第3話 バタフライ・エフェクトの鱗粉
日曜日。拓海は指定された街外れのファミレスの席についた。
窓の外には、あの奇妙な電話ボックスを敷地内に抱える、寂れたガソリンスタンドが見える。
「あなたが……木村優斗さんですか」
対面に座る青年は、20代半ばのはずだが、その瞳には何十年も彷徨ったかのような深い疲弊と、強烈な意思が宿っていた。
「坂本さんですね。メッセージを見て来てくれてよかった」
優斗は冷めたコーヒーを少し啜り、声を潜めた。
「単刀直入に言います。あの電話ボックスのルールは、表向き『過去や未来の自分と入れ替わる』ですが……実は致命的なバグがある。僕らは戻ってきたとき、『自分がもともといた世界線』とは微妙に違う世界線に着地しているんです」
拓海は目を見張った。
「違う世界線……? だが、俺の家には妻も娘もいて、俺の胃がんもそのままだ」
「些細な違いです。例えば、部屋の模様替えの配置が違うとか、知り合いのスマートフォンの機種が違うとか。でも、確実にズレている。歴史を変えれば変えるほど、そのズレは大きくなる」
優斗は自分の手のひらを見つめた。
「僕は3年前の過去へ跳んで、死ぬはずだった恋人を救った。でも、戻ってきたら『もう一人の僕』が彼女と幸せに暮らす世界線だった。僕はそこに交われない『異物』になった。僕の本来の居場所は、もうどこの時間軸にもないんです」
優斗の目的は、この歪んだ因果のループを断ち切り、自分自身の「正しい時間」を取り戻すことだった。そのために、ボックスの因果を歪めた使用者たちを集め、ある計画を立てていた。
「そのためには、もう一人……僕らと同じように『運命の弾き語り』をしてしまった人間が必要です」
その時、ファミレスの窓越しに、一台の高級外車がガソリンスタンドの脇に止まるのが見えた。
車から降りてきたのは、仕立てのいいスーツを着た若きIT企業の経営者、真壁修一(29)だった。彼の表情は鬼気迫るものがあり、脇目も振らずに緑色の電話ボックスへと歩いていく。
「彼だ」と優斗が言った。「彼が3人目の当事者になる」
二人は席を立ち、ボックスへと向かった。
◇
電話ボックスの中、真壁修一は激しく指を震わせながらダイヤルを回していた。
【2・0・2・1・0・4・1・5】
5年前。彼が共同経営者である親友のハッカー、蓮を裏切り、開発したシステムと会社の権利をすべて独占した「裏切りの日」だ。
修一はその日を境に巨万の富を得たが、蓮は絶望し、その3か月後に自ら命を絶った。富と名声を得てもなお、修一の心は罪悪感で腐りかけていた。
「蓮、すまない……あの日、俺が契約書を書き換えなければ……」
激しい耳鳴りの後、修一は5年前の創業当時の、狭く汚いアパートのオフィスに立っていた。
デスクの向こうには、ボロボロのTシャツを着て、一心不乱にコードをタイピングしている生きている蓮の姿があった。
【残り時間:23時間59分53秒】
「修一? どうしたんだよ、急に高級ブランドのスーツなんか着て。コスプレか?」
蓮が怪訝そうに笑う。
修一の胸が激しく痛んだ。「いや、なんでもない……」
修一の目的は、デスクの引き出しにある「契約書」を破り捨て、蓮と利益を完全に折半する新しい契約を結び直すことだった。そうすれば、蓮が自殺する未来は消えるはずだ。
しかし、修一が引き出しに手をかけようとしたその時、アパートのインターホンが鳴った。
出ると、そこには見知らぬ青年――優斗が立っていた。
「真壁修一さんですね。唐突ですが、あなたに警告しに来ました」
優斗の背後には、拓海も立っている。
「なんだお前たちは! なぜ俺の名前を……」
「僕らも『電話ボックス』の使用者です。未来からあなたを追ってきました」
優斗は冷徹に言い放った。
