第五話 前編 誰も知らないクジラの尻尾
嵐が過ぎ去ると、海の中はうねりによってかき混ぜられた栄養分が、プランクトンや小魚たちを活発にしていた。そこに光が差し込み、海底の砂漠を照らす。植物プランクトンから海藻まで、皆元気に踊った。
ヤドカリは船のハッチを開けて外に出ると、まずあのカマイルカの子供を呼んだ。
「嵐は行ってしまったよ。もう戻っておいで。」
そう海に向かって少し大きめの声で伝えると、カマイルカの子供は喜んだ様子で、ヤドカリに近づいてきた。深海で嵐を無事やり過ごしていた様だ。
イルカは耳が良いので、ヤドカリの声を直ぐに聞き分けられる。
「お前が無事で良かったよ。」
ヤドカリがカマイルカの子供を撫でると、そこにもう一匹別のイルカの子供が近づいてきた。ハナゴンドウの子供のようだ。カマイルカより大きく、のんびりしている。
「あれ?お友達?それとも、お前も迷子なの?」
とヤドカリが言うと、隣でオルカが、
「おい、ヤドカリ、親切もいいが、全部を面倒見られないぞ。」
と言った。ハナゴンドウとカマイルカの子供はヤドカリの腕をグイグイ押し、何かを伝えようとしている様だった。
「どうしたの?何かあったの?」
そう言ってヤドカリはスクーターを準備する。イルカ達はヤドカリを何処かに案内したいようだ。最近ヤドカリは、イルカと言葉が通じるのかもしれない、と思う時がある。
「オルカさん。僕ちょっと出かけて来ます。イルカ達が何か伝えたいみたいだから。」
「じゃあ俺は朝飯の準備をしておくよ。あまり遠くに行くなよ。」
ヤドカリは軽く頷くと、イルカ達と朝の散歩に出かけた。イルカ達はヤドカリの前をどんどん泳いで行く。ヤドカリは追いかけながら、周りを見る。もしかしたら、イルカ達の群が何処かにいるかもしれない。
イルカ達が止まると、その前方、かなり離れた所に、また丘のようなクジラの街が見えた。ヤドカリがスクーターで少し近づいて様子を見ると、少し小さめのクジラの街で、やはり人が住んでいるようだった。
「このクジラの街は、人が住んでいるから、僕たちが探しているクジラじゃないんだ。燃料も今はまだ足りているし、このクジラがどうかしたの?」
とヤドカリがイルカ達に聞くと、イルカ達はキュウキュウと鳴いた。
「分かったよ。とりあえずオルカさんに報告して、後で一緒にクジラに行ってみるね。ありがとう。」
そう言って一旦船に帰る。オルカはヤドカリの分もコーヒーを淹れ、魚のプチプチ卵焼きサンドイッチと、貝とマカロニのスープも作ってくれていた。嵐の間、船の中で食べられるメニューは限られていた為、オルカがヤドカリの為に作ったのだ。自分は先にコーヒーだけ飲んで、ヤドカリの帰りを待っていた。
「わぁ、朝から美味しそう。僕の好きなメニューだ。オルカさんありがとうございます。」
そのメニューにヤドカリは素直に感動して、お礼を言い、オルカからコーヒーを受け取る。外で飲む温かいコーヒーが、嵐でずっと船に篭っていた身体に染み込む。
朝食を食べながら、さっき見た小さな新しいクジラの街の事をオルカに話した。
「何か理由があって、イルカ達が案内したのかもしれません。」
オルカは前回のクジラでの一件もあり、クジラの街に立ち寄る事に少し警戒感を持っていた。しかしヤドカリにはどうしてもイルカ達の様子が気になった。
「オルカさん、様子を見に行きたいんです。一緒に来て欲しいです。」
ヤドカリに頼まれ、オルカは渋々と了承した。
そのクジラは前に立ち寄ったハナミノのクジラとは、また別の意味で不思議なクジラの街だった。カマイルカとハナゴンドウはヤドカリから離れず、街の中までついてきた。スクーターを押して歩きながらオルカとヤドカリは、街の様子を見てまわる。若い大人達が家の外でタバコを吸っていたり、昼間からお酒を飲んでいる。カードを並べて賭け事をしている人達もいる。労働者達のごった返した裏道とは違う、ごちゃごちゃして歩きにくい道。
