16. 目醒めの予兆
※一部残酷な描写があります
「なに、を……」
カノンは力なく手を伸ばし、言葉を絞り出す。
ただ、そのどちらも虚しく落ちていく。
その程度のことでエンデが動きを止めることはない。
「ちょっとした余興だよ。これで何か変わるなら良し、変わらなければ待つだけ」
鈍い音が空気を震わせる。
エンデがリエートの手のすぐそばにナイフを突き立てた音だ。
嫌な予感がした。
そのナイフをどうするつもりなのか、考えるまでもない。
「やめて……」
掠れた声が上擦る。
「神の力で何とかすれば?」
また神の力。
そんなもの、使えるならとっくに使っている。
現人神だの神の力だの、みんな好き勝手言ってるだけだ。
カノンひとりが、神という存在を知りもせず、自覚もできていない。
「ほら、さっさとしないとコイツの指、離れ離れになっちゃうよ?」
エンデが「10」と数字を口にする。そして次は「9」。
紛れもなく、それはカウントダウンだった。
「──ッ!」
咄嗟に立ち上がり、カノンは両手を前に突き出し、詠唱もなく火球を放つ。
それは無詠唱という高度な技術だったが、まだそれを操るほどの練度が今のカノンにはない。
今度は黒い霧すら出してもらえなかった。
イメージの乗り切らなかった火球は、エンデにあっさりと掻き消されてしまう。
「だからそういうのはいいって」
エンデが微笑んだ。
カノンは初めて目の当たりにする純粋な悪意を前に顔を青ざめさせる。
ゆっくりとカウントダウンが進んでいく。
突き立てられたナイフが微かに揺れる。
「い、嫌……」
そんな言葉に、もう意味はない。
目の前の男は間違いなく、そのナイフを振り下ろす。
(神の力って……なに……?)
崩れた地下牢の壁。
父の話では豊穣の力。
そして、エンデ曰くこの状況を変えることのできる力。
あまりにも力の説明としてまとまりがない。
そんなもの、どうやって使えばいいのか。
ただ、もし神の力なんてものがあるのなら、と縋る思いでカノンは全身に意識を巡らせる。
それでも知覚できるのは魔力だけ。
いつものように心臓へと魔力が集まっては虚しく散っていく。
(お願い……お願いします、神様……!)
3年間の幽閉生活。
それでも無事に生きられたのが神のおかげだというのなら。
今度も救ってほしい。
だから、カノンは心の中で何度も祈った。
「あーあ、時間切れ」
無情に告げられるタイムリミット。
エンデは何の感慨もなく、ナイフを握る手に力を込めた。
「つーわけで、っと。ばいばーい」
「やめてぇぇぇ──ッ!!」
肉が断ち切られる音がした。
鈍く、重い音。
次に血しぶき。
「ぐっ、ぁぁ……」
そして、リエートの歯を食いしばる声。
カノンは再び膝から折れるように座り込む。
呆然とした顔を涙が濡らす。
呻くリエートを放って、エンデが近づいてくるも、逃げる気力すら湧いてこない。
ぐっと顎を掴まれ、エンデと目が合う。
ただ、カノンの目は男を映してはいても、焦点が合っていなかった。
「なるほどね。やっぱ神連中は堕ちさえしなきゃ、あんたの心はどうでも良いわけだ」
ひとり納得した表情を浮かべ、エンデはカノンから手を離す。
「そろそろ王子様がご帰還する時間っぽいし、お暇するか……っと、ちょっと間に合わなかったか?」
空中に魔法陣が現れ、光を放った。
「フォル、テ……」
視界の滲む先に現れたのは、フォルテだった。
フォルテは一瞬だけ血溜まりに倒れるジュストとリエート、そしてカノンに目をやる。
そして表情を一気に強張らせた。
「好き放題やってんじゃねぇよ!」
「もう片付けちゃったの? 早すぎでしょ」
エンデは飛び退き、軽口を叩きながらフォルテが振り下ろした剣をナイフで受け止めた。
金属同士のぶつかり合う甲高い音が鳴り、軋むような音を立てる。
「もう帰るから見逃してくんね? マジであんたと相性悪いんだよ」
「見逃すわけないだろうが!」
