第4話「人事部からの呼び出し」
午前十一時四十分。
ついに恐れていたものが届いた。
人事総務部からの社内メールである。
件名は、妙に堅苦しかった。
『社員間の交際に関する事実確認について』
春樹は画面を見つめたまま固まった。
本文は短かった。
『足立主任
お疲れさまです。
人事総務部の小泉です。
本日、社員間の交際に関する情報提供があり、職場環境への影響について確認したい事項がございます。
つきましては、本日十三時より人事総務部会議室にお越しいただけますでしょうか。
なお、本件は現時点で規程違反を認定するものではありません。
小泉 美奈』
「……マジか。」
春樹は天井を見上げた。
どうやら、この会社ではプリン一個が人事案件になるらしい。
すぐさま美紀にチャットを送った。
『おい、人事部から呼び出されたんだけど!』
数秒後、返信が来た。
『えっ! 早くないですか!』
『何が!』
『私たちの結婚式の話ですか?』
『違う!』
『じゃあ、婚約発表?』
『一回黙れ!』
そこへ、さらに返信が来た。
『でも、先輩とだったら、別にいいですよ?』
春樹はその文章を二度読みした。
『何が?』
『結婚式です♡』
春樹は机に額をぶつけた。
ごつん、という鈍い音がした。
「足立さん、大丈夫ですか?」
隣の同僚が再び顔を上げた。
「……プリンって、怖いな。」
「は?」
その頃、七階の人事総務部では、小泉美奈が一通の匿名メールを読み返していた。
『今朝、六階のラウンジで営業企画部の足立主任が、営業部の相良さんに親密な言葉をかけ、贈り物を渡していました。
社内恋愛禁止規程に抵触する可能性がありますので、確認をお願いします。』
美奈は小さくため息をついた。
黒髪を肩のあたりで切り揃え、きちんとした紺色のスーツを着た彼女は、二十九歳という年齢よりも少し落ち着いて見える。
真面目で几帳面。
仕事に対する責任感が強く、曖昧な処理を嫌う。
その性格のおかげで上司からの信頼は厚かったが、社員からは少し近寄りがたい存在として見られていた。
もっとも、本人にその自覚はない。
「……また匿名ですか。」
美奈は小声でつぶやいた。
最近、社内恋愛禁止令の運用強化が通知されて以来、この手の情報提供が増えていた。
しかし、その大半は単なる噂や勘違いだった。
先週など、男女二人が休日に映画館へ入っていったという報告が寄せられたものの、実際には兄と妹だったということもある。
別の報告では、男性社員が女性社員に花束を渡していたという話があった。
調べてみれば、定年退職する女性社員への送別品だった。
(社員同士の普通の交流まで疑い始めたら、仕事にならないでしょうに……。)
美奈は眉間に指を当てた。
そもそも、今回の情報提供には肝心なことが書かれていない。
どんな言葉をかけたのか。
何を渡したのか。
その行為が本当に職場環境へ影響しているのか。
何一つ具体的ではなかった。
本来ならば、噂だけで社員を呼び出すべきではない。
ただ、今回は管理職を含む複数の社員へ話が広がり始めており、すでに業務中のからかいが発生しているという話も入っていた。
その状況だけは確認しておく必要がある。
「小泉さん、また恋愛関係?」
向かいの席に座る先輩社員が声をかけてきた。
「ええ。少し確認が必要な件です。」
「大変ねぇ。こんなことばっかり調べさせられて。」
「仕事ですから。」
「でも、たまには自分の恋愛のほうも調べたら?」
「……はい?」
「小泉さん、彼氏いないんでしょ?」
美奈は手に持っていたボールペンを止めた。
「それと、今の業務に何か関係がありますか?」
「いやいや、冗談よ!」
「でしたら、業務に戻ります。」
美奈は何事もなかったようにパソコンへ視線を戻した。
しかし、その耳がわずかに赤くなっていたことには、誰も気づかなかった。
(まったく……どうして皆さん、そんなに恋愛の話が好きなんでしょう。)
そう思いながら、美奈は机の引き出しを開けた。
中には、昼休みに読むつもりで持ってきた文庫本が入っている。
淡いピンク色の表紙には、男女が向かい合うイラストが描かれていた。
タイトルは『君と出会った、あの日から』。
美奈はそれをちらりと見て、素早く引き出しを閉めた。
(これは、恋愛ではなく文学です。)
自分でもよく分からない言い訳を心の中でつぶやきながら、彼女は再び仕事に集中した。




