最終話#3 馬鹿と執着
気がつくと、オルカは手と脚を縛られ、倉庫のような場所の床に転がっていた。身体がピリピリと痺れる事から、何かの毒を飲まされたのだと分かる。少しの間意識が無かったようだ。最初、状況を理解出来なかったが、冷静に思考を巡らせると、ご老人二人にお茶をご馳走になり、クジラの歌が生命を吸い取る、という噂を聞いた事が思い出された。ヤドカリは居ない。
この毒はたぶん魚の骨に蓄積する貝毒だ。自分はヤドカリが気になって、お茶を一口しか飲まなかった。そんなに長く意識を失っていた訳ではない筈だ、とオルカは時間経過の計算もする。
早くヤドカリを探さなければ。
オルカの中には不思議と、老人達に対する怒りは無かった。寧ろクジラの谷の存在や、クジラの歌の噂を教えてくれた事に感謝すらしていた。今オルカの怒りは全て自分自身に向かっていた。
オルカは周りを見て、自分を縛っている縄をなんとか出来ないか考えた。窓がない部屋には小さなランタンが灯されずに置かれていた。他には食料や日用品、船の部品や僅かなクジラの油も置いてある。クジラの油はクジラから離れたら手に入らない筈だから、あの老人達はクジラの谷の人と交流があるのか、それとも……。
オルカは床を転がり、ランタンの置かれている棚を体当たりで揺らす。ランタンが床に落ちて割れると、その破片を後ろ手に縛られた指で拾って、器用に手の縄を切った。そして脚の縄も破片を使って解く。毒でまだ身体が痺れるが、動けない程ではなかった。
そこでドアの外に人の気配を感じて、オルカはドアの脇に身を隠す。ランタンの鋭い破片は手の中にそのまま収めた。ドアが開くと、あの老人ではない大柄な男が入って来た。オルカの姿はちょうど、開いたドアで隠される位置だ。男は自分が持って来た灯りで部屋を見回し、オルカがいない事とランタンが割れている事に気付く。部屋の外に向かって
「おい、居ないぞ。ちゃんと縛ったのか」
と怒鳴った。部屋の外からあのおばあさんの
「ちゃ、ちゃんと縛りましたよ」
という怯えた声が聞こえた。オルカはその声が聞こえた瞬間にドアの影から飛び出して、大柄な男の首に腕を回した。締まり過ぎず、抵抗出来ない強さで締め上げ、おばあさんには優しく尋ねた。
「何が目的ですか?いつもこうやって旅人を襲ってるんですね?」
おばあさんはオルカの口調に怒りがない事に驚きながらも、自分達の行為を正当化するように言った。
「そうですよ!そうでもしなければ、こんなところで生きて行く事は出来ない!」
「さっき、青年は尋ねて来なかったと言った。あれは本当ですか?」
「あれは本当ですよ。そんな子が来たら、直ぐに毒を飲ませて捕まえたでしょうからね。若い子は高く売れるしね」
と言ったので、オルカはヤドカリがここに来なくて良かったと思った。
「あんた達の仲間は何人ですか?」
とオルカは更に男の首を絞めながら冷静に聞く。
「私とその男と、おじいさんと、後二人……」
とおばあさんが言ったので、オルカは男の首をさらに少し締め上げ手を離した。大柄な男は気を失って床に転がる。
「クジラの谷への海図を下さい。」
オルカは冷徹におばあさんに言った。脅し文句はないが、逆らえば何をされるか分からないほど、本気で冷たい目をしていた。おばあさんは何も言わずに引き出しから海図を出してオルカに渡す。オルカは受け取ると直ぐに自分の船に向かって走った。
船に着き隠れて様子を伺うと、おじいさんが周りを見張り、黒い髭の男と短髪の女がオルカの船を漁っていた。あの船はオルカとヤドカリにとって家のような場所だ。そこに土足で踏み込まれ、オルカは激しい嫌悪感を抱いた。オルカのスクーターはここに運ばれていた。そのスクーターには朝ヤドカリを探しに出かけたまま、水中ボウガンが括り付けられている。
「この船は少し旧式だが、よく出来てるぜ」
と船の外から黒い髭の男が言うと、短髪の女が船のハッチから顔を出して、
「食料も油もあるよ!生活用品も。それに見て!ほら本まであるの。」
と、ヤドカリの本を戦利品のように掲げた。
その行為はオルカの逆鱗に触れた。彼らがどの程度の悪意を持っていたのか、オルカには分からない。ただ、あの本はヤドカリが帰って来た時に続きを読むであろう本だ。ヤドカリが帰ってくるかどうか、オルカには分からない。だが、今の自分に彼が帰ってくる場所を守る以上に大切な事があるのかどうか、オルカには分からない。毒で目が眩む思いがして、何もかもが分からなかった。
だが、汚い手でその本に触れるのは許せなかった。
オルカは咄嗟に飛び出して、あの鋭いランタンの破片を女に向かって投げた。それは投げナイフのように宙を切り裂き、女の肩に深く刺さった。女は何が起こったのか分からず、痛みで本を離した。その本が地面に落ちる前に、オルカは自分のスクーターの水中ボウガンを外して構えると、こちらに向かってボウガンを構え、放とうとしている黒い髭の男に向かってそれを放つ。その矢は男の体を串刺しにするように貫いた。男が血を流して倒れると、短髪の女は悲鳴を上げた。
オルカはボウガンを装填しながら移動し、地面に落ちたヤドカリの本を拾うと、船によじ登って女の首根っこを掴んで片手で持ち上げる。女は痛みと恐怖に顔をしかめて動けなかった。
「降りろ」
とだけオルカは言うと、短髪の女をそのまま船の外に突き飛ばした。そのあまりに無慈悲な光景に、見張りのおじいさんは言葉もなく、動くことも出来ずにそこにいた。短髪の女は
「痛い。痛い。人殺し……」
と言い、肩を押さえて転がっていたが、オルカはその横で淡々と自分のスクーターを船に戻した。オルカは冷淡に見えて、心の中では自分の行為に吐き気を覚えていた……。
その時不意にヤドカリの言葉を思い出す。
「僕は、置いていかれるクジラの方がよっぽど辛いと思います」
ヤドカリはあの時、そう言ったのをオルカは思い出せる。置いていかれるクジラとは、俺の事か?だから弱った自分を見せないように、一人で船から離れたのか。いったいいつからそんな気持ちを隠して、俺の隣にいたんだ……ヤドカリ。
自分はどうしようもないほど愚かで馬鹿だった。




