最終話#5 甘い籠と足跡
「ルリ。どうかしたのですか?」
白い砂の上の光も届かない海底の砂漠で、活発そうな男の子がスクーターを走らせる練習をしていた。後ろから大人の男が男の子に声をかけた。
「ヤコウ様、こんなところで誰か寝ています」
ルリと呼ばれた少年は、後ろから来たヤコウと呼ばれる男に、そう報告した。何もない砂地に見た事もないスクーターが無造作に置かれ、その近くで美しい青年がギターを抱えて丸くなって倒れていた。顔色が悪く、唇が紫色になっていた。目の周りには涙の跡があり、疲れたのかクマも出来ていた。
「これはいけない」
ヤコウと呼ばれた、美しいパールのような色の長髪の男が、倒れている青年の脈をとり生死の確認をする。微かに鼓動があるがその手は冷え切っていた。
「ルリ、すぐにこの人を運びましょう。手伝って」
ヤコウはルリ少年にそう言うと、二人で青年を医務室に運ぶ。ヤコウは置いてあったスクーターやギターも自分のスクーター乗せて牽引し、その場所は何も無かった砂地に戻った。
ただ一つ、青年の懐から美しい木彫りの装飾のされた短刀が静かにこぼれ落ちた。
寒さと睡魔に襲われて意識を失っていたヤドカリは、暖かい布団と丸一日の睡眠によって意識を取り戻した。見知らぬ部屋の暖かいベッドに寝かされ、その傍には紺色の短髪をした元気な少年がヤドカリを見守っていた。
「あっ気が付いたの?良かった!」
とその少年が明るい声で言った。
「あれっ?サーディン?」
ヤドカリは前にいたクジラに住んでいる、親友の名前を口にしてしまった。雰囲気がなんとなく似ており、ヤドカリが混乱していた為であった。
「サーディンって誰?」
元気な男の子は純粋に聞き返した。ヤドカリは少年の顔をよく見て、
「なんだ。違った……」
と残念そうに布団の中で呟いた。
「ねえ。聞こえてるよ」
少年は頬を膨らませて青年に言い返した。
「ごめんね。もしかして君が助けてくれたの?別に放っておいてくれて良かったのに。まぁ、とりあえずはありがとう」
とヤドカリは布団の中からどこまでも失礼に言った。
「ねぇ、大丈夫?何か飲む?とりあえず名前くらい教えて欲しいんだけど。呼び方に困るから!」
と少年が言うので
「僕はヤドカリ。お水が欲しいです。君の名前は?」
とまたしても布団の中から言った。
「僕はルリって言うんだ。ヤコウ様に頼まれてヤドカリさんのお世話をします。よろしく」
「よろしくね」
ヤドカリはとりあえずの返事をしたが、どこまでも投げやりな態度だった。ルリはヤドカリの為に水を持ちにいく。そのついでにヤドカリが目を覚ました事をヤコウに報告した。もちろん
「凄く失礼な青年だ」
と言う報告だった。ヤコウは面白がってヤドカリの病室をルリと一緒に訪れる。
「目が覚めましたか?良かった。ルリから聞きました。とてもお疲れでしょう。体調はどうですか」
とヤコウは丁寧に布団の中のヤドカリに話しかける。
ヤドカリは直ぐに上半身を起こして答えた。
「助けていただき感謝します。体調はお陰様で幾分か良くなりました」
と、例の感情の起伏のない話し方で答えた。それを聞いてルリはあれっ?という表情を浮かべた。
「まだ身体を起こしてはいけません。どうか良くなるまでここで休んで下さい。」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて少しここで休ませて頂きます。ここはどこですか?今は夜なのですか?」
「ここはクジラの谷と呼ばれる場所です。少し深い海にあり、陽の光は殆ど届きません。今は昼過ぎにあたる時間なのですが、このように暗いのです。ここではクジラの油は新しいクジラが落ちて来る事で補充されるので、昼間も灯りを灯して生活出来ます」
「新しいクジラが落ちてくる?」
「はい。一部のクジラ達はこの海で死ぬ場所を定めているようです。時々新しいクジラが落ちてきて、私達に恵みをくれます。外から来た方は皆驚かれます」
とヤコウは説明した。ヤドカリは混乱して頭がくらくらした。
「まだ体調が良くないようですね。ゆっくり横になって下さい。何かあったら、そこのルリに言って下さい。なんでも聞くように教育してあります」
ヤドカリはその言い方に違和感を覚えたが、とりあえず横になった。一時の最悪な状態は脱したが、ヤドカリはやはりまだ体調が悪かった。ヤコウはこの時、ヤドカリが動けないほど体調が悪いのを見逃してはいなかった。ヤドカリをルリに任せて部屋を出る。
「ルリ。お水をありがとう。少し寝るから」
「ヤドカリさん。何か食べないですか?体力が戻りませんよ」
とルリは心配そうに言った。
「何も食べられないよ。僕ずっと身体がおかしいんだ……」
とヤドカリは答え、そのまま寝てしまった。