剣とナイフが何度も刃鳴りを響かせる。
そして、フォルテが一瞬姿を消した。
次に視認できた時には、剣を切り払ったフォルテの姿。
「あぁー……だからマジで魔力操作上手すぎ。面倒くせぇ」
エンデに目をやると腹部が抉られ、中から黒い血が溢れていた。
「こうなると思ったからさっさとしたかったのに。そこの奴らが無駄に抵抗すっから」
エンデが初めて表情を歪めた。
床に伏しているジュストとリエートを一瞥し、苦々しく呟く。
「でも、これならどう?」
床に落ちていたフィーネの短剣を拾い上げたエンデが、そのままカノンへと投擲した。
「カノン!」
叫ぶと同時にフォルテが消え、次の瞬間には迫りくる短剣を剣で叩き落としていた。
「またね、騎士様。それと、神擬きさん」
フォルテ越しにエンデが手を振るのが見えた。
そして、エンデを黒い霧が包み始め、霧散すると同時にエンデの姿は跡形もなく消え去っていた。
霧に駆け寄っていたフォルテが、忌々しげに舌打ちをする。
再び訪れた静寂が、悪夢の終わりを告げていた。
「カノン、ごめん。遅くなって」
フォルテの声は、カノンの耳には届かない。
カノンは、床に倒れるリエート、そして切り落とされた彼の指に視線を集中させていた。
虚ろな目で、リエートの元へ這うカノン。
そして指を手に取り、ゆっくりと付け根にくっつけ、呟く。
「癒し、を……」
魔法陣が浮かび、周囲に粒子が舞う。
そして輝き、リエートの手元を包み込む。
だが、それだけだった。
切断面に添わせた指が、カノンの手からこぼれ落ちる。
治癒魔法は正しく行使されたはずが、何も起きない。
当然だ。治癒魔法は万能ではない。
人間の自己再生力を底上げするものであり、再生力を超えた治癒は施すことができない。
「癒しを」
必要な魔力量の多い治癒魔法によって、カノンの全身から魔力がごっそりと消えていく。
「癒しを」
貧血を起こしたように、脳が揺れ始め、吐き気が込み上げてくる。
「癒しを」
呟くたびに魔法陣が現れ、粒子となって消えていく。
「癒しを」
フォルテがカノンの肩に手を置き、「もういい」と首を横に振る。
「癒しを」
涙で視界が滲む。
何が現人神だ。
何もできず、守られただけ。
神様らしいことひとつ、できやしない。
「癒しを」
もっと早く信じ、受け入れていたなら。
何か変わったのだろうか。
(今からじゃ、遅いですか……?)
誰に問うたわけでもなく。
ただ、自分自身に問いかける。
リエートが「もう……大丈、夫っす、よ……」と苦痛に耐えながら笑う。
──カノン様、すげー!
ヤンキーな風貌をしているくせに、無邪気な顔でそう言ったリエート。
(凄くなんかないよ、だって……何もできない……)
次々に涙がこぼれ落ちる。
そしてとうとう、魔力が切れた。
詠唱しても、魔法陣は浮かばない。
「癒し……を……ッ!」
それでも、カノンは詠唱を止めなかった。
ここで諦めたくなかった。
諦めてしまえば、もう二度と、リエートたちと笑って過ごせる気がしない。
だから。
もし自分が現人神だと言うのなら。
今だけは、その力に縋りたい。
「癒しを──ッ!」
世界が白く染まった。
魔法ではあり得ない輝きが部屋中に満ちていく。
白い光が粒子となって部屋に降り注いだ。
次に起きたのは、まさに奇跡としか言いようのない現象。
切り離されていたリエートの指が吸い寄せられるように元の位置へ収まり、境目さえ分からなくなる。
その傍らで、ジュストの足を貫いていた傷が、音もなく塞がっていく。
「まじ、っすか……?」
リエートが恐る恐る手を握り、開く。
切り離されたはずの指が、傷跡ひとつなく元通りに動いている。
「よかっ……た……」
魔力切れとは異なる違和感に全身を襲われ、カノンの意識が途絶えていく。
「奏音!」
倒れる直前、その呼び声だけが胸の奥に残った。
それは、夕暮れの中で聞いた名と同じものである気がした。




