最終話#8 小さな約束
ルリはヤドカリがここに運ばれて以来、彼の看病と面倒を見ていた。ルリは段々とヤドカリという青年の事がわかるようになった。
自分といる時だけ話し方が変わる事。他の人が部屋に居ると安心して寝られないが、自分と二人の時は深く寝られる事。自分に対して失礼な態度を取るのは、どうやら彼なりの甘えである事。
それらの態度はヤドカリの儚げな雰囲気と相まって、ルリの心に大きな好感を芽生えさせるのに充分だった。ルリはヤドカリよりも四、五歳年下で、そこまでの力も知恵も無いのだけれど、ヤドカリを守りたいと思っていた。
時々ヤコウもヤドカリの部屋を訪れる。体調の心配と、ルリにヤドカリの様子を聞き、必要なものはないか、と尋ね、少しの時間で部屋を後にする。ヤドカリは今でも彼には丁寧で、感情の起伏のない話し方で答えている。ルリはその様子を見て、ヤドカリの心が内に篭っていくのを感じとる。
その日ヤドカリはいつも通り暗い街の街灯の景色を、窓から眺めていた。ルリには彼が何かを、もしくは誰かを、待っているように見えた。
「ヤドカリさん、薬を使った方がいいと思うよ」
ルリは日に日に弱っていくヤドカリを心から心配していた。
「ねえルリ、僕、本が読みたいな。ここって退屈だから。何かハッピーエンドになるお話がいい」
ヤドカリはルリの忠告には耳も貸さず、一方的に要求だけを伝えてくる。いつもの事だ。ルリはため息をついた。
「ヤドカリさんは起きて本を読めないでしょ?体調を回復させる事が優先でしょ?」
「そうだね。なら、ルリが読んで聞かせてよ」
また無茶な要求をする。ずっと窓の外を見たままだ。
「残念ながら、僕は字が読めません。」
「そうなの?僕が教えてあげようか?」
「なぜそんなに、薬を嫌がるの?」
実はその明確な答えを、ヤドカリは持っていなかった。今から薬を使って元気になる。ヤコウは定期的に飲めば、と言った。きっとずっとここにいなければならなくなる。クジラの歌も聞こえなくなる。もう旅も出来ないし、オルカと一緒にいる事も出来ない。自分の役割は、もう無いのだ……。
黙ってしまったヤドカリを見て、ルリは少しでもヤドカリに元気になって欲しいと思い、本を探しに行く事にした。昔、幼馴染の女の子が読んでくれた、あの物語なら、例えちゃんと字が読めなくても覚えている文章を繋げて、ヤドカリに読んであげられると思った。
「ヤドカリさん、僕、本を探してくるね。僕が帰るまで一人で寝ていられる?」
ヤドカリはにっこり笑って頷いた。ルリはこの笑顔に弱いのだ。ヤコウには、ヤドカリの望むものはなんでも与えて良いと、指示を受けていた。街の古本屋に行けば、きっと目当ての本が見つかるだろう。ルリはヤドカリを一人にするのが心配で、なるべく早く戻れるように小走りで移動する。
しかし意外にも、有名なその物語の本は、近くの通りの古本屋にはなかった。そればかりか、その本屋には物語や娯楽を扱った本が、軒並み無くなったいた。本屋を営むおじいさんに聞くと、最近は戦争の機運も高まり、市民が本などにうつつを抜かさないように、取り締まりが厳しくなった、と言った。ルリは仕方なく、レジスタンスと言われる人達が多く暮らす街まで、足を伸ばしてみる事にした。
クジラの死骸が重なり、横にも縦にも伸びたクジラの谷には、色んな人達がそれぞれ固まって暮らしていた。自分が住んでいるのは革新派、と言われる人達の街で、新しい技術をどんどん取り入れて発展し、明るい未来が保証されていた。レジスタンスや他のクジラに攻撃されないよう、武器等も研究し軍事力もある。
少し危険かもしれないけど、レジスタンスの街はここほど秩序も安定していないから、あの物語の本くらいなら、まだ手に入れられるだろう、と思った。
ルリが部屋を出ると、ヤドカリはそっとベッドから出る。誰にも言ってないが、ヤドカリはギターの他にもう一つ探しているものがあった。それはオルカと出会った頃、オルカにもらった間切だった。あの短刀は武器ではなく、生活の為の道具で、オルカは丁寧に装飾を彫り、ヤドカリにくれたのだ。自分の今の状態で、部屋にそのような武器になり得るものを置いて貰える訳もない。またギターの時のように、薬と引き換えの交渉材料にされるのも嫌だったので、黙っていた。
そっと部屋を出て、見た事もない骨の建物の中で身を潜めて探した。こんなに部屋がある建物は、ヤドカリは初めてだった。ここには他にも病気の人や、怪我をした人がそれぞれの部屋で寝ており、みるからに病人のヤドカリは特に怪しまれなかった。ヤドカリの部屋は建物の上の方で、街がよく見える少し広い部屋だったようだ。それにしても、自分の身体はこんなに重たかったのか、とヤドカリは思う。