「蓮さんを救おうとして契約書を書き換えるつもりですね? やめなさい。あなたが歴史を変えて蓮さんを救った瞬間、回線が切れてあなたは『蓮が生きている5年後』に戻る。でも、その世界線で蓮の隣にいるのは、彼を裏切らずに共に苦労してきた『もう一人のあなた』だ。今のあなたの富も名声も、すべて消えてなくなる」
修一は息を呑んだ。「それは……」
「それだけじゃない」拓海が静かに言葉を重ねる。「あなたの富が消えるだけならまだいい。歴史の反動は、もっと残酷な形で現れる。俺は未来を変えた結果、過去の自分が家族に『死』を告げることになった」
修一は激しく葛藤した。
富を失い、さらに世界線がねじれ、自分が積み上げてきた5年間が「なかったこと」になる恐怖。だが、目の前で呑気にコーラを飲んでいる蓮を、このまま見殺しにすれば、自分は一生悪魔のままだ。
「……それでもいい」
修一は拳を握りしめた。
「俺は、自分の人生が壊れても構わない。蓮が生きているなら、俺は一文無しに戻ってもいい!」
修一は優斗たちを突き放し、引き出しから契約書を取り出すと、蓮の目の前でそれを真っ二つに破り捨てた。
「おい、修一!? 何するんだよ!」驚く蓮。
「蓮、会社はお前と俺、半々だ。いや、お前が7で俺が3でもいい。俺はお前を裏切らない!」
その瞬間、修一のスマートフォンから、あの忌まわしい「黒電話のベル」が鳴り響いた。
因果の書き換えによる、強制切断。
「真壁さん、戻ったらガソリンスタンドの裏へ!」優斗の叫び声を最後に、修一の意識は急速に遠ざかった。
◇
「うわあああッ!」
修一は2026年の電話ボックスの中で叫びながら跳ね起きた。
高級スーツはそのままだった。急いで外へ飛び出すと、そこには優斗と拓海が待っていた。
「真壁さん、成功だ。だが……周りを見てみろ」優斗が静かに言った。
修一が自分のスマートフォンを見ると、会社の株価チャートアプリは消え去り、銀行口座の残高は数千円になっていた。それどころか、ガソリンスタンドの向こうに見える街並みが、彼の知る2026年とは明らかに違っていた。走っている車のデザインが奇妙に古く、空の色さえも少しくすんで見える。
「歴史を変えすぎたんだ。僕ら3人が因果をいじり回したせいで、このエリア一帯の時間軸が『座礁』し始めている」と優斗。
「じゃあ、蓮は……蓮はどうなった!?」
修一が震える声で蓮の連絡先を探そうとした、その時。
ガソリンスタンドの事務所から、一人の男が出てきた。作業着を着て、油に汚れた手でタオルの汗を拭いている男。
それは――30代になった、蓮だった。
「蓮……!」修一が駆け寄ろうとすると、蓮は修一を見て、親しげに手を振った。
「おう、修一。早いな。バイトの時間にはまだ早いぞ」
修一の足が止まった。「え……? バイト?」
「何寝ぼけてんだよ。お前が5年前に『会社なんか辞めて二人で一からやり直そう』って契約書破り捨ててから、俺たちずっとこのスタンドでフリーターやってんだろ。家賃折半でさ」
修一は崩れ落ちた。
蓮は生きている。だが、あの天才ハッカーとしての才能を開花させることもなく、自分と共にうだつの上がらないフリーターとして5年間を過ごしていたのだ。修一が良かれと思って下した決断は、蓮の命を救った代わりに、彼の「輝かしい可能性」を完全に奪い去っていた。
「これが、歴史を変えた結末か……」修一は涙を流した。
優斗が二人の肩を叩いた。
「絶望するのはまだ早い。坂本さん、真壁さん。これで役者は揃った。このねじ曲がった3つの世界線を一本に束ね、全員が『本来あるべきだった正しい未来』へ進むための、最後の方法があります」
優斗が提示した計画。それは、3人が同時に異なる時代へ跳び、電話ボックスの「回線そのものをパンクさせる」という、前代未聞の歴史への反逆だった。




