第六話 僕の海で泳いで
その夜は久しぶりに2人で夕食を食べた。いつもの旅の静けさが戻り、海の流れは少しずつ冷たくなっていく季節だった。あの日ブランコから見た上弦の月は更に膨らみ、水面の上から2人を明るく照らす。透明度が高く遠くまで見渡せる、清々しい夜だった。昼間はただの塊だった鶏冠珊瑚が流れにのって触手を開き、薄桃色に光る。ヤドカリはそれを興味深く眺めた後、口を開いた。
「オルカさん。月の満ち欠けで潮の流れが変わるって本当ですか?」
「なんだ?本でも読んだのか?」
「はい。それに実際、満月や新月だと、潮が大きく流れるし、生き物も産まれる。クジラで産まれる人も、そうだと聞いた事があります。」
「そうだな。不思議な事だが、この海と俺達の身体と、あの空はどこかで繋がってるんだろうな。」
「世界って不思議ですね。僕、この旅に出るまで考えた事なかったです。今日は潮の流れも綺麗ですね。」
「僕達以外にも、こんなふうに旅をした人がいるんでしょうか?」
「時々、違うクジラに住み着いている人はいるな。」
「僕もその内の1人ですね。今は船が家、ですけど。」
オルカは話しながら、何やら書き物をしている。小さな手帳みたいな海藻の束に真剣に筆を走らせていた。
「いつも何を書いてるんですか?」
「あぁ、これは旅の記録だよ。クジラの街がどんなだった、とか、場所とか、その日の潮の流れや、そう言った事を記録として残している。」
「それって、何のためですか?」
「もちろん、自分でも見返す事が出来るし、後々誰かの為になるかもしれないだろ?」
「後々?」
「記録として残しておけば、後から他の誰かが新しいクジラを探す時の道標になったり、自分達のクジラ以外にもクジラの街があるって好奇心の源になったり、まぁ、役に立たないかもしれないが。」
「オルカさんって色んな事を考えてるんですね。」
ヤドカリは感心して答えた。
「やっぱり、本とか、音楽とかはクジラを超えて残すべきだよな。俺は色んな事が終わったら滅びたクジラを探して、そこに残された本や楽譜を探してみたいって思ってる。ちょっとした夢だ。」
オルカが少年のように語るので、ヤドカリは羨ましく思った。自分には夢と呼べるものは無かった。そんな旅をオルカがするなら、自分もついて行きたいと思う。
「俺みたいな、罪を抱えた人間が、夢、なんておこがましいかな。お前以外には、とても言えないな。」
オルカは少し目を伏せて独り言のように言った。
「そんな事ないです。あの時の事は……」
ヤドカリはオルカを見て一度言葉を止めた。
「あれは、オルカさんに全ての責任がある訳ではないと思います。皆、自分で判断して行動した結果です。こんな言い方をしたくないですが、オルカさんだけの所為にするのは間違ってます。」
ヤドカリはここはキッパリと言う。いつもそう思っていた。だが、これにはオルカは答えなかった。
「お前は優しいな。」
オルカは書き物を続けながら言った。少しの沈黙が流れ、ヤドカリはなんとなくギターを手にした。そして優しくて静かな旋律を奏で、鼻歌を歌うように歌った。心地よい音楽と優しい歌声が暗い海に響く。
オルカは幼い少年の時、初めて生きたクジラを見た。クジラの外での採取の作業に駆り出されていた時だった。自分には何の自由もなく、自分のクジラは滅びに瀕していた。ただ命令された事を黙々とこなし、いつもお腹が空いていた。同じ境遇の子供達と一緒に食料になる貝やエビ、海藻を集めたが、それらが自分達の口に入る事はなかった。
絶望、と言ってもそれが物心ついた時からずっと続いていたので、彼らの心はそれが常だった。だから言葉自体が意味を持たなかった。
オルカの足元を大きな影が通った。水面を見上げる事なんて殆どなかったが、その時彼は水面を見た。オルカの真上を大きなクジラが子クジラを連れて悠然と泳いでいた。大きなクジラの目は子クジラへの愛情に満ちている様に見えた。そして泳いで行くクジラはどこまでも自由だった。少年だったオルカはその光景に見惚れて立ち尽くした。
その時オルカは考えてしまったのだ。
もし、あのクジラを手に入れる事が出来れば、と。
サボっていると思われて、すぐにぶたれて地面に倒れた。鼻血が出てそれを拭っている間に、見せしめのように蹴られる。歯を食いしばり、ただ耐えた。
あの自由なクジラに比べて、今の自分が惨めだった。
久しぶりに昔の事を思い出し、険しい顔で動きを止めてしまっていたようだ。ヤドカリがギターを弾きながら時々オルカを心配そうに見ていた。オルカはヤドカリを見て、今自分と一緒にいるのがこの青年で良かったと、心底思った。オルカは自分のクジラにいた時は、一人になれる時間を意識して作っていた。考え事をする時、他者の存在は邪魔だった。しかし、ヤドカリに対してそう思ったことは無い。彼は自分の中に無理に踏み込んできたり、見当違いの事を言って思考を中断させたりしてこない。適度な距離を保ってくれていた。
「お前がパートナーで良かったよ。」
とオルカは言った。ヤドカリは嬉しそうにはにかんで、また歌を歌った。




