第五話 それでも
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
人は傷ついたら離れる。
それが普通だと思う。
火に触れて熱いと知ったら手を引く。
危険だと分かったら近づかない。
人間も同じだ。
傷つける人からは離れた方がいい。
信じられなくなった人とは距離を置いた方がいい。
そんなことは分かっていた。
分かっていたのに。
俺は離れられなかった。
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会社へ行く。
彼女がいる。
話す。
笑う。
いつも通り。
違うのは俺だけだった。
知ってしまった後も、
彼女は変わらなかった。
「おはようございます」
いつもの声。
「お疲れさまでした」
いつもの笑顔。
まるで何も起きていないみたいだった。
だから余計に苦しかった。
もし冷たくされたなら、
諦められたかもしれない。
もし嫌われたなら、
離れられたかもしれない。
でも、
彼女は優しかった。
前と同じように。
だから俺は何度も迷った。
本当は俺の勘違いだったんじゃないか。
本当は悪気なんて無かったんじゃないか。
本当は責めるほどのことじゃないんじゃないか。
そんなことを考える。
都合の良い解釈だと分かっていた。
でも、
好きな人に対して人は弱い。
驚くほど弱い。
その頃の俺は、
自分でも笑ってしまうくらい弱かった。
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休日。
スマホを見る。
連絡は来ていない。
なのに画面を開く。
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会社帰り。
彼女の姿を探す。
見つけると安心する。
見つけられないと少し寂しくなる。
そんな自分が嫌だった。
いや。
嫌というより、
情けなかった。
なぜまだ好きなんだ。
なぜまだ期待している。
なぜ忘れられない。
答えは簡単だった。
好きだからだ。
それだけだった。
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ある日の帰り道。
駅までの道を一人で歩いていた。
空は曇っていた。
雨が降りそうだった。
ふと考える。
もし今、
彼女が会社を辞めたらどうだろう。
もう会えなくなったら。
連絡も取れなくなったら。
全部終わるとしたら。
その想像をした瞬間。
胸が痛んだ。
びっくりするほど痛かった。
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ああ、
まだ好きなんだな。
そう思った。
傷ついたことも本当だった。
悲しかったことも本当だった。
信じられなくなったことも本当だった。
でも、
好きも本当だった。
それが一番厄介だった。
人の心は、
白か黒かじゃない。
嫌いになれたら楽だった。
憎めたら楽だった。
全部嘘だったと思えたら楽だった。
だけど俺にはできなかった。
あの日々は幸せだった。
その事実だけは変えられない。
彼女と話した時間。
笑った時間。
夕焼けを見た時間。
何気ないメッセージ。
全部覚えている。
全部大切だった。
だから簡単には消えない。
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夜。
一人で部屋にいた。
明かりもつけず、
ソファに座る。
静かだった。
考えているのは一つだけ。
これからどうするんだろう。
諦めるのか。
逃げるのか。
距離を置くのか。
それとも。
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その時、
ふと昔の自分を思い出した。
傷つくのが怖くて逃げたこと。
言えなかった言葉。
伝えなかった気持ち。
終わってから後悔したこと。
たくさんあった。
そして気付く。
今の俺が一番怖いのは、
振られることじゃない。
傷つくことでもない。
後悔することだった。
何も伝えないまま終わることだった。
その瞬間、
胸の中に小さな火が灯った気がした。
答えなんて出ていない。
信じられるかどうかも分からない。
未来も分からない。
それでも、
一つだけ確かなことがあった。
俺はまだ好きだった。
好きだから苦しい。
好きだから悲しい。
好きだから逃げたくなる。
そして、
好きだから、
本当は向き合いたかった。
人の心は本当に不便だ。
忘れたいのに忘れられない。
離れたいのに離れられない。
傷ついたのに、
それでも好きでいられる。
そんなものに、
理屈なんて無かった。
でも。
その不便さを、
少しだけ愛おしいと思った。
本気だったからだ。
俺は本気で彼女を好きになった。
だから傷ついた。
それなら。
もう少しだけ、
この気持ちと向き合ってみようと思った。
逃げるのは、
まだ早い気がした。
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(第五話・完)
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