最終話 明日のためのラスト・コール
街外れの寂れたガソリンスタンド。その裏手にある緑色の電話ボックスの前に、優斗、拓海、修一の3人が集まっていた。
空は異様な紫色に変色し、世界の境界線が融解し始めているかのように、周囲の景色が時折ノイズのようにブレている。
「僕らのせいで因果が限界を迎えている。このままじゃ、この世界線そのものが消滅する」
優斗はそう言うと、ボックスの傍らに静かに佇む管理人の老人を見つめた。老人はいつものように哀れみの目を向けながらも、どこか諦めたような笑みを浮かべている。
「……そろそろ気づいているんだろう、木村くん」
老人が枯れた声で言った。その声を聞いた瞬間、優斗の頭の中に強烈な既視感が走った。
「あなたのアドバイスは、いつも的確すぎた。まるで、僕らがどういう絶望を味わうか、最初から知っていたみたいに」
優斗は老人の前に一歩踏み出す。
「あなたの正体は……歴史を変えすぎて、どの時間軸にも戻れなくなった『未来の僕』ですね」
拓海と修一が息を呑む。
老人は深くため息をつき、ゆっくりと帽子の庇を上げた。その下にある皺刻まれた顔のパーツ、特に強い意志を宿した瞳は、紛れもなく数十年の歳月を経た優斗の姿だった。
「そうだ」老人は自嘲気密に笑った。「何度も何度も過去へ跳び、菜緒を救おうと歴史を書き換え続けた成れの果てさ。だが、どれだけ書き換えても完璧な未来は訪れず、世界線から弾き出され、私はこの電話ボックスの『部品』として時間に囚われてしまった」
老人は3人を見渡した。
「この因果の鎖を断ち切る方法は一つしかない。3人がそれぞれ、自分の『人生の分岐点』へ同時に跳ぶんだ。そして、過去の自分と入れ替わった瞬間――“歴史の改変をすべて元に戻す”」
修一が顔を強張らせた。
「元に戻すって……じゃあ、俺はまた蓮を裏切って、あいつを死なせるのか!?」
「俺も……またがん治療で家族を破滅させる道に戻るのか?」拓海の声が震える。
「そうだ」老人は残酷な現実を告げた。「だが、今度は一つだけ違う。君たちの精神は、一度この絶望を経験している。だから、過去に戻って歴史の通りに悲劇を受け入れたとしても、その後の行動を変えることができる」
優斗が二人の目を見つめた。
「真壁さん、あなたは蓮さんを裏切った後、すぐに彼にすべてを告白し、富を分け与えればいい。坂本さん、あなたは病気を受け入れた上で、家族と過ごす半年間を最高のものにすればいい。悲劇の『事実』は変えられなくても、人間の『心』と『選択』は変えられる」
世界のノイズが激しくなる。タイムリミットだった。
「やろう」修一が涙を拭い、笑った。「天才ハッカーの蓮をフリーターのまま腐らせるより、あいつが大金持ちになって俺が刑務所に入る方が、まだマシだ」
「俺も、覚悟を決めるよ」拓海が穏やかに微笑んだ。「娘のあの笑顔を、もう一度最初から守り直すために」
老人は満足そうに頷き、ボックスの扉を開けた。
「3人が同時に受話器を持て。私が外からダイヤルを回す。君たち自身の、正しい『あの日』へ」
3人は狭いボックスの中に身を寄せ合い、一本の黒い受話器を全員で握りしめた。
老人の手がダイヤルにかかる。カタカタと、3つの時代を指定する音が重なり合って響く。
「最後の警告だ」老人が微笑んだ。「これが、本当のラスト・コールだ」
激しい爆音のような耳鳴り。視界が真っ白な光に包まれ、3人の意識はそれぞれの過去へと射出された。
◇
【木村優斗:3年前のあの日】
優斗が目を開けると、蝉時雨の響く大学の交差点だった。
向こうから白いワンピースの菜緒が歩いてくる。反対側からは蛇行するトラック。
優斗は走らなかった。
彼はただ、愛おしそうに彼女の姿を目に焼き付けた。
