58話 旧華族
――静かな庭園に雨音だけが響く。
梅雨に差し掛かり雨の日が増えてきた。
俺は雨が好きだ。軒下に落ちる雨音――湿ったアスファルトを走る車の音――湿度を帯びた鉛のような匂い。
雨は、世界を少しだけ置き去りにしてくれる。
「泉……ちょっと待ってて」
縁側に腰かけ――庭園を眺めていると、背後から静かな声が響く。
「茜ちゃん。
突然、お邪魔してごめん。ゆっくりでいいよ」
柴田茜――柴田家の令嬢。
両親を亡くし、成人してから、今では名目ともに当主となった。
五十嵐さんの葬儀の時はあれだけ人がいたのに、今では使用人の一人すらいない。
こんな広い屋敷――彼女一人で掃除や手入れをしているのだろうか。
今日来たのは、茜ちゃんが心配だったから。
NF杯以降、彼女は配信を一度もしていなかった。
俺も最後に会ったのは打ち上げの時かな。
五十嵐さんに託された以上、ほったらかしにはできない。
それから三時間――彼女は、ずっと掃除や家の手入れ、洗濯、料理をしている。
俺は、茜ちゃんのことを何も知らない。
以前は海外に住んでたらしいが――どこの国なのか、どれだけの期間住んでたのかも知らない。
昼過ぎ――彼女が御膳を持って、俺の隣にちょこんと座った。
「泉……お話しタイム……」
隣で微笑む顔は、いつもの彼女だった。
家のことが忙しくて配信できなかったのかな?
御膳の上には巨大なおにぎりと、味噌漬けがお皿に乗せられていた。
「これ……私が漬けた」
「へぇ~、うまそう!」
塩味が控えめの熱々のおにぎりと、味噌漬けの濃い味が、ほどよく口の中でとける。
「うまいっ!」
茜ちゃんって意外と女子力高いのでは?
彼女は長い黒髪を耳にかける。
その仕草がやけに色っぽかった。
「茜ちゃん……最近、大丈夫?
配信してないみたいだけど……」
「うん……」
彼女の表情は沈んでいた。
「茜ちゃん、これ食べようぜ!」
俺は、保冷剤を詰め込んだ袋の中から、あるものを取り出す。
「あっ……ミルクプリンっ!」
彼女の声が跳ねる。
「ちょっと……待ってて……」
茜ちゃんは、小走りにどこかへ向かうと、スプーンを二本持ってきた。
「スプーンついてるぜ?」
「こっちで食べた方が……おいしい」
変わらない気がするが……。
せっかくなんで、スプーンを受け取りミルクプリンを口に運ぶ。
「泉……空けて」
彼女は、少し強引に俺の膝の上に座り込んだ。
互いに何も喋らず、時間だけが過ぎていった。
§
――静寂を破るように玄関扉がけたたましく明け放たれた。
「また来た……」
茜ちゃんが、玄関の方を見て顔を曇らせた。
門が開く音がした。
「おいっ、茜! 主人の出迎えはまだか?」
若い男の声が雨音を裂く。
ドタドタと足音が響き渡り――黒髪で甘いマスクの男が立っていた。
そいつは、俺を見るなり顔をしかめた。
「茜、何をしている? こいつは誰だ?」
「あなたには関係ないです……縁談の話はお断りしたはずです」
縁談?