それから二日ほど経過しても、ヤドカリは食べ物を何も口にしなかった。ずっとベッドにいて、寝ている時以外は窓の外の暗い街の灯りを見ている。その横顔はとても悲しげで、透き通る様に美しく儚かった。さすがにルリは心配して、ヤコウに報告する。
「何も食べられませんか?」
ヤコウはヤドカリの病室に来て尋ねた。ヤコウもヤドカリの横顔をつい眺めてしまう。ヤコウ自身も綺麗な長髪に整った顔立ちをしているが、ヤドカリの寂しげな儚い美しさには遠く及ばなかった。
「僕が倒れていた時、ギターがありませんでしたか?」
ヤドカリはヤコウの質問には答えず、そう聞き返した。
「どうでしたか。あの時落ちていた物を見てみます。貴方が倒れていた場所も、もう一度私が確認に行きましょう。それより何か口にしないと、弱ってしまいます」
ルリはその会話を聞いて、ヤドカリを見つけた時を思い出した。ギターはあったような。ヤコウが拾っていたと思う。ただ、許可のない事は話すな、と命令されていた。
「約束しましょう。私は貴方のギターを探して、ここにお持ちします。ヤドカリさんは何か少しでも食べて下さい」
「ギターが見つかったら、何か食べられるかもしれません」
とヤドカリはあくまでもギターが先だと言わんばかりだった。ヤコウは少しため息をついて部屋を出て行こうとして、ドアのところで脚を止める。
「そのギターが大切なのですね?」
「はい。大切な人が作ってくれたギターですから」
とヤドカリは言った。オルカが作ったあの海蛇のギターは、あの日からずっとヤドカリの宝物だった。
数時間後、ヤコウはギターを持ってヤドカリの病室を再び訪れた。そのギターを見て、ヤドカリの無表情が一瞬だけ緩む。ヤコウはその表情を見逃さず、ギターをヤドカリに渡し、更に持っていたもう一つの物をヤドカリに差し出した。
「ギターは見つけました。ヤドカリさん、これを食べてみませんか?これは甘藻の根から作ったアイスクリームです。冷たくて美味しいのですよ。とても貴重な食べ物です」
「アイスクリーム?冷たい食べ物ですか?」
「はい。私達、クジラの谷ではこういった技術も少しずつ進んでいます。とても甘くて美味しく、病気の人でも食べやすいと評判ですよ」
ヤドカリは差し出されたアイスクリームをおずおずと受け取った。ルリがその様子を羨ましそうに見ていると、ヤコウはルリにも同じアイスクリームを差し出した。
「さぁ、ルリも食べなさい。今日は特別ですよ」
「わぁ、ヤコウ様!ありがとうございます」
とルリは感激してアイスクリームを大切そうに食べた。それを見てヤドカリもそれを口に運ぶ。ほんのり甘藻の香りが舌の上でとろけて、とても食べやすく美味しかった。数日間何も食べてなかったのに、アイスクリームはすんなりと食べることが出来た。ヤドカリはこんなに美味しい食べ物なら、オルカと一緒に食べたい、と思った。その少し緩んだ様子を、ヤコウは満足そうに眺めた。
「ヤドカリさんは何かのご病気ですか?ずっと体調が優れないようですね」
とヤコウが尋ねる。ヤドカリはギターが戻った事、アイスクリームを食べた事で、少しだけ安心していた。
「はい。原因は分からないのですが、ずっと疲労感が抜けないのです。夜寝られなかったり、食事が出来なかったり、髪が少し白くなってしまいました。」
と言った。ヤコウは驚き、少し身を乗り出す様にして言った。
「まさか、あなたはクジラの歌が聞こえるのではありませんか?」
「えっ?……はい。そうです。それに何か関係が?」
ヤドカリはポカンとして答えた。
「ヤドカリさん。大切な話をしますので、しっかり聞いて下さい。クジラの歌は生命を吸い取る、という噂を貴方は知っていますか?」
「いいえ」
「それは噂ではないのです。クジラの歌はそれをしっかり聴こうとすると、人の体力を奪ってしまうのです。それが貴方の体調不良の原因だと思います。クジラの歌は脳の視床下部、延髄と呼ばれる場所を刺激してしまうので、自律神経が壊れて疲労が回復しなくなる、これが原因だと考えられています」
ヤドカリには全く意味が分からなかったが、体調不良の原因がクジラの歌だという事に、驚きを覚えた。
「実はクジラの歌を聞く脳神経の働きを抑えて、治療する薬があります。かなり貴重な薬ですが、私なら貴方の為に用意出来ると思います」
「その薬を使ったら、クジラの歌は聞こえなくなるのですか?」
ヤドカリはヤコウの予想とは違う返事をした。ヤコウは当然、ヤドカリが薬を欲しがると思っていたのだ。
「はい。クジラの歌は聞こえなくなりますが、定期的に使えば貴方の体調は良くなると思います」
「そうですか……」
ヤドカリは俯き、何かを考えていた。何を考える事があるのか、ヤコウは不思議だった。
「薬を使うかどうかは、少し考えさせて下さい。」
とヤドカリはきっぱりと答えた。
ルリはその会話の全てを、ヤドカリの傍らで聞いていた。




