最終話#10 誰かの不在
本を抱えてルリは少し浮かれていた。だが、部屋に入るとヤドカリは辛そうに頭を抱えて、ベッドで横になっていた。
「ヤドカリさん。大丈夫?」
慌ててルリはヤドカリに駆け寄る。頭に濡れた布を乗せて、ヤドカリの痛みが少しでも引く様に冷やした。
「……ルリ。ありがとう。少し楽になったよ。ルリは何か良いことがあったの?」
「えっ?なんでわかるの?」
そう聞くと、ヤドカリは静かに笑って言った。
「顔にかいてあるよ」
「あの、本を探していて僕の幼馴染に街であったんだ。久しぶりで、明日字を教えてくれるって。」
ヤドカリはそれを聞いて、自分の幼馴染のラブカを思い浮かべる。ルリが幼馴染に会えて喜んでいる姿に、ヤドカリも嬉しくなる。
「あの、ヤドカリさんが心配で、騒がないから、ここで会ってもいいかな」
「構わないよ。会いたい人には会える時に会っておいた方がいい」
ヤドカリは自分の経験から、そう話した。
その後、ルリはいつも通りヤドカリが少しでも食べられそうな、寒天、柔らかいパン、スープやアイスクリームを病室に運ぶ。ヤドカリはいつも、アイスクリーム以外は殆ど口をつけないのだが、今日はほんの少しだけスープと寒天も食べた。その姿にルリはホッとする。ヤドカリのベッド脇で持ち帰った物語の本を開き、覚えている冒頭を読むと、すぐに彼はスヤスヤと眠ってしまった。
翌日、ヤドカリはいつもより幾分か体調が良かった。ルリはその様子に安心し、ヤドカリの身の回りの世話をすると、そそくさとスズメと待ち合わせをした、あの広場に向かう。
ルリが留守の間にヤコウはヤドカリの部屋を訪れた。
「体調はどうですか?」
ヤコウはいつも通りの質問をした。
「今日は少し良くなったみたいです」
とだけ、ヤドカリは素っ気なく答えた。
「薬を使えば、もっと楽になります。あなたは、クジラの歌が聞こえなくなるのが、怖いのですか?」
ヤドカリはその質問には答えなかった。
「あなたは誰かと新しいクジラを探していた。」
ヤドカリは何も言わない。ヤコウはそれを分かっていて話し続けている。
「……実は、私もクジラの歌が聞こえるのです」
突然ヤコウがそう言ったので、驚いてヤドカリはヤコウの方を見る。
「私も滅びたクジラからここに来ました。私ならあなたの理解者になれると思います」
「……薬を使ったら、ずっと使い続けることになるんですか?」
「薬の効き目は半日です。私は朝と夜、薬を使って症状を抑えています」
「そうなんですね」
それだけ言うと、ヤドカリはまた言葉を知らない人の様に黙った。
「私だけは、あなたの孤独が分かります」
そう言ってヤコウはヤドカリの病室を出た。
ヤドカリはまだ午前中なのに暗い街の灯りを窓から見た。光が届かない海は珊瑚も海藻もない。魚はいるが、浅い海と違い、色がない。どこまでも続く砂漠のような場所でクジラ達が死んで、その油の灯りを頼りに人が暮らす。ずっとここにいたら……そう考えかけて思考を閉ざす。そんなの意味がない。
住む場所の問題ではない。誰が不在か、だ。
ルリは広場でスズメと待ち合わせ、ヤドカリの部屋に戻る。ヤドカリがいる建物は革新派の人達の病院のような施設なので、スズメは正面からは入れない。ルリは倉庫の窓を開けてスズメを中に招き入れた。スズメはキョロキョロしながらルリの後をついて歩く。
「ここだよ。ちょっと待ってね」
そう言ってルリはヤドカリの部屋のドアを開けて、中を確認する。ヤドカリはいつものようにベッドから外を見ていた。それを確認して廊下で待つスズメを呼んだ。
スズメは——ルリからヤドカリを紹介される前に、ヤドカリの姿に目を奪われた。ルリが何か、話しているが全く耳に入らなかった。ベッドで上半身を起こし、こちらを見ている青年は、有名な画家が丹精を込めて仕上げた絵画のように見えた。スズメは話に聞いたヤドカリを、自分の中で美しく組み立てていたが、実物はそれを凌駕していた。
「スズメ?」
さっきから話しかけていたルリが、反応の無いスズメの顔を覗く。スズメはそれには答えず、ゆっくりとヤドカリに近づいた。
「ヤドカリさん、ですか」
ヤドカリは不思議そうにスズメを見て、微笑んで答えた。
「ヤドカリです」
スズメは思わず口元を手で覆う。昨日一緒に食事をしたオルカの、寂しげな表情が頭を過ぎる。彼が探し求めていた人が、生きて目の前にいる事への安堵と、オルカを早くここに連れて来てあげたいという気持ちがスズメの口を開かせた。
「オルカという人が……」
そう言っただけでヤドカリの表情が驚きに変わる。
「ずっとあなたを探しています」
ヤドカリは俯き、ゆっくりと目を閉じた。布団の上で握られた手が小刻みに震えている。嬉しい、とも悲しい、とも寂しい、とも違う異質な感情をヤドカリが抱えているのがスズメには分かった。ヤドカリは少しの間そのまま震えていた。スズメは彼が泣き出すのではないか、と思ったがヤドカリはゆっくりと目を開けて静かに尋ねた。
「……オルカさんは元気ですか?」
「あの人は、……ここに来た時は凄く、……寂しげで傷付いていました……今でもどうしたらいいか、多分、ずっと考えています」
スズメはありのままに話した。
「そうですか。」
ヤドカリはそう言うと窓の外に視線を向けた。
ルリはスズメとヤドカリの会話を横で聞いていた。入り込めない雰囲気があった。だが、ヤドカリが今までずっと外を眺めていた時の、空虚な雰囲気がなくなり、優しい目に変わっていた。ヤドカリの目に映る街は彼の大切な人を内包している、そんな慈しみが感じられるように思えた。
「オルカさんは今どこに?」
「レジスタンス、と言われる人達が多く暮らしている街です。あちらの方角です」
と、スズメが窓の外に向けて指で示すと、ヤドカリはその方角を見た。暫くは目を逸らさず、何かを考えていた。ルリは少しだけ、嫌な予感がした。
「ルリ、この人に字を教えて貰うんでしょ。ゆっくりしたらいいよ」
ヤドカリはルリにそう告げると、ルリとスズメに背中を向けて布団に潜り込んだ。スズメはもっとヤドカリと話したそうだったが、ヤドカリはそれを全身で拒否していた。
スズメはルリに字を教えながら、ヤドカリの体調のことや、ここに運ばれた経緯、ヤコウの思惑などを聞いた。ルリにはヤコウが何を考えているか分からなかったが、ヤコウがヤドカリに見せる執着心を感じ取っていた。スズメは話を聞いて、ヤドカリの時間があまりない事を悟る。居ても立っても居られず、スズメはヤドカリに話しかけた。
「私、あなたがここにいる事、帰ってオルカに話すから」
「……僕が、行く」
ヤドカリは身体を起こしてそう言った。
「ヤドカリさんは、動けないでしょ」
ルリは心配からそう言った。
「僕が行く。オルカさんはこっちに来ちゃダメだ」
ヤドカリは今度は強くそう言った。そしてベッドから起き上がるが、ろくに歩けなかった。ルリがヤドカリを支えると、スズメはその様子を見て走り出した。早くオルカに伝える為に……




