最終話 #1 読みかけの頁
ある夜、オルカは夜中に視線を感じた。と言っても、船の中にいるのは自分とヤドカリだけなので、視線の正体はヤドカリに違いなかった。クジラの歌を辿り、比較的浅い海から外洋に出て航行していた夜だった。外洋は深いブルーで何もなく、底が見えないので不安な気持ちになる事がある。特に夜の外洋は、あらゆる生命を吸い込んでしまいそうな不気味さを持っていた。
「ヤドカリ……?」
オルカは眠い目を少しだけ開けてヤドカリを見た。彼はベッドの脇に立っていて、その表情は見えなかった。返事もない。オルカはそれを夢だと思ってまた目を閉じた。あの時、なぜ起き上がりヤドカリの話を聞こうとしなかったのか、オルカは後悔する事になる。
次の日の朝は、ヤドカリは至って普通だった。
オルカはその様子を見て、やはり昨日の事は夢だったのだ、と思った。思慮深いオルカに似合わず、楽観的な考えだった。ヤドカリが二人分のコーヒーを淹れ、前に焼いた保存用の堅パンを温め直していた。簡単な朝食を済ませると、外を確認し、注意深く外洋を進んだ。ヤドカリはクジラの歌が聞こえる方角をオルカに教えた。
「このまま真っ直ぐ進めば、多分」
とヤドカリは言った。船の操舵をオルカに任せっきりにして、ヤドカリは座っていたのだが、次にオルカが振り返ると、ヤドカリは椅子の上で丸まって眠ってしまっていた。昨晩寝られなかったのか、遅くまで本でも読んでいたのかな、とオルカは思った。ブランケットをかけようとすると、ヤドカリはすぐに目を開けた。
「あっ、オルカさん。すみません。うとうとしてしまって。操縦、代わります」
「少し寝てても大丈夫だぞ。真っ直ぐ進めば良いんだろ?」
「いえ、もう寝ません。真っ直ぐ進んでください。ちゃんとナビゲーターになります」
とヤドカリは力強く言った。
「クジラの歌ってどんな声なんだ?俺には全く聞こえないが」
オルカが言うと、ヤドカリは目を細めて答えた。
「とても優しい歌です。でもとても悲しい、寂しい気持ちが伝わってきます。クジラは僕たちみたいに感情があるんだと思います。人間だって、仲間や親しい人が亡くなったら……」
そう言いかけてヤドカリは言葉を止めた。そして少し考える仕草をして、言葉を続ける。
「オルカさんは、死んでしまうクジラと、残されるクジラ、どちらが辛いと思いますか?」
オルカは振り返って少し笑って答える。
「なんだよ。その質問。そんなの、どっちも悲しいだろ」
ヤドカリはオルカの返事を聞いて、静かに言った。
「僕は、置いていかれるクジラの方がよっぽど辛いと思います」
ヤドカリはオルカの方を見ていなかった。窓の外の外洋の、透き通る紺に向かってそう言った。
外洋はどこまで行ってもその姿を変えず、この日は一日中ただ真っ直ぐ進んだ。小魚数匹以外の他の生き物にも会うことはなかった。あのカマイルカの子供は、自分の群れが見つからず、ずっと船について来ていた。宵闇が迫る頃、ヤドカリは夕食に船内の小さなコンロでリゾットを作った。サーディンに作り方を教えて貰った、あのリゾットだ。それをオルカと二人で食べながら、オルカが体調を崩してヤドカリが薬を探したあの夜にも、同じリゾットを作った思い出話をした。ヤドカリは絶えず笑っていて、いつもよりゆっくりと夕食を食べた。
夜眠りにつく前にオルカはヤドカリに声をかける。
「お前、最近よく寝られないんじゃないか?」
「えっ?そんな事ないですよ」
「俺のベッドで一緒に寝るか?子守唄、歌ってやるよ」
と、オルカは冗談混じりに言った。その時、ヤドカリは最初戸惑った表情を見せた。そして少しだけ手を伸ばしてオルカの服の裾を掴みそうになったが、慌ててその手を引っ込めた。
オルカはヤドカリの意外な反応に『あれっ?』と思ったが、ヤドカリは怒ったように、
「僕、子供じゃないですから」
といつもの台詞を言ったので、オルカは安心して
「おやすみ。ヤドカリ」
と言った。ヤドカリも
「おやすみなさい。オルカさん」
と言ってお互いのベッドに潜り込んだ。
次の日オルカが起きるとヤドカリが居なかった。




