第三話 幸せな日々
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
人は幸せの真ん中にいる時、
それを幸せだと気付かない。
後になって振り返り、
「あの頃は幸せだったな」
と思うものだ。
少なくとも俺は、そう思っていた。
だけど、
あの頃の俺は違った。
ちゃんと分かっていた。
俺はいま、幸せなんだと。
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朝、会社へ行く。
エレベーターに乗る。
オフィスへ向かう。
そして席へ向かう途中で彼女を見つける。
「おはようございます」
その声を聞く。
それだけで少し嬉しい。
そんな日々が続いていた。
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恋人ではない。
付き合ってもいない。
手を繋いだこともない。
二人きりで出かけたこともない。
周りから見れば、
仲の良い同期。
ただそれだけだった。
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でも、
俺にとっては違った。
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昼休みになる。
自然と近くにいる。
帰りの時間が重なる。
少し話す。
笑う。
からかう。
また笑う。
大きな出来事なんて無い。
本当に無い。
それなのに毎日が楽しかった。
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ある日、
彼女が言った。
「なんか最近、よく一緒にいますよね」
ドキッとした。
心臓が跳ねる。
たぶん顔にも出た。
「そうですかね」
平静を装う。
社会人らしく。
できるだけ普通に。
「いますよ」
彼女は笑う。
「まぁ、嫌じゃないですけど」
その言葉だけで一週間ぐらい生きられる気がした。
われながら単純だった。
三十五歳。
いい大人。
経理もやる。
総務もやる。
会議では偉そうに話す。
ルールも作る。
問題解決もする。
なのに、
好きな人の一言に一喜一憂している。
人間とは不思議な生き物だ。
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夏が近づいていた。
日差しが強くなる。
会社帰りの空が少し長くなる。
その頃には、
同期の中でも俺と彼女はよく話す組になっていた。
「今日暑くないですか?」
「暑いですね」
「もう無理です」
「まだ六月ですよ」
「夏嫌いなんですよ」
そんな会話で笑う。
本当にどうでもいい話ばかりだった。
でも、
どうでもいい話をできる人というのは、
案外少ない。
大人になるほどそう思う。
仕事の話ならできる。
用事の話ならできる。
必要な連絡もできる。
でも、
意味のない話。
結論のない話。
笑うだけの話。
そういう時間を共有できる人は、
案外少ない。
だから楽しかった。
そして俺は、
少しずつ彼女のことを知っていった。
子供の頃の話。
家族の話。
好きな食べ物。
苦手な食べ物。
昔の失敗。
将来やりたいこと。
一つ知るたびに、
少し嬉しくなる。
まるで宝探しみたいだった。
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ある日の帰り道。
駅まで歩いていた。
夕焼けが綺麗だった。
「空すごいですね」
彼女が空を見上げる。
俺も見る。
茜色だった。
「綺麗ですね」
「こういうの見ると、ちょっと得した気分になります」
そう言って笑う。
その横顔を見た瞬間──
ああ、
と思った。
好きだな。
何の理由もなく。
何の計算もなく。
ただ、
好きだった。
優しいから、
じゃない。
可愛いから、
でもない。
趣味が合うから、
でもない。
そんな理由はいくらでも挙げられる。
でも違う。
好きって、
理屈じゃないんだなと思った。
彼女が笑う。
それが嬉しい。
彼女と話す。
それが楽しい。
彼女がいる。
それだけで安心する。
たぶん、
それで十分だった。
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ある日、
休日だった。
家で映画を見ていた。
ふとスマホを見る。
彼女からメッセージが来ていた。
大した内容じゃない。
昼休みに話していた話題の続きだった。
それだけ。
本当にそれだけなのに、
なぜか笑ってしまった。
気付けば返信している。
また返ってくる。
また返す。
そんなことをしているうちに、
いつの間にか夜になっていた。
スマホを置く。
天井を見る。
静かな部屋。
不思議だった。
一人のはずなのに、
少しだけ世界が明るい。
そんな感覚だった。
たぶん、
あの頃の俺は、
未来を想像し始めていた。
来年もこうしているかもしれない。
再来年も。
もっと先も。
そんな未来を。
別に結婚とかじゃない。
ドラマみたいな話でもない。
ただ、
朝になったら、
「おはようございます」
と言って。
昼になったら、
一緒に笑って。
帰り道に少し話す。
そんな日々が続けばいい。
それだけだった。
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人は大きな幸せを求める。
でも、
今なら分かる。
幸せは案外、
そんなところにある。
誰かがいて。
笑っていて。
また明日が来ると思えること。
それだけでいい。
それだけで十分だった。
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そして、
その頃の俺はまだ知らない。
この時間が永遠じゃないことを。
信じていたものが、
いつか揺らぐ日が来ることを。
ただ、
その日までは。
俺は確かに幸せだった。
心の底から。
この時間がずっと続けばいいのに。
そう願ってしまうくらいに。
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(第三話・完)
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