第二話 隣の席の温度
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
春が終わりに近づいていた。
窓の外には柔らかい日差しが差し込み、朝の空気から少しずつ冷たさが抜けていく。
入社したばかりの頃に感じていた緊張も、いつの間にか薄れていた。
会社の場所も覚えた。
社員証を探して慌てることもなくなった。
自分の席も、自販機の場所も、近くの定食屋も覚えた。
人は思ったより早く慣れる生き物らしい。
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ただ一つ、
慣れないことがあった。
朝、会社に来ると、最初に彼女を探してしまうことだった。
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自分でも笑ってしまう。
三十五歳にもなって、
学生じゃあるまいし。
そんなことを思う。
だけど、気付いてしまったものは仕方がない。
エレベーターを降りる。
オフィスへ入る。
そして自然と視線が向かう。
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あ、いる。
それだけで少し安心する。
いなければ少し気になる。
出張かな。
休みかな。
体調悪いのかな。
そんなことを考える。
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自分がおかしいことは分かっていた。
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「おはようございます」
彼女が気付いて声をかけてくる。
「おはようございます」
それだけの会話。
たったそれだけなのに、少しだけ一日が始まる気がした。
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ある日。
昼休みになった。
同期の何人かで食堂へ向かう。
気付けば彼女が隣を歩いている。
別に示し合わせたわけじゃない。
たまたまだ。
きっと。
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「今日何食べます?」
「まだ決めてないですね
「じゃあ私と同じにしましょう」
「なんでですか」
「外した時、一緒に後悔できるので」
思わず吹き出す。
変な理屈だった。
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結果。
二人とも外した。
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「思ったより微妙でしたね」
「思ったより微妙でしたね」
同じことを言って笑う。
そんな小さなことが楽しかった。
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楽しい。
その事実に気付くのは簡単だった。
問題は、その先だった。
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気付けば彼女の話を覚えている。
好きな食べ物。
苦手な食べ物。
好きな映画。
休日の過ごし方。
他の同期の話は案外忘れるのに、彼女の話だけは残っている。
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なぜなのか。
考えなくても答えは分かる。
分かるけれど、認めたくなかった。
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ある日、
夕方になって急に雨が降った。
朝は晴れていた。
傘なんて持ってきていない。
窓の外を見る。
結構降っている。
面倒だなと思った。
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「どうします?」
声がした。
彼女だった。
「どうしましょうか」
「駅まで走ります?」
「濡れますよ」
「じゃあコンビニで買います?」
「もったいないですね」
「ですね」
二人で窓の外を見る。
まるで小学生みたいな会話だった。
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結局、
近くのコンビニでビニール傘を買った。
店を出る。
並んで歩く。
雨の音がする。
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他愛もない話をした。
子供の頃の話。
好きだったゲームの話。
学生時代の話。
失敗談。
笑い話。
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不思議だった。
話題そのものは大したことじゃない。
それなのに楽しい。
もっと話したいと思う。
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駅が見えてくる。
改札が近づいてくる。
少しだけ残念に思った。
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その瞬間、
自分で自分に気付いた。
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ああ、
そういうことか。
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駅に着く。
別れる。
いつものように。
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「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
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彼女が改札へ消えていく。
その背中を見送る。
そして思う。
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明日も話したいな。
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その考えが浮かんだ瞬間。
もう認めるしかなかった。
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それは好意だった。
興味なんてものじゃない。
同期として仲が良いだけでもない。
ましてや気のせいでもない。
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彼女が笑うと嬉しい。
彼女と話せると楽しい。
彼女がいないと少し寂しい。
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答えは十分すぎるほど揃っていた。
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帰りの電車。
窓に映る自分を見ながら小さく笑う。
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三十五歳。
いい大人。
恋愛経験だってゼロじゃない。
傷ついたこともある。
終わった恋だってある。
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それなのに、
また同じことをしている。
また、誰かを好きになっている。
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人間は学ばない生き物なのかもしれない。
それとも、何度傷ついても好きになるから人間なのかもしれない。
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答えは分からなかった。
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ただ一つだけ分かっていた。
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明日の朝。
会社へ行ったら、
たぶん俺はまた彼女を探す。
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そしてきっと、
彼女を見つけたら少し嬉しくなる。
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その事実だけは、もう誤魔化せなかった。
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気付いてしまった。
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たぶん俺は、
君が好きなんだ。
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(第二話・完)
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