第2話 神様のカンニングペーパー
街外れの寂れたガソリンスタンド。その裏手に佇む緑色の電話ボックスの管理人、老人は、目の前に立つ男を哀れみの目で見つめていた。
「未来へ行く、かね」
「ああ」と、坂本拓海(34)は短く答えた。彼の顔色は土のように悪い。
拓海は先週、医師からステージ4の胃がんであると告げられた。余命は半年。目の前が真っ暗になった彼が藁をもすがる思いで辿り着いたのが、この都市伝説の電話ボックスだった。
「未来のルールも過去と同じだ。24時間で必ず戻される。そして戻ったとき、元の時間にいた『現在のあんた』の肉体には、未来から逆送された『未来のあんたの精神』が入り込む。……つまり、あんたの精神は、未来の肉体に置き去りだ」
「わかっている」
拓海は乾いた声で言った。
「俺はただ、知りたいんだ。医療が発展した未来なら、俺のがんは治っているかもしれない。もし、5年後の未来に俺が生きていれば……絶望せずに闘病生活を送れる。神様のカンニングペーパーを見に行くのさ」
拓海は重厚な黒電話のダイヤルを回した。
【2・0・3・1・0・7・1・2】
5年後の、今日の日付。
激しい耳鳴りと共に、拓海の意識は光の中に吸い込まれた。
◇
目を開けると、拓海は清潔な白い廊下に立っていた。
鼻を突く消毒液の匂い。どこかの大病院のようだ。手元のスマートフォンを見ると、不気味なタイマーが始動していた。
【残り時間:23時間59分51秒】
「本当に5年後か……?」
拓海は壁に貼られた案内図を見ながら、ふらふらと歩き出した。もし自分が生きているなら、この病院に通院しているか、あるいは入院しているはずだ。
受付の電子モニターで「坂本拓海」の名前を検索しようとした、その時だった。
「――お父さん?」
背後から、聞き覚えのある、しかし少し大人びた声がした。
振り返ると、そこには見違えるほど背が伸びた娘の葵(12)が立っていた。現在は7歳のはずの彼女が、小学校高学年の姿になっている。その目には、大粒の涙がたまっていた。
「お父さん……! 意識が戻ったのね! 先生、お父さんが!」
葵が廊下の奥へ走っていく。
わけが分からないまま後を追うと、拓海はある病室に行き着いた。名札には『坂本拓海』と書かれている。
病室のベッドに寝かされていたのは――骨と皮ばかりに痩せ細り、無数の管に繋がれ、人工呼吸器をつけられた「5年後の自分」だった。
「なんだ……これは……」
拓海は絶句した。
主治医らしき男が血相を変えてやってきて、拓海の身体を調べる。正確には、拓海の精神が乗り移って急に起き上がった「5年後の肉体」を、だ。
「奇跡だ……5年間、完全な植物状態だった坂本さんが、まさか目を覚ますなんて……」
医師の言葉に、拓海はすべてを理解した。
5年前(つまり現在)のがんは治っていなかった。それどころか、何らかの理由で脳死に近い植物状態となり、5年間ベッドの上で生かされ続けていたのだ。
「そんな……じゃあ、俺の闘病は無駄だったってことか?」
絶望が拓海を襲う。未来の自分は、生きているとは名ばかりの、ただの肉体の塊だった。
だが、本当の絶望はそこからだった。
泣きじゃくる葵の横から、妻の美咲が病室に入ってきた。美咲の顔はひどくやつれ、年齢以上に老け込んで見える。彼女のスマホの画面が偶然見えた。そこには、膨大な医療費の請求書と、借入金の催促通知が表示されていた。
「美咲……」
拓海が声をかけると、美咲は喜びよりも先に、ひどく複雑な、疲れ果てた表情を浮かべたのだ。その目が語っていた。
『これ以上、いつまで私たちは耐えればいいの?』と。
拓海のがん治療と、その後の5年間の延命治療は、愛する家族の人生を完全に破壊していた。家は売られ、妻は夜遅くまで働き詰め、娘は行きたい学校を諦めていた。
病室の窓の外を見つめながら、拓海は手元のタイマーを見た。
【残り時間:18時間42分10秒】
あと18時間すれば、自分の精神はこの「植物状態の5年後の肉体」に固定される。そして、現在の肉体には、「5年間眠り続けていた真っ白な精神」が戻っていく。
そうなれば、予定通り最悪の5年間が幕を開ける。
(俺が生きようとしたせいで、家族が不幸になる)
(なら、俺はどうすべきなんだ?)
