最終話#2 空っぽの船
オルカが朝起きると、船の中に違和感があった。ヤドカリのスクーターが無い。そのせいで船の中が広かった。水中ボウガンひとつと、オルカがヤドカリの為に作った海蛇のギターも無く、ヤドカリの本が読みかけのまま、彼のベッド脇に積んであった。そしてベッドにはその主が居ない。浅い海なら散歩に行ったのか、と思うところだが、今船は外洋にいた。それでも散歩に行ったと思いたかった。あのカマイルカの子供の群れを見つけた、とか。
ハッチを開けて船の周りを見ると、最近ヤドカリから離れなかったカマイルカの子供が、オルカのところに来た。どことなく寂しげなイルカの子供を見て、オルカの不安は更に大きくなった。
すぐに自分のスクーターに乗って、周りの海を当てもなく走る。ヤドカリを呼んでも、もちろん返事はなかった。スクーターを走らせながら、最近のヤドカリの行動を思い出していた。リゾットをゆっくり食べていた事、うたた寝からすぐに目覚めた時の言葉、置いていかれるクジラの話、夜中にオルカのベッド傍で佇んでいたヤドカリ、そして昨晩、自分の服の裾を掴み損なって慌てて引っ込めた細くて白い手。
「僕、子供じゃないですから」
と言ういつもの台詞。あの時ヤドカリはどんな表情だったのか。オルカはうまく思い出せない。
「ヤドカリ、なんでだ。何処に行った」
外洋で、スクーターの燃料が無くなったらどうなるのか。底が見えない深い青が、オルカの足元に果てしなく続いていた。
暫く探して、もしかしたら船に戻っているかもしれない、と思って自分も船に戻る。そうであって欲しい。
「オルカさん、お散歩に行って来ました。心配し過ぎですよ」
笑顔で言う、そんないつものヤドカリが船にいるのではないか、淡い期待だったが、船は朝のままでそこにあった。食料を確認すると、ほんの数日分の僅かな食料が無くなっていた。
オルカは絶望的な気持ちになった。自分の事を愚かだと思って責める。何故、ベッドの傍に立っていたヤドカリに、あの時向き合わなかったのか。こんな気持ちを、オルカは人生で何度も味わって来た。何故ヤドカリだけはいつでも自分の隣にいてくれると思っていたのか。
「真っ直ぐ進んでください」
ヤドカリは昨日そう言っていた。オルカは昨日と同じように操縦桿を握り、船を前に進めた。昨日は後ろでずっとヤドカリが自分を見ていた。自分は……あまりヤドカリの方を見なかったと思う……。あの時、ヤドカリはどんな気持ちだったのか。自分との旅が嫌になったわけではないと、そう思いたかった。いや、そうであった方が良いのかもしれない。自分が愛想を尽かされて、ヤドカリが出て行った、その方がいい。何か良くない事が彼の身に起こるよりは。
オルカはその日一日、食事を摂ることを忘れた。そして夜になっても一睡も出来なかった。
翌日船は外洋の深みから、少しだけ浅い海底の島の様な場所に着いた。オルカは、この浅い海にヤドカリがたどり着いている可能性を思い巡らせ、スクーターを走らせる。何処かに何か痕跡が無いか、注意深く見て回った。すると、岩場の海藻の影に、人が住んでいるであろう船の様な家を見つけた。その船の様な家は、暫くは動いていなくて、ずっとこの景色の中にあったように、周りと同化し、海藻やフジツボが付いていた。オルカは迷わず、ドアを叩いた。ヤドカリがここにいるかもしれない。
「すみません。人を探しています。誰かいますか」
そうドア越しに大きな声で言うと、ドアから年配の男が顔を出した。
「なんだね。あんた。旅の人かね?」
年配の男はドアの隙間からオルカを見てそう言うと、
オルカの切羽詰まった顔を見てドアを開けた。
「あの、綺麗な巻き毛の青年がここに来ませんでしたか?」
