第1話 ラスト・コールが鳴る前に
街外れの寂れたガソリンスタンドの裏手に、その電話ボックスはある。
塗装のはげかけた緑色の筐体は、一見すると昭和の遺物のようだが、中にあるのはプッシュ式ではなく、重厚な黒電話だ。
受話器を持ち上げると、電子音ではなく、遠い地鳴りのような低いハム音が響く。
木村優斗(26)が握りしめたコインを投入口に落とすと、吸い込まれるように消えていった。彼は震える指で、ダイヤルを回す。
【2・0・2・3・0・7・1・2】
3年前の、今日の日付。
優斗の人生が、永遠に狂ってしまったあの日の朝だ。
ダイヤルがカタカタと戻る音が静まり返った瞬間、激しい耳鳴りが優斗を襲った。視界がグニャリと歪み、次の瞬間、彼は夏の強烈な西日と、激しい蝉時雨の中に立っていた。
目の前には、見覚えのある大学の校舎。
手元の腕時計は、元の世界では深夜だったはずなのに、午後3時を指して動き始めている。
「本当に……来ちゃったのか」
ポケットのスマートフォンを確認する。画面の上部には、不気味なデジタルタイマーが浮かび上がり、正確に秒を刻み落としていた。
【残り時間:23時間59分54秒】
この電話ボックスには、都市伝説として語り継がれる“鉄のルール”がある。
24時間が経過して受話器の向こうの接続が切れた瞬間、意識は強制的に元の時間へと引き戻される。
だが、恐ろしいのはその後だ。
戻ったとき、優斗の精神は「3年後の元の世界」に戻るが、肉体は「この3年前の世界」に取り残される。つまり、ここから先の3年間を、もう一度別の時間軸の自分が生き直すことになる。
そして、元の時間にいる「今の自分」の肉体には、この3年前から強制ジャンプさせられた「過去の自分の精神」が入り込む。
――要するに、過去の自分と、未来の自分が完全に『入れ替わる』のだ。
「歴史を変えてはいけない」とボックスの管理人には釘を刺されていた。もし変えてしまえば、戻った先の未来がどうなっているか、誰も保証できないからだ。
それでも、優斗にはやらなければならないことがあった。
大学の裏手にある交差点。
数時間後、ここで優斗の恋人だった菜緒が、ブレーキの壊れたトラックにはねられて命を落とす。
「変えるんじゃない。俺は、ただ……」
優斗は走り出した。心臓が痛いほど脈打つ。
午後5時45分。事故の15分前、彼は交差点の角に隠れ、その時を待った。
やがて、通学路の向こうから、白いワンピースを着た菜緒が歩いてくるのが見えた。3年ぶりに見る、生きている彼女の姿だった。胸が締め付けられ、涙が溢れそうになる。
同時に、反対側の道路からは、ふらふらと蛇行する大型トラックが近づいてくる。
(助けなきゃ。でも、もしここで俺が彼女を引っ張ったら、歴史はどうなる?)
(未来の俺が変わるだけか? それとも、世界そのものが崩壊するのか?)
優斗の脳裏に、管理人の言葉が蘇る。
「歴史ってのはゴム紐みたいなもんでね。少し引っ張るくらいなら戻るが、強く引きちぎれば、反動で誰かが死ぬ以上の災厄が降りかかるよ」
トラックが交差点に進入する。菜緒はスマホを見ていて気づいていない。
「菜緒――ッ!!」
優斗は叫び、飛び出していた。
彼女の腕を掴み、歩道へと激しく引き倒す。
直後、鼓膜を破らんばかりの衝撃音とブレーキ音が響き渡った。トラックは電柱に激突し、菜緒がさっきまでいた場所は、鉄屑と化したフロントガラスの破片で埋め尽くされていた。
「キャッ……! な、何!?」
尻もちをついた菜緒が、怯えた目で優斗を見る。当然だ。彼女から見れば、数日前に少し喧嘩別れしたきりの彼氏が、なぜかボロボロのスーツを着て、血相を変えて自分を抱きしめているのだから。
「優斗……? なんでそんな格好……それに、どうしてここに」
「よかった……無事で、本当によかった……」
優斗は構わず彼女を強く抱きしめた。
歴史は変わった。彼女は生きている。
しかし、優斗が安堵したその瞬間。
彼のポケットで、持ってきているはずのない「黒電話のベル」が鳴り響いた。
ジリリリリリリリン!!!
