57、 特別編3
シノンが初めて人を殺してから二年が経った。シノンは完全に心を閉ざしたままだった。
ロウ意外の人や物に、見向きもしなくなったのだ。ただ、森などの自然界の中では素のままの彼を見せてくれる。ただし、自分の他にはロウしかいない時にのみに限るが。
街ではロウが話しかけても最低限の返事しかしない。
ある日、シノンとロウはラトス皇国の大きな街を抜け、森の中に入った。しばらく歩いて行くが、ロウは、だんだんシノンの歩くスピードが落ちていることに気づく。
「おい、シノ――………」
ドサッ。
「おいっ!ばかっ」
ロウは後ろで倒れたシノンを抱え起こす。そして彼の額に手を触れた。
顔は赤く、汗もかいている。こんなになるまで黙っているのは、シノンらしいといえばらしかった。
歩き疲れても具合が悪くても何ひとつ文句を言わないのは、ロウには命を助けられたためにわがままが言えないからである。
そのためか、こうして熱が出ても、ロウが気づくまでシノンは何も言わないので、高熱で倒れることはよくある事なのだ。
シノンの息が少々荒い。意識はあるのかないのか、目はうっすらと開かれている。シノンは何も見えていないような目でロウを見つめていた。
シノンの頭をそっと撫でながら、ロウは呟くように言う。
「………まったく。こんなんになるまで我慢するなと何度言えばわかるのか………」
シノンを横抱きにしたまま、ロウはシノンを寝かせられるだけの場所を探しに歩き出した。辺りはそろそろ暗くなってきたので、今から街に戻るには完全に夜になってしまうからである。
「父、さん………?」
「寝ていろ」
「ご、めん…………」
「謝るな。お前の気持ちもわかる。だがな、我慢はしなくていい。俺はお前に恩を売ったつもりはないんだ。だから、遠慮しなくていい。お前はまだ子供だから、恩なんて気にしてたら、大人になってからが怖いからな」
シノンの腕は力なく脇へ投げ出されていた。声も掠れ声で、ハッキリとした声は出なかった。
ロウは、シノンとは本当の親子のように過ごしていたかった。シノンにはもっとわがままを言って欲しいし、遠慮をして欲しくなかった。
「こ、ここは………?」
「森の中だ。寝ていろと言っただろう」
「う、ん………………」
シノンはその深い青色の目を閉じ、寝息を立て始めた。そしてロウの胸に力なく頭をのせる。
ロウはそれを、慈愛に満ちた優しい笑顔で見つめる。
やがて、小さな岩屋を見つける。辺りはすっかり暗くなったので、ロウはそこに入ることにした。
一旦壁にシノンを座らせてから、寝具を取り出して端に設置。そしてシノンをそこに寝かせて汗を拭ってやる。
すると、シノンがわずかに声を出し、目を開ける。
「食欲はあるか?」
ロウが聞くと、シノンは首を横に振る。相変わらず息が荒く顔も赤い。とりあえずは服を脱がして別の服に着替えさせた。
おそらく今回は風邪ではないだろう。ここ二年間、シノンはストレスが溜まりすぎている。彼はストレスや不満、不機嫌や不快感などで体調を崩すことが多い。
人見知りで無愛想な所はあるが、繊細で心優しい純粋な子供だ。
そのため、今のシノンではちょっとしたことでもストレスに繋がりやすく、体調が崩れやすくなっていた。
今回の発熱の原因が風邪ではなくても、高熱で免疫力が下がり、風邪を引いてしまうかもしれない。
「…………まあ、少しでも食べておけ。今日は冷えるぞ」
するとシノンはゆっくり起き上がり、頭を抑えてふらつく。ロウが肩を持ってやり、シノンの体を支えた。多少咳が出ているようなので、ロウは暖かいスープを作った。
卵とワカメの入ったものだ。熱が出た時は卵が体に良いので、ロウは常に料理用の卵を持っていた。もちろんシノンのためである。
シノンは一杯飲んだだけで腹が膨れたようで、小さく欠伸をするとそのまま倒れ込むようにして眠ってしまった。
ロウはため息をつく。
どうすれば、シノンは心を開いてくれるのかわからない。この子は不思議だ、ロウはいつもそう思っている。
彼は本当に自分と居て良いのだろうか、幸せとまではいかないが、寂しくはないだろうか。そんな懸念が、ロウにはあった。
シノンは常に寂しそうである。記憶がないからか、それとも、また別の理由か。ただ、表情からは彼の気持ちは読み取りにくい。そもそも表情にあまり表さない。
そのせいで、無愛想なように思えるのだ。シノンの満面の笑みは少し微笑む程度。周りからはそう見える。だが本人は本気で笑えばそうなるのだ。
それが、今のロウの悩みである。あまりシノンのことについて他人に相談するのは気が進まないため、自分ひとりで解決せねばならない。
今も目の前で激しく咳き込みながら苦しんでいる姿を見るだけでも、心の臓を握られるような思いになる。
ロウは荷物の中からハプを取り出す。そしてすり潰し、湯で溶く。容器に入れて、シノンの項に手を入れて起こした。
「…………シノン、飲め。楽になるぞ」
「んん…………」
微かに声をあげた後、シノンはゆっくり目を開ける。しかし意識は朦朧としているようで、ロウが薬の入った容器を口もとに入れて傾けても、抵抗なくただ飲み込むだけだった。
苦味のある薬はまだ少しきついのか、シノンは顔を少々歪める。
だが抵抗する力もないのか、ただ飲み込むのみである。やがて容器の中身がなくなると、ロウはゆっくりシノンの頭を下ろす。