年配の男が家の奥を見ると、そこには年配の女性もいて、二人は首を振った。
「気の毒にな。はぐれたのか。残念だが、ここには来ていないよ。そもそも誰かが尋ねてくるのは、本当に久しぶりだ」
オルカはあからさまに落胆して
「そうですか」
と言った。
「あんた、顔色が悪いようだ。少し休んでいったらどうだ。お茶くらい出すよ」
と親切なおじいさんが言い、奥でおばあさんも頷いた。オルカはヤドカリをすぐに探しに行きたかったが、なんの手がかりもないので、このあたりの海の話を聞く為に、ありがたく招きを受け入れた。少し、人と話したい気持ちも、あったかもしれない。
案内されてダイニングの椅子に座ると、おばあさんが温かいお茶を出してくれた。それを一口飲むと、ヤドカリがこの様な温かい物を口に出来ているか、寒がっていないか、そんな事を考えてしまった。オルカの想像では、ヤドカリは真っ暗な何処かで一人で座っていた。ヤドカリは何かを待っているように見えるのだが、それが自分ではないことだけは分かった。ヤドカリがどんな気持ちで自分の元を去ったにせよ、叶うことなら、一度しっかりと話をしたかった。しかし、その機会を逃したのは自分だとも思った。
「その巻き毛の青年とやらは、どこでいなくなったのかね?あんたの大切な人なんだろう?」
おじいさんがそう聞くと、オルカは少し冷静になって家の中を観察しながら答えた。
「はい。一日前に外洋で急に居なくなってしまったんです。あいつは俺の旅のパートナーで、ずっと二人で旅をしてきました」
「ほう、外洋で居なくなったなら、それは心配だね。あそこはたまに人が消える海だよ」
おじいさんが不吉な事を言ったので、おばあさんがおじいさんをなだめて言う。
「そんな、消えるだなんて、ただの迷子かもしれないし、あの辺りには谷の人もいるから」
「谷の人?」
オルカは気になって聞き返す。この家の中には不審な物やヤドカリに繋がりそうな物は見当たらない。
「ええ。私達はこうやってクジラから離れて、自給自足で生きているんだが、もともとはクジラの谷、と言うクジラの墓場みたいな場所にいたんですよ」
「あそこはクジラが死に場所を選んで最後に泳いでくるところでね、滅びの心配が無いところなんじゃ」
と、おじいさんとおばあさんが交互に言った。
「そんな良いところにいたなら、何故ここで暮らしているんですか?」
オルカは本心からの疑問を口にした。
「あそこは少し深くてね。日の光があまり届かない。だから気持ちがおかしくなってしまう人もいる。それに人が多いから、争いも絶えない。私達は日の光がある暮らしをしたくて、ここに住み着いたんじゃ。住めば都というか、慣れてくると、不自由を感じない」
「そうなんですね。確かに二人だけならクジラから離れても、なんとかやっていけるのでしょうね」
「実はあと何人か、一緒にここに来た人がいたのだけど、クジラの外だから、外敵や毒にやられて、今は二人になってしまった。でもあの人達をここで弔ったら、この場所がわしらの故郷の様になってしまった。世代を重ねたり、群の仲間を弔うと、その土地がどんなに過酷でも離れられなくなるんじゃよ」
オルカは話を聞いて、その気持ちは分かると思った。自分も自分のクジラで仲間を弔い、そこを故郷と感じたからだ。
「この辺りはクジラの歌も強く聞こえるらしくてな」
とおばあさんが良くない事のように言ったので、オルカは即座に聞き返した。
「クジラの歌に、何かあるんですか?」
おばあさんはため息混じりに声を落として言う。
「殆どの人には聞こえないが、クジラの歌は生命を吸い取ると噂されているよ」
オルカの中でおばあさんの言葉が反芻された。
くじらのうたはいのちをすいとる。