ビクッとしてポケットから取り出したのは、やはり自分のスマートフォンだった。だが画面には、タイマーではなく【通話終了】の文字が点滅している。
(バカな、まだ2時間も経っていないぞ……!?)
そこで優斗は気づいた。
24時間というのは「最大限制限」に過ぎない。歴史に致命的な改変を加えた瞬間、強制的に『回線が切断される』のだということに。
視界が急速に白濁していく。菜緒の叫ぶ声が遠ざかる。
「優斗? 嘘、身体が透けて――」
「菜緒、生きろ! 逃げるんだ!」
それが、優斗が過去に残した最後の言葉だった。
◇
激しい落下感の後、優斗は薄暗い空間で目を覚ました。
埃っぽい匂い。目の前には、黒い受話器。
ガソリンスタンドの裏の、あの電話ボックスの中だった。
「戻った……のか?」
優斗は自分の手を洗うように見つめた。身体はある。意識もしっかりしている。
恐る恐るボックスの扉を開け、外に出た。スマートフォンの日付を見る。
【2026年7月12日】
間違いなく、彼が旅立った「現在」だ。
彼はすぐに通話履歴を開き、菜緒の番号を探した。もし歴史が変わっていれば、彼女の番号は「有効」になっているはずだ。
震える指で発信ボタンを押す。
コール音が鳴る。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
ガチャリ、と音がして、静寂の向こうから声が聞こえた。
『……もしもし? 優斗?』
懐かしい、少し大人になった彼女の声だった。優斗の目から涙がこぼれ落ちる。
「菜緒……! 菜緒なのか!? 生きて、生きてるんだね……!」
『え? 何言ってるのよ、急に。生きてるに決まってるじゃない。それより、どうしたの? あなた、さっきまで私の隣で普通にテレビ見てたじゃない』
優斗の思考が凍りついた。
「え……? 隣で、テレビを?」
『そうよ。急に無言で立ち上がって外に出て行ったから心配したのよ。……ねえ、本当にどうしたの? さっきまでのあなたと、なんか雰囲気が違うっていうか……まるで、昔のあなたに戻ったみたい』
受話器を握る優斗の背筋に、冷たい戦慄が走った。
“鉄のルール”を思い出す。
過去へ跳び、時間が切れて戻ったとき、『その時間にいた過去の自分と入れ替わる』。
優斗が3年前の過去で菜緒を救った瞬間、回線が切れた。
その瞬間、優斗の精神は「菜緒が生き残った3年後の現在」に引き戻された。
では――「3年前のあの交差点」に取り残された優斗の肉体は?
そして、「たった今、菜緒の隣でテレビを見ていた優斗」の精神はどこへ行った?
答えは一つ。
3年前の交差点で、菜緒を救った直後の優斗の肉体に、「たった今、テレビを見ていた平和な3年後の優斗」の精神が送り込まれたのだ。
何も知らない未来の自分が、突然3年前の事故現場に放り出され、そこから「菜緒が生きている3年間」を必死に生き直した。
そして今、その3年間を生き抜いて菜緒の恋人であり続けた「もう一人の俺」の精神が、入れ替わりでこのボックスの中に――いや、違う。
入れ替わったのは、『3年前の、あの瞬間の精神』だ。
じゃあ、菜緒の隣にいる「今の優斗」の中身は――。
『もしもし? 優斗? 聞いてる?』
受話器の向こうから聞こえる菜緒の声を聴きながら、優斗は絶望の淵に立たされていた。
歴史を変えた代償。それは、自分が望んだ「菜緒と共に生きる未来」を、自分自身の手で「別のタイムラインの自分」に譲り渡し、自分は誰も知らない空白の未来へと放り出されることだったのだ。
電話ボックスの黒電話が、誰も触れていないのに、チリンと静かに鳴った。




