最終話#4 影を食べる
ヤドカリは寝静まった夜、音を立てないように布団から出ると、自分のスクーターを用意した。食料はほんの少し、多分あまり食べられないから。自分用の水中ボウガンは、いつもオルカが手入れをしてくれた。護身用の間切と……大切な海蛇のギターを積み込むと、読みかけの本は荷物になるので置いていく。感情を無理矢理押し込めて荷物を背に積む。音を立てないようにハッチを開き、スクーターを船の外に出す。注意深くオルカの寝ているベッドを確認する。
少し前からおかしいと思っていた。最初は夜寝られなくなった。それでも昼間は平気だったが、段々と疲労感に苛まれるようになった。ヤドカリはまだ若いので、寝て疲労が回復しない事なんて経験が無かった。風邪を引いても、本来なら数日寝たら回復に向かうのに、この疲労感は何日経っても良くならない。寧ろどんどん悪くなる。ある日鏡をよく見ると、自身の髪のミルク色の部分が、僅かだが増えているのが分かった。この体調不良をオルカ相手に隠す事が、一番大変だった。彼はいつもヤドカリを気にかけていたから。このまま髪の色まで隠し切れるわけがない。
食事が喉を通らなくなる。昼間なのに眠くなる。このまま悪くなっていったら、多分自分は動けなくなるだろう。そして……その後は……。
自分にもしもの事があったら、オルカはどうなるだろう。以前から自分自身を責めてきた彼は、これ以上の喪失に耐えられるのか。
僕の存在はオルカさんにとってどれくらい?
分からない。でも、オルカの前で弱っていく訳にはいかない。そんな事なら一人で何処かに行ってしまう方がいい。オルカさんには、僕が何処で何をしているか分からないと、そう思われた方がいい。身体が動く今ならまだ、それが実行できるだろう。
オルカさんにはしっかりとクジラの歌が聞こえる方角を伝えて、クジラの歌が強く聞こえるところまで行けたら、その時になったら……。
あの時、オルカさんに助けてもらって、今日まで生きながらえた。ラッキーだったんだ。もう何も望むのはやめよう。
本当はもっとずっと、オルカさんと一緒に居たい、なんて。
ヤドカリはスクーターに跨るとスクーターを潮の流れに乗せる。船から離れたところまで流されてからエンジンをかける。
夜の外洋は不気味だ。自分はとてつもなくちっぽけだ。夜の海はヤドカリの影を食べてしまうようだ。
そう思っていると、あのカマイルカの子供が泳いで来た。
「お前は僕の言葉を本当は分かっているね。オルカさんと一緒に居てあげて欲しいんだ。これは僕の最後のお願いだ」
ヤドカリはカマイルカを撫でながらそう言った。カマイルカは悲しそうに少しだけ鳴いた。
「僕の事はもう放って置いて欲しい。ごめんね」
そう言ってヤドカリはスクーターのスピードを上げる。
どこか、この外洋を抜けて、少しでも浅いところで静かに一人で最後の時間を……
どこか、オルカのいない、何処かで、何処に……
ずっと無表情で、自分自身にすら心を隠していたヤドカリはスクーターを走らせながら、やっと涙を流した。それは止めどなく頬を伝って流れた。涙の暖かさが自分に生の実感を与える。涙で視界がぼやけても、それを拭う事もせず、ただ進む。寂しい。オルカとの楽しい旅の記憶が蘇った。この旅は、自分の短い人生の中で一番穏やかな時間だった事に気付く。
ヤドカリの疲労はピークを迎えていた。殆ど二日間寝ていない。スクーターのハンドルを握る手にも力が無くなっていく。ヤドカリのスクーターはどんどん海の深みに落ちていった。海は下に行くと急に冷たくなる。急に潮が変わり水温の境目があるのだ。それの境を何度か越えると、暗くて寒い海の底に着く。そこはやはり白い砂漠のような場所で、ただ暗くて寒い。音もなく、匂いもない。クジラの歌はまだ聞こえていた。ヤドカリは力尽きて、スクーターの横で丸まって倒れ、強烈な睡魔に襲われた。
オルカの作ってくれたギターを抱きしめる。
凄く寒かった……