そういえば、五十嵐の葬儀の時に話してたやつか。
「君には旧華族としての自覚が足りない。
我が郷田家と血を交え、平民の血が混じらぬようにしなければ」
「ずいぶん選民思想の強いやつだな?」
今どきこんなやついるのか。
一周回って面白いけどな。
「なんだ、平民の分際で……
我々に楯突く気か?」
「茜ちゃんの顔を立てたほうがいいか?」
「立てなくてもいい……私、こいつ嫌い……」
「なっ! 茜ちょっと、こっちに来い!」
「やめて、痛いっ!」
男は、俺の膝の上に座る茜ちゃんの腕を強引に引っ張りあげ、自分の方へ引き寄せる。
俺は男の背後を取り、首筋にスプーンの柄を当てる。
「おい……彼女を離せ……喉笛を抉られたいか?」
「ひっ!? な、ナイフだと……き、貴様、この僕にこんなことをして……家の者が黙っていないぞ……」
「家の者? そいつらが来る頃には、お前はこの世にいないだろうけどな……」
「お、お願いだ……こ、殺さないでくれ……」
「郷田家とかいったか……さぞ、うまい血が流れているんだろうなぁ」
俺は男の首筋を指でなぞる。
「ひぃぃぃぃっ」
男は情けない声を出して、ついに腰を抜かした。
怯えるように、壁際に這っていく。
「お願いだ……私が死ぬことが、日本にとってどれだけ損失か……」
男は壁に背を預け、泣いていた。
「スプーンで人が殺せるかよ」
ネタバラシをしつつ、俺は指先でスプーンを回す。
「えっ……スプーン?」
男は失禁していた。
俺は持っていたスマホで彼の痴態を写真に収めた。
「お、おい……こんな姿撮るな……私の威厳が……」
「これに懲りたら、二度と彼女に近づくなよ」
男は激しく頷いていた。
「も、もう近づかないから、そ、その写真は消してくれ!」
「今後のお前次第だな。
それと……一つ訂正だ」
俺はスプーンを投げナイフの要領で、男目掛けて投擲する。
スプーンが男の顔の真横を掠め、背後の柱へ勢いよくぶつかった。
「俺ならスプーンで、人を殺せるぜ!」
「ひぃぃぃぃ!」
男は泡を吹いて気絶した。
「泉……柱……」
「あっ、ごめん……」
「ふふっ……でも、ありがと……」
外で待っていた、男の運転手を呼び、車の中まで運んでもらった。
虫を見て驚いて、気絶したと伝えた。
運転手は「ざまあみろ」とだけ、こぼしていた。
こいつ……嫌われてんだな。
普段からこんな態度だっただろうから、仕方ないけど。
部屋に戻ると、茜ちゃんが男が汚した床を掃除していた。
「重ね重ね申し訳ない……」
むしろ、俺のせいで事態が悪化した気がする。
家も傷つけてしまうし。
「泉……かっこよかった……さすが、赤い死神」
「リアルでそれを名乗るのは、少しイタいな……」
茜ちゃんは、笑っていた。
それだけで充分だった。
§
再び、二人の時間が訪れる。
茜ちゃんは俺の膝の上でくつろいでいた。
「あいつ……最近、毎日来て、勝手に家に入ってくるの」
「さすがに、警察を呼んでいいんじゃないか?」
「一回呼んだんだけど……あいつが話したら帰っていった」
「なんでだ? 上級国民ってやつか?」
茜ちゃんが口下手なのもありそうだな。
「その後、いっぱい殴られた……」
茜ちゃんの肩が震えていた。
想像以上にクズだった。
「スプーンを顔に当ててやればよかったな」
「泉……だめだよ……傷つけたら、泉もあいつと同じになる……」
「そうだな……ごめん」
そう言って、茜ちゃんの頬をさする。
「泉……殴られたのはお腹……」
「えっ、そうなの?」
「うん……あいつ、綺麗な顔は傷つけたくないって……」
女の子の体は繊細なのに……お腹だって子どもを産めなくなる可能性がある。
俺は、茜ちゃんのお腹を優しくさする。
「泉……今日は帰らないで……」
彼女は一人でずっと戦っていたんだ。
誰かがそばにいて、彼女を守らないと。
せめて、一人で対処できるようになるまで。
§
その夜、広い和室に茜ちゃんが、布団を二つ並べて敷く。
薄紫の花の刺繍が施された白い夜着を羽織っていた。淡い藤色の帯飾りが、細い腰元を静かに彩っている。
なんか……気まずい。
「茜ちゃん……別々の部屋のほうがよくないか?」
「……」
茜ちゃんは俺を横目で見て、布団を更に近づける。
彼女は何も言わず、部屋の灯りを消して、先に布団に潜りこんだ。
仕方ない……。
俺も隣の布団に潜り込んだ。
互いに何も喋らず、外には雨音だけが響いていた。