ハナゴンドウの子供はフジツボで出来た集合住宅の前で止まると、その周りを泳いだ。しかしハナゴンドウが寂しげに鳴いても、誰もそれを気にかけなかった。イルカの寂しげな声と、人々の騒がしい声だけが響く。
街の中心から外れた、クジラの尻尾の骨の方まで歩くと、人影もまばらになり、家も無くなった。広場の先にウニの殻で出来た建物が幾つか並んでいる。広場には、子供のおもちゃがゴミと一緒に散乱していた。
「オルカさん。このクジラはまだ資源のあるクジラなのに、荒廃している様に見えます。」
オルカには、ヤドカリとは別のところが気になっていた。
「このクジラは、大人が住むところに子供が居ない。」
「つまり別々に暮らしているんでしょうか?この広場は、子供が遊んでいたみたいですね。」
「あの建物まで行ってみよう。」
真剣な顔でオルカがそう言って歩き始めた。少しだけ、据えたような臭いがする。
ウニの殻の中には、予想通り子供達がいた。しかし中の状況はヤドカリの想像を遥かに超えていた。子供達は秩序なく生活していたようだ。ゴミ、食器、おもちゃ、服、本、などのありとあらゆるものが床に散らかり、足の踏み場もなかった。それらは異臭を放ち、そこで何十人かの子供達が、それぞれに自分の事だけしている。子供達からも汗と汚れの酷い臭いがした。
「やっぱりか。」
と、オルカが口にした。すると子供達の中の一人がヤドカリを見て、
「天使様だ。」
と眼を輝かせて言った。すると他の子供達もヤドカリを一斉に見る。ヤドカリは困惑した。
「天使なんていないよ。」
子供達の中から声がした。一人の男の子が本を読んだまま、こちらも見もせずにそう言った。少しだけ歳上の男の子だ。
「天使じゃないかもしれないけど、ヤドカリはイルカとも仲良しなんだ。皆イルカ、見たくないか?広場にいって見てみるといい。」
オルカが全員に向かってそう言うと、子供達は喜んで外に行った。オルカはヤドカリに目配せして、ヤドカリも外に出る。広場で子供達を相手にイルカを見せて遊ばせた。さっきの本を読んでいた男の子と、もう一人女の子だけが部屋に残った。
「あんた達、何?」
とさっきの男の子がオルカに言った。
「お前たち、飯はどうしてるんだ。」
オルカは質問に答えず、質問した。
「大人達がたまに持ってくるよ。」
「風呂は?」
「たまに入るよ。」
男の子は本に目を向けたまま、淡々と質問に答える。
「俺がこの部屋を片付けてもいいか?」
とオルカが聞くと、少し驚いた様子で、男の子は初めてオルカの方を向いた。だが直ぐに視線を本に戻す。
「別に、いいんじゃない。」
とだけ言った。男の子の側で女の子は無表情にオルカを見ていた。
オルカは黙って部屋の片付けを始めた。ゴミをまとめ、子供達のおもちゃや本は例え汚れていても、大切に避けて揃える。男の子と女の子はいつの間にか、オルカを目で追っていた。部屋はどんどん綺麗になっていく。
「お前、名前は?」
オルカが掃除をしながら聞くと、
「ハタタテ。」
と男の子が言った。
「私はクロユリ。」
その隣で女の子も答える。
「そうか。ハタタテとクロユリ。お前達、偉いな。良くみんなを守ってる。」
オルカがそう言うと、クロユリは立ち上がった。
「私も手伝う。」
そう言って、オルカの手伝いをはじめた。ハタタテは無表情のままその場を動かない。
綺麗になった部屋に、広場で遊んでいた子供達とヤドカリが帰ってきた。子供達が歓声を上げる。
「わぁ。お話のお部屋みたい。」
ヤドカリは子供相手にイルカを見せ、慣れない事に疲れていたが、綺麗になった部屋を見て何も言えなくなった。オルカがほぼ一人で片付けた、その大変さが分かる。
「よーし。皆、良く遊んだなら、順番にシャワーに入るんだ。ハタタテ、クロユリ、任せてもいいか?」
オルカは自然にハタタテとクロユリに指示を出す。
二人は頷いて、その通りに動いた。それを見てヤドカリは関心する。
子供達がシャワーから出て綺麗になり、オルカが洗濯物を片付けると、あの匂いもほとんどなくなっていた。
「今日食べるものはあるのか?」
とオルカがハタタテに聞く。
「昨日、大人達が来たから。」
その答えにオルカは少し安心した。
