第3話「社内の噂は光より速い」
午前十時十五分。
春樹は自席で営業資料の修正をしていた。
来週の顧客向け提案会議に使用する資料で、今朝から数字の整合性を確認している。
前年同期比の売上増減率と、システム導入後の業務削減時間。
数字そのものは間違っていなかったが、説明文が少々分かりにくい。
春樹は眉間にしわを寄せながら、グラフの配置を調整していた。
そこへ、内線電話が鳴った。
「はい、営業企画部、足立です。」
『おう、春樹。俺だ。』
聞き慣れた声だった。
「神崎課長、お疲れさまです。」
『お前、今ちょっといいか?』
「何ですか?」
『いや、確認したいことがあってな。』
神崎勇人は三十四歳。
営業部の課長であり、春樹とは部署を越えて親しくしている先輩でもある。
見た目はそれなりに整っていて、話も上手い。
女性社員からの人気も高いらしいが、なぜか恋愛が長続きしないという不思議な男だった。
「仕事の件ですか?」
『まあ、仕事と言えば仕事だな。』
「何の案件です?」
『お前、相良と付き合ってんの?』
春樹は、キーボードを打つ手を止めた。
「……は?」
『いや、だから。相良美紀と付き合ってるのかって。』
「何を言ってるんですか、朝っぱらから。」
『もう朝っぱらって時間でもないけどな。』
「そんなことどうでもいいですよ。付き合ってません。」
『本当に?』
「本当です。」
『じゃあ、今朝ラウンジで愛の告白をしたって話は?』
「……はあ?」
春樹は椅子から半分立ち上がった。
「ちょっと待ってください。誰がそんなこと言ってるんです?」
『営業部じゃ、結構な話題になってるぞ。』
「いやいやいや! 何ですか、それ!」
『お前が相良に、好きなものを全部覚えてるって言ったらしいじゃないか。』
「言いましたよ。」
『ほう。』
「だから、プリンの話ですって!」
『……プリン?』
「そうです! プリン!」
電話の向こうで数秒間、沈黙が流れた。
そして、勇人が吹き出した。
『はははははっ! お前、プリンで口説いたのか!』
「口説いてません!」
『いやあ、斬新だな。今どき指輪じゃなくてプリンとは。』
「だから違いますって!」
『しかも二百円だろ? お前、もうちょっと金かけろよ。』
「金額の問題じゃありません!」
『おっ、そこまで相良への気持ちが強いのか。』
「話を聞け!」
周囲の社員が、何事かと顔を上げた。
春樹は慌てて声を落とした。
「とにかく、何もありませんから。変な噂を広めないでくださいよ。」
『分かった分かった。俺はお前の味方だ。』
「全然信用できないんですけど。」
『ただな、春樹。』
「まだ何か?」
『うちの会社、社内恋愛禁止だからな。』
春樹は一瞬、言葉に詰まった。
そうだった。
すっかり忘れていたわけではないが、普段の業務ではほとんど意識しない規則だった。
ミナトリンクには、社員同士の恋愛交際を原則禁止するという、今どき珍しい社内規程が存在する。
四年ほど前に起きた社内トラブルをきっかけに制定されたものだ。
しかも最近、社長がその運用をさらに徹底するよう指示を出したらしい。
「いや、だから付き合ってないですって。」
『うん。俺は信じてるぞ。』
「絶対、信じてないでしょう。」
『でもな、もし本当に付き合ってるなら、人事部には気をつけろよ。』
「人事部?」
『小泉主任だよ。』
春樹は記憶を探った。
名前には聞き覚えがある。
確か、人事総務部にいる女性主任だったはずだ。
『あの人、社内規則に関しては一切妥協しないからな。』
「へえ。」
『社員の間じゃ、恋愛監査官って呼ばれてる。』
「恋愛監査官?」
『そう。社内恋愛を見つけては取り締まる、恐ろしい女だ。』
「なんですか、その刑事ドラマみたいな設定は。」
『いいか、春樹。絶対に目をつけられるなよ。』
「だから、何もしてませんって!」
電話が切れた。
春樹は受話器を置くと、大きく息を吐いた。
(何なんだよ、まったく……。)
プリンを買っただけで、どうしてこんな話になるのだろう。
世の中には、もっと大事なことが山ほどあるはずだ。
そう思いながらパソコンの画面に目を戻した瞬間、社内チャットの通知が表示された。
送信者は相良美紀。
『先輩、大変です!』
春樹は嫌な予感を覚えた。
『今度は何?』
『私たち、付き合ってることになってるみたいです! 笑』
『笑ってる場合じゃないだろ!』
『しかも、結婚前提らしいですよ!』
「どこまで話が進んでんだよ!」
思わず声が出た。
隣の席に座っていた同僚が、びくりと肩を揺らした。
「足立さん、どうしたんですか?」
「いや……。」
春樹は一瞬、説明しようとした。
しかし、説明すればするほど余計に面倒なことになりそうだった。
「ちょっと、プリンが……。」
「プリン?」
「いや、何でもない。」
同僚は不思議そうな顔をしながら、自分の仕事に戻っていった。
春樹は両手で顔を覆った。
(頼むから、みんな仕事をしてくれ……。)