「バイバイ、菜緒」
激しい衝撃音。悲鳴。
優斗は駆け寄り、冷たくなっていく彼女の手を握りしめながら、ボロ泣きした。だが、今度は逃げなかった。彼女の死の痛みを全身で受け止め、この絶望から歩き出すことを誓った。
その瞬間、ポケットのスマホが鳴る。強制切断。
◇
【坂本拓海:半年前のあの日】
拓海は病院の診察室にいた。目の前の医師が「ステージ4です」と告げる。
隣で美咲が絶望のあまり顔を覆って泣き崩れた。
かつての拓海はここで現実逃避をしたが、今の拓海は違う。
彼は美咲の手を強く握りしめた。
「大丈夫だよ、美咲。治療はできる限りのことだけやろう。それより、残された時間で、葵と一緒にたくさん旅行に行こう。約束だ」
美咲が驚いたように拓海を見たが、やがて涙を拭いて深く頷いた。延命ではない、密度の濃い半年間が今、始まった。
ポケットで黒電話のベルが鳴る。強制切断。
◇
【真壁修一:5年前のあの日】
修一は狭いアパートのオフィスで、契約書を書き換えた直後の瞬間にいた。
デスクの向こうで、蓮が「おい、これで俺たちの未来は安泰だな!」と無邪気に笑っている。
修一は机の上の契約書を見つめ、それから蓮の目を見た。
罪悪感で逃げ出す代わりに、修一は契約書を蓮の前に差し出した。
「蓮。実は俺、お前を裏切ろうとして、契約書の比率を書き換えたんだ。……最低だよな。でも、やっぱりお前と対等でいたい。殴ってくれ」
蓮は目を見張り、それから呆れたように笑って、修一の肩を小突いた。「バカかお前。気づいてたよ。でも、そうやって正直に言うなら許してやる。さあ、コードの続き書くぞ」
二人の夢が、本当の意味で始まった瞬間だった。
ポケットで黒電話のベルが鳴る。強制切断。
◇
【2026年7月12日――現在】
激しい落下感の後、優斗は目を開けた。
埃っぽい匂いはしない。目の前にあるのは黒電話ではなく――。
青く澄み渡った夏の空だった。
優斗は、綺麗に舗装された公園のベンチに座っていた。ガソリンスタンドも、あの緑色の電話ボックスも、どこにもない。世界線のノイズは完全に消えていた。
手元のスマートフォンを見る。
日付は正しい現在。通話履歴を開く。そこには、菜緒の名前はなかった。彼女は3年前に亡くなったままだ。
だが、優斗の胸に去来したのは、あの狂気的な絶望ではなく、静かな哀悼と前を向く強さだった。彼は菜緒の死を受け入れ、彼女が愛してくれた自分として生きる覚悟を決めていた。
ふと、スマートフォンのSNSアプリを開く。
タイムラインには、あるIT企業の若き経営者・真壁修一と、最高技術責任者・蓮が二人で笑顔で肩を組むニュース記事が流れていた。「二人の絆が掴んだ栄光」と書かれている。修一は裏切りを乗り越え、蓮と共に正しい成功を収めたのだ。
さらに、検索で見つけたある個人のブログ。
『夫が遺してくれた宝物のような半年間』というタイトルのブログには、笑顔のひまわり畑をバックに、幸せそうに微笑む坂本拓海と美咲、葵の3人の写真がアップされていた。拓海は数ヶ月前に他界していたが、家族の心には一生消えない光が灯っていた。
「みんな、自分の未来を生きているんだな」
優斗は空を見上げて微笑んだ。
ふとポケットの中で、スマートフォンが震えた。見知らぬ番号からの着信。
画面を見つめ、優斗はゆっくりと通話ボタンを押した。
「もしもし」
受話器の向こうから、優しく、どこか懐かしい少年の声が聞こえたような気がした。
それは未来からのコールか、それとも過去からの決別か。
優斗はスマートフォンを耳に当てたまま、光の差し込む街へと歩き出した。もう二回目のダイヤルを回す必要は、どこにもなかった。
完




