ほとんど誰とも話してませんでした。」
「足立さん!」
美奈の声が少し大きくなった。
春樹は思わず笑ってしまった。
「すみません、すみません。」
「もう……。」
美奈は困ったように視線を落とした。
その瞬間、春樹は気づいた。
彼女は、怒っているというよりも、どう対応していいのか分からず戸惑っているらしい。
少し意地悪なことを言ったかなと思い、春樹は姿勢を正した。
「でも、小泉さんも大変ですね。」
「……何がですか?」
「こういう話をいちいち確認しなきゃいけないんでしょう?」
美奈は意外そうに顔を上げた。
「それが仕事ですから。」
「そうでしょうけど。俺だったら嫌になりますよ。社員が誰と仲良くしてるとか、何を渡したとか。」
「……。」
「もっと他にやることあるでしょうし。」
美奈は少し考えてから、静かに答えた。
「私も、そう思うことはあります。」
「えっ?」
「ただ、規則がある以上、担当者として無視するわけにもいきません。」
「なるほど。」
「それに、今回の件では、足立さんも相良さんも、噂によって困っているわけですよね。」
「まあ、そうですね。」
「でしたら、私たち人事部が確認すべきなのは、交際しているかどうかだけではなく、その噂が業務に悪影響を与えていないかということです。」
春樹は思わず美奈を見つめた。
その言葉には、単なる規則の番人という印象とは違う、仕事に対する誠実さがあった。
「……小泉さんって、案外ちゃんとしてますね。」
美奈の眉がぴくりと動いた。
「案外、とは?」
「あっ。」
「私は普段、ちゃんとしていないように見えるんですか?」
「いや、そうじゃなくて!」
「では、どういう意味でしょう?」
「ええと……。」
春樹は必死に言葉を探した。
「もっと、何でも規則で判断する人なのかなと思ってたので。」
「……。」
「あ、これも失礼でしたね。」
「……そうですね。」
美奈は小さくうなずいた。
春樹は肩を落とした。
(しまった。また余計なこと言った。)
しかし、次の瞬間。
「でも。」
美奈が口を開いた。
「私も、足立さんの印象が少し変わりました。」
「えっ?」
「もっと……。」
彼女は言いかけて、少し迷った。
「もっと、いい加減な方なのかと思っていました。」
春樹は目を丸くした。
「……それ、結構ひどくないですか?」
「申し訳ありません。」
美奈は真面目に頭を下げた。
その仕草が妙におかしくて、春樹は吹き出してしまった。
「ははっ! いや、別に怒ってませんよ。」
「そうですか。」
「でも、何でそんな印象だったんです?」
「神崎課長から、以前お話を伺ったことがありまして。」
春樹は、ぴたりと笑うのをやめた。
「……神崎課長?」
「はい。」
「何て言ってました?」
美奈は少し考えた。
「『あいつは仕事はできるんですけど、女心に関してはポンコツです』と。」
「……。」
春樹は天井を見上げた。
(あの野郎……。)
今度の飲み代は、絶対に神崎課長に払わせよう。
春樹は固く決心した。




