幕間 スオーロ領内 とある民家の地下
「何が皇族直属部隊だ、忌々しいッ!」
スオーロ領内。とある民家の地下で、リゾルートはグラスを床に叩きつけた。
一枚で平民が数年は暮らせるほどの価値があるカーペットに、一瓶で平民が半年は暮らせるほどの価格のワインが染みを広げていく。
激昂を隠しもしないリゾルートに、上級使用人の装いをした男が歩み寄ると、一礼して口を開いた。
「しかし公爵閣下。シニストラの連中に見つかった今、ここも安全とは──」
直後、男の腕が燃え上がった。
痛みから悲鳴を上げ、のたうち回るも、その火はカーペットに引火することなく、的確に男の腕だけを焼いていく。
魔力の影響範囲を正確に指定しなければ、カーペットどころか部屋中が炎で埋め尽くされていただろう。
そうなっていないことが、リゾルートという男の魔法能力の高さを証明していた。
「分かりきったことを言うだけなら、お前をその地位に置いておく理由はないぞ。さっさと下がれ!」
リゾルートに怒鳴られ、腕を真っ黒に焦がされた男は、転がるように部屋から出ていく。
そもそも、なぜ皇族直属部隊──シニストラの人間たちが、あの場所を特定できたのかが、リゾルートには分からなかった。
そのことが彼をより苛立たせていた。
彼の計算では、カノン・スル・フィウメの居場所が露呈するまで、あと一年は猶予があったはずだったのだ。
だからこそ、残された一年でカノンの持つ特異な力をより活用できないかと、この2年の歳月をかけて実験の手筈を整えてきたのだ。
5年前。黒装束を纏った女からカノンに特別な力があると聞かされたあの時から、全ては始まった。
あれから、膨大な資金を使って準備してきた。というのに、その計画が破綻しかけている現状が、リゾルートには我慢ならなかった。
「あの力をもって、我が領地は栄華を極めるはずだったのだ……ッ!」
立ち上がり、椅子を投げ飛ばす。
壁面に掛けていた絵画を覆う額縁のガラスが音を立てて砕け散った。
音のない部屋に、暖炉の薪に含まれた水分の弾ける音が響く。
そして、リゾルートの姿を照らす照明代わりの火が、突如として不自然に揺れた。
「神の力をその程度のことに使う気だったんだ?」
誰もいないはずの部屋の影から、黒装束を纏った男が現れた。
見覚えのある黒装束に、リゾルートは咄嗟に身構える。
その男は一歩ずつリゾルートへと近づくと、フードを外し、無邪気な子どものように口元を緩やかな弧へと歪ませた。
「誰だ、貴様!」
「俺はエンデ。良い名前だろー? 神様がつけてくれたんだよね」
エンデと名乗った青年はリゾルートから見ても、この世のものとは思えないほど整った風貌をしていた。
だが同時に、絶対に関わるべきではない、と本能が告げているのをリゾルートは感じていた。
「そう警戒しないでよ。俺は味方だよ、味方」
エンデと名乗った青年は右肩をはだけさせ、肩にある紋章を指し示す。
それは四角と菱形が重なり、中央には大小の二重丸が描かれたシンプルなものだった。
リゾルートはその紋章に見覚えがあった。
カノンのことを彼に教えた黒装束の女も、エンデと同様の紋章を刻んでいたのだ。
「まさか、貴様も……?」
「そうそう。てか、なんで神擬きを監禁なんてしてたわけ? どういう意図?」
リゾルートの問いに適当な相槌を打って、エンデが糾弾するような声音で質問を重ねた。
「恵みのために我が領地に留めるのは当然だろう。それに、精神的に追い詰めてしまえば、道具として扱うのも容易いではないか」
「それで? 精神的に追い詰められたの?」
エンデの指摘にリゾルートは言葉を詰まらせる。
「まぁ、狙いは悪くはなかったけど、肉体的にも追い詰めちゃったのがなぁ。だから神の連中があいつの心を護っちゃったじゃん? あの神擬きを精神的に追い詰めるなら、心だけを狙わなきゃ」
目を閉じ、自分の胸に手を当てるエンデの姿は、まるで敬虔な信徒のように見えた。
その姿が、リゾルートの目にはことさら異質なものに映った。
「き、貴様は何を言ってるのだ……?」
後ずさるリゾルートに、エンデはゆっくりと近づく。
エンデにとって公爵が話を理解できるかなど、どうでもいいことだった。
ただ、もう少しだけ役に立ってもらえれば、それでよかった。
「棘狼なんて差し向けても無駄だってなんで分かんないかなぁ。あの部隊長さんが付きっきりって情報ぐらい仕入れてんでしょ? 知らなかったとしても騎士団なら棘狼ぐらい余裕で対処できちゃうってことぐらい分かるでしょ?」
公爵は何も言い返すことができずに、ただ歯を軋ませた。
シニストラの部隊長もだが、騎士団が出てきた時点で公爵には打つ手がなかった。
これ以上、国に喧嘩を売るような真似をすれば、公爵という地位すら危うい。
だから苦し紛れに棘狼を放ってはみたものの、結果はエンデの言う通りだった。
「まぁ、頑張ろうよ。一緒にさ」
エンデが手のひらを前にかざすと、黒い霧が生成され、リゾルートを包み込み始める。
抵抗しようとリゾルートは魔法を発動させるも、生まれた火は霧に飲み込まれて消えてしまう。
霧に完全に包まれたリゾルートは、何も見えなくなった視界の中で、自分の自我と呼べるものが霧散していくのを感じていた。
叫ぶことすら許されなかったリゾルートが床に崩れ落ちるのを、ただ見つめるエンデ。
静寂のなかで、暖炉の火が音を立てながら彼の横顔を照らす。
「さて、スル・スオーロ公爵閣下。これ試してみよっか」
一人呟いたエンデが取り出したのは、禍々しさを放ちながら黒く輝く小さな石だった。




