お腹がすいた
勇者パーティをクビになったその日の夜。
王都の薄暗い裏路地に、壁に背を預けて佇む一人の男がいた。
漆黒の髪を夜風になびかせ、鋭い三白眼を怪しく光らせるその男――ゼクスは、ただじっと一点を見つめて沈黙している。
通りかかる泥棒や裏社会の住人たちは、
「ひ、ひぇっ……裏社会のトップ暗殺者が、誰かの命を狙って獲物を待っているぞ……」
とガタガタ震え上がり、目を合わせないように全速力で逃げ去っていく。
だが。圧倒的な死神のオーラを放つゼクスの脳内は、今、別の意味で絶望のどん底にあった。
(……お腹が、空きました。本当に、死ぬほどお腹が空きました……)
ゼクスは真顔のまま、心の中で涙を流していた。
(勇者からクビを宣告された時、手持ちの退職金(数枚の銅貨)が手元にありました。普通の人間ならパンや宿代に使うのでしょう。しかし、職人としての悲しい習性が抑えきれず、気がつけば全て『最高級の床磨き専用オイル』と『吸水性抜群の職人雑巾』の購入に充ててしまっていたのです……)
現在の全財産、ゼロ。
手元には世界一ピカピカに磨ける極上のお掃除セットがあるが、自分の胃袋に入れるものは干しぶどう一粒すら残っていなかった。
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……。
ゼクスの格好いいビジュアルからは想像もつかない、獣のような情けない腹の音が静かな裏路地に鳴り響く。
あまりの空腹に視界がチカチカする中、ゼクスの目が、ゴミ箱の脇に落ちている一枚の『硬くてカビの生えたパンの耳』を捉えた。
普通の浮浪者なら泣きながら齧り付くか、あるいはドブに捨てるような代物だ。
しかし、ゼクスは三白眼をギンギンに鋭く輝かせ、そのパンの耳へとにじり寄った。(……プロ掃除人のプライドが、この頑固なカビと汚れを許しません。まずは清掃(ディナーの準備)です)
ゼクスは大真面目な顔で、パンの耳に生活魔法を唱えた。
『摩擦係数:ゼロ』。
パンの表面のミクロな凹凸を完全に消し去ることで、こびりついていたカビや汚れだけを「ツルンッ!」と一瞬で完璧に剥ぎ落とす。
ゼクスの手の中で、パンの耳はまるで宝石のように美しくピカピカに輝き出した。
(よし、綺麗になりました。……しかし、汚れと一緒にパンの体積まで削ぎ落とされてしまい、元の三分の一のサイズ(米粒大)になってしまいました。余計に切ないです)
ゼクスは真顔のまま、涙目でその微小なパンの破片をそっと口に含んだ。
もちろん、お腹は一ミリも膨らまない。
(ああ、だめです。視界が本格的に真っ暗に……。せめて、最後にあの大通りの床だけでもワックスがけしたかった……)
極限の空腹により、ついに限界を迎えたゼクス。その場にフラフラと力なく倒れ込みそうになった、まさにその瞬間だった。
ヒュオォォォ、と裏路地に冷たい夜風が吹き抜けた。
風に乗ってひらひらと飛んできた一角の「紙切れ」が、倒れかけるゼクスの、磨き上げたばかりのピカピカな顔面に、
パシィィィン!!!
と、もの凄くいい音を立てて張り付いた。
「……むぐっ?」
ゼクスが顔からその紙を剥ぎ取り、三白眼をこすりながら真顔で見つめると、そこには美しい金文字でこう書かれていた。
【宮廷掃除人・大募集! 倍率百倍の超エリート職! 給与:山盛りの三食・夜食つき、制服支給。明日朝より、王宮大広間にて採用試験(面接)を開始する】
ゼクスの目が、かつてないほどギンギンに輝いた。
「山盛りの三食……。なるほど、神様が私に『まだ倒れるな、王宮を磨け』と仰っているのですね。よし、明日の朝一番で、この王宮の採用試験を受けに行きましょう」こうして、お腹を極限まで空かせたゼクスは、翌朝、漆黒の髪と三白眼をギラつかせながら王宮の門へと向かうことになるのである。