建物の下の方に、倉庫の様な部屋があり、そこには病人たちの、それぞれの持ち物らしき物が保管されていた。その中には見慣れない水中ボウガンもあった。
ヤドカリの間切は残念ながら無かったが、その最新の水中ボウガンを、なんとなく部屋に持っていく事にする。どんな時でも、自分の身は自分で守れるようにオルカに教えて貰った事を思い出す。勿論使いこなせるとは思わなかったが、何の武器も持たずにいる事に、ヤドカリは慣れていなかった。
近くにあったベッドシーツでボウガンを包み、何とか抱えて、とりあえず部屋に戻る。ベッドの真下に括り付ける形で隠すと、たったこれだけの事にとても疲れていた。ベッドに入り、頭を抑えて横になった。
レジスタンスが多く住む街の本屋まで来たルリは、その本屋の本棚に安心した。見慣れた絵本や、探していた物語の本もあった。早速それを手に入れて、ヤドカリの病室に急ぐ。レジスタンスは過激で悪い人達だと教えられていたので、本屋から出る時は少し周りを確認し、足早に通りを歩いた。
その時、路地裏から背の高い男と自分と同じ歳くらいの子供が、メイン通りに向かって歩いて来るのが見えた。鉢合わせにならない様に、早足が小走りになる。彼らが通りに差し掛かるまでに、引き離せる筈だ。
しかし、何故か二人組の子供の方が、後ろから全速力でこちらに向かって走ってきた。ルリも慌てて走る。追いかけてくる子供はこちらに向かって何か叫んでいたが、必死に走っているので聞こえなかった。ルリは手に持った本をヤドカリに届けたい気持ちでいっぱいだった。本を抱え、振り返らずに自分の街まで走った。もう少しで自分達の街に届く、その少し前の広場で、ルリはやっと止まった。呼吸が荒く、直ぐにもう一度走るのは無理だった。しかし、追って来る足音ももう聞こえない。額から汗が、本に数滴落ちた。
「ルリー。ルリでしょ?」
少し離れたところから、自分の名前を必死で叫ぶ声が聞こえた。ルリはびっくりして、さっきまで自分が走っていた通りをみる。暗い中、街灯に照らされた子供には見覚えがあった。
「スズメ?」
ルリは素っ頓狂な声を上げた。
「……やっぱり、ルリじゃん。なんでっ逃げるの?」
スズメは走って乱れた呼吸に構わず話した。
「えっ、いやスズメだと思わなくて、あそこは危険なレジスタンスがいっぱいいる街でしょ?」
「全然、こっちの方より安全だよ。ルリはなんでいなくなっちゃったの?ずっと探してたんだよ!」
「今、革新派の人のところで働いてるんだ。スズメには言わなかったっけ?」
「そうかもって思ってたけど、はっきりとは聞いてないし、ルリはあの、いなくなっちゃった時、ちょっとおかしかったし」
「スズメこそ、何であの街にいたの?」
「私はあの街が好きなの。古い街並みも、住んでる人も。レジスタンスの人達だって、みんな親切なんだから」
「スズメは、……レジスタンスなの?」
「そうだよ……。ルリは……そっちはどうなの?」
ルリの頭にここ最近の出来事が浮かぶ。逆らえない教育、余計な事は話すなと言う命令、特別に貰ったアイスクリーム、本屋から物語の本が消えた。そしてヤドカリさんの心を殺した様な、感情のない話し方——。
「僕は……」
言葉が出てこない。何かがおかしかったのかもしれない。それを認めるのも怖い。僕は今の生活で、何か困っている訳じゃない。それに、今自分に大切なのは。
「僕は今、ある人のお世話をしてるんだ」
「ルリは、ちょっと気付いてるんじゃないの?あいつらのやり方はおかしいって。よく考えて。また私達、一緒に協力して暮らしていけない?」
ルリは一瞬、それもいいかもしれないと思った。昔はずっと一緒だった、スズメの声は懐かしかった。
だが、今の自分には……
「ごめん。スズメ。今僕が世話をしている人を放ってはおけない」
ルリの意志の強い目に、スズメはそれ以上言えなかった。幼馴染には大切な何かが出来たらしかった。
「そっか……」
顔を落としたスズメは、ルリが物語の本を持っている事に気がついた。
「あれっ?その本……」
「ああ、この本、昔君がよく読んでくれたから、内容結構覚えてて、僕、字が読めないけど、僕がお世話をしている人に読んで欲しいって言われたから……」
ルリの言葉にスズメは嬉しくなった。ルリは、昔のルリのままで、今度は誰かに本を読んであげようとしているのだ。
「字、教えようか?」
スズメが言うと、ルリは少しびっくりしたが、ヤドカリさんの為に字を覚えるのはいいかもしれない、と思った。読めるようになれば、色んな本を読んであげられる。
「教えて、くれるの?」
「うん。いいよ。また会いたいし。」
とスズメが言った。




