第一話 春のはじまり
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
春の風は嫌いじゃない。
寒さが少しだけ残っていて、それでも冬が終わったことを教えてくれるからだ。
桜が咲く頃になると、人は何かを始める。
入学、入社、転勤、異動。
どれも、今までとは少し違う場所へ向かうためのものだ。
そしてその年の春。
俺もまた、新しい会社へ入った。
三十五歳。
新人と呼ばれるには少し歳を取りすぎていて、ベテランと呼ばれるにはまだ足りない。
中途入社という立場は、案外そんなものだ。
誰も敵じゃない。
でも、誰も味方じゃない。
そんな場所から始まる。
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最初の日。
会議室に十人ほどが集められていた。
同期だった。
新卒もいる。
中途もいる。
年齢もバラバラ。
みんな緊張していて、静かだった。
名前を呼ばれ、一人ずつ自己紹介する。
当たり障りのない経歴。
当たり障りのない趣味。
当たり障りのない挨拶。
社会人になると、自己紹介はだいたい同じになる。
必要以上に目立たない。
必要以上に隠さない。
ちょうどいい距離感。
それが正解だからだ。
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俺の番が終わった後、
彼女の番が来た。
「木山です。よろしくお願いします」
本当にそれだけだった。
特別面白いことを言ったわけじゃない。
笑わせたわけでもない。
美人だったわけでもない。
少なくとも、その時の俺はそう感じた。
だけど、
なぜだろう。
不思議と印象に残った。
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研修は退屈だった。
会社の理念。
ルール。
就業規則。
情報セキュリティ。
コンプライアンス。
大事な話なのは分かる。
でも初日に八時間聞き続けるのはなかなか苦行だ。
午後になると、みんな少しずつ魂が抜け始める。
俺もその一人だった。
そんな時。
隣から小さな声が聞こえた。
「眠くなりますね」
顔を向ける。
彼女だった。
思わず笑う。
「なりますね」
「これ寝たら怒られますかね」
「たぶん怒られると思います」
「やっぱりそうですよね」
彼女は小さく笑った。
それだけだった。
本当にそれだけ。
なのに、少しだけ気持ちが楽になった。
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研修が終わり、帰りのエレベーターに乗る。
十人近くいた同期も、途中の階で少しずつ降りていく。
気付けば、俺と彼女だけになっていた。
沈黙。
別に気まずくはない。
でも何か話した方がいいのだろうか。
そんなことを考えていると。
「お疲れさまでした」
彼女が言った。
「あ、お疲れさまです」
「長かったですね」
「長かったですね」
同じことを繰り返して、少し笑う。
そのまま一階へ到着する。
自動ドアが開く。
春の風が入ってくる。
「じゃあ、また明日」
彼女はそう言って駅の方向へ歩いていった。
「また明日」
俺も答える。
当たり前の会話だった。
特別な意味なんて何もない。
ただの同期だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
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数日後。
同期同士で昼飯を食べることになった。
会社近くの定食屋。
混雑した店内。
自然と席が埋まる。
気付けば彼女が向かいに座っていた。
偶然だった。
たぶん。
きっと。
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「辛いものって食べられます?」
彼女が聞く。
「食べられますよ」
「じゃあ大丈夫ですね」
「何がですか」
「この店の麻婆豆腐です」
運ばれてきた麻婆豆腐を見て納得する。
赤い。
とても赤い。
危険な色をしている。
一口食べる。
咳き込む。
彼女が大笑いする。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです」
「ですよね」
また笑う。
なんだろう。
よく笑う人だと思った。
そしてその笑顔を見ていると、なぜかこちらも少し楽しくなる。
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それから少しずつ。
本当に少しずつ。
話をするようになった。
朝。
「おはようございます」
昼。
「ご飯行きます?」
夕方。
「お疲れさまです」
その程度だ。
恋愛ドラマみたいな展開なんてない。
運命的な出来事もない。
ただ、同じ会社にいて。
少し話して。
少し笑う。
それだけ。
でも人を好きになる始まりなんて、案外そんなものなのかもしれない。
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ある日の帰り道。
駅までの道を一緒に歩いた。
他愛のない話をする。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
昔の失敗談。
笑いながら話していたら、あっという間に駅に着いていた。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
いつも通り。
本当にいつも通りだった。
なのに、
電車に乗ったあとも、
家に帰ったあとも、
なぜかその日の会話を思い出していた。
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風呂に入りながら、
晩飯を食べながら、
布団に入ってからも、
ふと彼女の顔が浮かぶ。
今日笑っていたな。
麻婆豆腐の話してたな。
どうでもいいようなことばかり。
なのに忘れられない。
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俺は天井を見上げた。
三十歳も過ぎて何を考えているんだろう。
少し笑う。
そして少しだけ恥ずかしくなる。
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恋愛なんて、もう若い頃ほど簡単じゃない。
傷つくことも知っている。
別れも知っている。
期待しすぎる危険も知っている。
だから大人は慎重になる。
なれるはずだった。
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なのに。
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翌朝。
出社して、
オフィスに入り、
いつもの席を見る。
彼女がいる。
それだけで少し安心する。
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ああ、
まずいな。
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その瞬間、
胸の奥で何かが小さく動いた気がした。
まだ名前はついていない。
恋なんて呼べるほど大きくもない。
ただ、
ほんの少しだけ、
昨日より今日の方が会社へ行くのが楽しみになっている。
そんな感情だった。
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彼女はこちらに気付く。
手を軽く振る。
そして言う。
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「おはようございます」
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俺も返す。
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「おはようございます」
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その一言が、
なぜだか少し嬉しかった。
(第一話・完)
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