「明日もここに来てもいいか?」
オルカが言うと、横で聞いていたクロユリは泣き出しそうな顔で笑って頷いた。オルカもクロユリに笑顔を向ける。
ヤドカリとオルカは一旦船に戻る事にした。二人共とても疲れていた。
翌日クジラを訪れると、ハナゴンドウはまた同じフジツボの集合住宅の前で止まった。今日は一人の女がフジツボの前で気怠げにタバコを吸っている。
ハナゴンドウは少し嬉しそうにその女に近づいた。彼女は無表情にハナゴンドウを撫でる。
「あの、そのハナゴンドウは?」
とヤドカリが質問した。
「ええ。このハナゴンドウは私の所に居たの。」
タンクトップにショートパンツといったラフな格好の女は、長い髪を気怠そうにかきあげ、ヤドカリの目を見てそう言った。幼い少女がそのまま歳だけ重ねたような、世の中の全てに敵意と諦めを持ったような、少し悲しくて、物憂げな眼だった。
髪の長い気怠げな女は、ヤドカリやラブカとは違う種類の美しさを持っていた。
「でも、私がずっと面倒みられる訳でもないし、嵐の夜に急に何処かに行っちゃって、もういいかなって思ってたんだ。」
女はまだ何か用?とでも言いたげに、ドアにもたれかかっている。家の奥から男の声がして、彼女は家の奥の男に向かって言った。
「うるさいなぁ。それくらい自分でやんなよ!」
その声のボリュームにヤドカリは少しびっくりする。その冷たい話し方にも。
「それじゃあね。お人よしさん。」
そう言って彼女は少しだけ微笑み、ドアを閉めようとした。そのドアをオルカは強引に止める。
「あんた、クジラの尻尾に住んでる、子供達の事、何か知らないか?」
とオルカは唐突に尋ねた。女は少し驚いてオルカを見たが、直ぐに目を逸らし自分のペースを取り戻して言った。
「知らないよ。ここでは皆、自分の事で忙しいんだから。」
そしてドアの奥に消えた。
二人は約束通り、子供達のウニの殻の家を目指す。オルカは何やら荷物をたくさん持っていた。到着すると、昨日の広場はゴミが拾われ、綺麗になっていた。
「お前達が広場を片付けたのか?偉いぞ。」
と子供達みんなを褒めると、子供達はそれぞれにはにかんだり笑顔を見せて、オルカの周りに集まった。
ハタタテとクロユリだけは、少し離れたところで様子を見ている。
「オルカさんって子供に懐かれますよね。」
とヤドカリは何気なく言った。オルカはこっちをじっと見ている。
「えっ?僕は、子供じゃないですよ。」
ヤドカリが決まり文句を言うと、オルカは笑った。そのままオルカが歩くと、周りを子供達が付いてくる。
「よし、ヤドカリも一緒に遊ぶか。」
オルカが元気にそう言うと、子供達はオルカの周りで飛び跳ねて喜んだ。ヤドカリも加わって、『オニダルマオコゼが転んだ』や『カンムリガイ蹴り』をした。オルカもヤドカリも子供達からルールを教わって、一緒に遊ぶ。
実は二人とも子供時代にこうして遊んだ事は無かったのだ。
西に日が傾き、周りがオレンジから群青に差し掛かるまで、笑い声は絶えなかった。
その夜、オルカはクタクタになるまで遊んだ子供達に、あの大きな荷物からツナ缶や材料を出して、カレーを作った。大きな鍋を借りて、焚き火を使って豪快に作ると、子供達はまたしても大喜びで、我先にと頬張った。誰がオルカやヤドカリの隣に座るか、場所まで取り合っている。オルカは子供達をなだめ、ヤドカリは素直に笑った。お腹いっぱいになった子供達は嫌々ながらも自分の部屋に帰り、直ぐに寝てしまった。
オルカとヤドカリは静かに夜ご飯の片付けをする。
「皆んな、楽しそうでしたね。」
ヤドカリは自分が過去居た場所に、オルカのような大人がいたら、どんなだっただろうか、と想像していた。しかしそれは意味のない想像で、オルカはいなかったし、いても何も出来なかったかもしれない。
「あぁ。良かった、のかな。分からん。ここの大人達は何処に行ってしまったんだろうな。」
とオルカはこぼした。大人達は何処に、と言う質問の答えは、ここに来る前に見た、あのクジラの街の景色でもう分かっていた。