拓海は病院を抜け出し、5年後の街を彷徨った。
「歴史を変えてはいけない」と管理人は言った。だが、このまま戻れば、待っているのは地獄だ。
午後10時。残り時間は約9時間。
拓海は決意を固め、公衆電話から美咲のスマホへ電話をかけた。病院のベッドから抜け出した患者からの電話に、美咲は驚き、泣きながら「どこにいるの」と尋ねた。
「美咲、よく聞いてくれ。俺は今から病院に戻る。でも、その前に一つだけ、どうしても約束してほしい」
『約束って、何よ急に……』
「明日、もし俺がまた眠りについたら……延命治療は拒否してくれ。尊厳死の同意書にサインしてくれ」
『何言ってるの!? やっと目を覚ましたのに!』
「俺は、お前と葵の笑顔が見たくて生きてきたんだ。二人の人生を犠牲にしてまで、ただの肉体として残りたくない。頼む、美咲。俺を、愛させてくれ」
電話の向こうで、美咲が激しく嗚咽する音が聞こえた。
長い沈黙の後、彼女は消え入るような声で『……わかったわ』と言った。
その瞬間。
ジリリリリリリリン!!!
静まり返った夜の街に、あの「黒電話のベル」が鳴り響いた。
歴史の確定。美咲が「延命を拒否する」と決断した瞬間、5年後の未来の因果が書き換わり、回線が強制切断されたのだ。
拓海の視界が急速にブラックアウトしていく。
(これでいい……これで、二人は救われる……)
◇
激しい眩暈のあと、拓海は現代の電話ボックスの中で崩れ落ちた。
埃っぽい匂い。目の前の黒電話。
「戻ったか……」
拓海はボックスを出て、ふらつく足で自宅へと向かった。
自分の身体は相変わらずがんを抱えている。だが、心は不思議と軽かった。未来の自分が植物状態になる前に、自ら治療を拒否し、静かに死を受け入れれば、美咲と葵は自己破産せずに済むはずだ。
我が家のドアを開ける。
「ただいま」
奥から、7歳の葵が走ってきた。「お父さん、おかえり!」と抱きついてくる。その笑顔を見て、拓海は涙をこらえた。これでいい。この笑顔を守れたなら。
しかし、キッチンから出てきた妻・美咲の顔を見た瞬間、拓海は息を呑んだ。
美咲の目が、真っ赤に腫れていた。
まるで、たった今、大切な人を亡くしてボロ泣きしたかのように。
「あなた……」
美咲は震える声で言った。
「さっき、急に倒れて意識を失ったから、救急車を呼ぼうとしたのよ。そうしたら突然目を覚まして……『今までごめん、延命はしないでくれ』って、泣きながら私にしがみついて……」
拓海の心臓がどくりと跳ねた。
“鉄のルール”。
時間が切れて戻ったとき、『その時間にいた自分の精神と入れ入れ替わる』。
拓海が5年後で美咲に延命拒否を約束させた瞬間、回線が切れた。
拓海の精神は「現在」に戻ってきた。
では――「5年後の病院」に取り残された拓海の肉体は?
そして、「たった今、現在の我が家で泣いていた拓海」の精神はどこへ行った?
5年後の病院で、拓海の決断を聞いた直後の肉体に、「たった今、我が家で美咲に延命拒否を告げた現在の拓海」の精神が送り込まれたのだ。
つまり、現在の拓海は、ボックスに入る直前に「5年後の自分(の精神)」とすでに入れ替わっていた。
さっきまでこの家で美咲に延命拒否を告げて泣いていたのは、「5年間の植物状態を経て、すべてを察し、延命拒否を受け入れた未来の拓海の精神」だったのだ。
未来の拓海は、現在の肉体に入り込んだわずかな時間を使って、美咲に直接「延命しないでくれ」と伝えた。自分がこれから味わう5年間の苦しみを、家族に与えないために。
「そうか……お前が、伝えてくれたんだな……」
拓海は美咲を強く抱きしめた。
未来の自分が、現在の自分を救ってくれた。いや、現在の自分がこれから歩む絶望の道のりを、少しだけ優しく変えてくれたのだ。
拓海は決意した。残された半年間、全力で家族を愛そうと。
その夜、拓海のスマートフォンに、登録のない番号から一通のメッセージが届いた。
『私は、あの電話ボックスの最初の使用者です。あなたの選択を見届けました。もし、運命を変えたいなら、次の日曜日、もう一度ボックスへ来てください。歴史の「縛り」を抜ける方法があります』