シノンは、呼吸が少し穏やかになり、表情も落ち着いたものになった。
やがて夜になり、外はぐっと冷えた。岩屋の中を冷やしたくないロウは、薪が切れないように一晩中シノンの看病と焚き火の管理に専念した。
呼吸困難はなくなったもの、やはりまだ高熱はあるため、汗が出る。こまめに吹いてやらないと風邪が悪化してしまうので、ロウは時々シノンの顔に浮いた汗を拭ってやっていた。
咳は薬を飲んだおかげでだいぶ治まっていた。熱はあってもシノンは、だいぶ楽になっただろう。
朝になっても、シノンは目を覚まさなかった。だが熱はだいぶ下がっており、今では微熱しかない。
昼にはシノンは目を覚まし、立ち上がっても問題はなかった。とりあえずは明日まで休ませるということで、今日は寝かせることにした。
スフィン王国の国境を越えて森を抜け、そしてチグアム王国とヘルガ皇国の国境にある森へとたどり着く。
ここまで、約八日。途中でレラン王国にいるギルド団長リアナから依頼を受けて、コペル王国へと向かう予定である。
ロウは、相も変わらずほとんど話さないシノンとともに、森の中でゆっくり過ごす。
タイムマ半島までのこの森の道は岩山や崖が多い。
だが、何年も旅をしてきているロウと同じくシノンの苦労するような所ではなかった。
「……………………父さん」
「ど、とうした?」
シノンからロウに話しかけることなどほとんどないため、ロウの返事はぎこちないものになった。しかもここは、もう船の上だ。
周りに人がいる場所では、たとえ宿のように隔離された場所でもシノンは話さなかった。
シノンも、ぎこちない返事か来るということはわかりきっていた。だからロウのその返事も気にしなかった。
「…………嫌な予感がする。七日間、だっけ」
「ああ、船旅の期間か?そうだな、七日間だ。嫌な予感がすると言ったか?」
シノンはこくりとうなずく。
「妙な動きの奴らがいる」
シノンは、沖の方向を向いた。ロウもそちらに目を向けてみるが、特に何もなかった。
「…………俺は、特に何も感じなかいが………お前が言うなら、用心しておこう」
シノンはロウを見上げ、うなずいた。
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海。それは、人の手を一切加えていない自然の芸術だ。森と同じである。
昼は光を反射しダイヤモンドのような輝きを見せ、夜は明るい街では見れない空の星々をその水面に反射する。月の出る夜には、まるで同じものが増えたかのように、美しく、そして儚い姿をそこに晒してくれる。
果てしなく続くその海は、まるでどこまでも続く空のようでもある。
気まぐれに、しかしみんな同じ方向に向かいながら動く波は空を漂う雲。天に昇ってゆく水蒸気は海に降り注ぐ雨。荒れ狂う波は嵐の折の雷。
そのようにすれば、空と海の共通点などはいくらでも見つかる。
そんなことを思いながら、シノンはじっと海を眺めていた。
そんな時、昼に助けたカルナが後ろから彼に歩み寄ってきた。シノンの隣に立ち、甲板の柵に寄りかかる。
「………………今日は、本当にありがとう。傷、大丈夫?」
カルナは頭巾を外していた。甲板には他に誰もいなかった。静かに、二人の白銀の髪が風に揺れていた。
船の魔動音と波の音だけが響き、カルナはシノンの返事をただ待っていた。
「……………ああ」
「そっか。でも、私のせいで、ごめんね」
カルナは安堵したような笑みを浮かべた。しかし、その笑顔はどこか嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
シノンはそんな彼女の笑顔を見て、思わず視線を逸らす。
「いや、違うよ。俺が、油断しただけ」
「…………そっか。ねえ、シノン君?」
「呼び捨てでいい」
「あ………うん。シノン」
シノンはカルナを見る。彼女は海の水面を見ていた。月の光に反射し輝いた髪を掻き上げて、静かに言った。
「シノンは、どこに住んでるの?」
「………………さあね」
「え?」
シノンは目を細めて、海の向こう側を見つめる。
「放浪してるだけだから」
「もしかして、君も旅をしているのか?」
「うん」
も、という単語にも、シノンは反応しなかった。基本、シノンは自分から他人の話に興味を持たない。
だが、今回カルナに自分が旅をしているという不用心なことを明かしたのは、警戒するまでもない相手であるからだった。
「そう、か………ふふっ」
「…………?」
なんだよ、と、シノンは顔で訴える。
「ああ、ごめんごめん。ただ、君と共通点ができたみたいで嬉しいなって…………」
「は…………?」
周りには聞こえないほどに小さな声で、シノンは疑問形の単語を声に出す。
だがカルナは満面の笑みだった。シノンの声は聞こえていないようで、その笑顔のまま海を見ている。
だれでも惚れてしまいそうな、優しい笑顔である。
もちろん、シノンも例外ではなかった。
カルナは今年で十三だ。そろそろ大人に近付いてきた歳である。他人に興味を持たないシノンとはいえど、同じくらいの女の子に惚れることはある。
しかしそれは、互いに淡いものにとどまってしまう。
数日間、こうして二人で話しているうちにシノンも打ち解け、会話が弾んだ。まるで、何年もの付き合いがある友人のように。
その間に、シノンにも笑顔が戻る。今まででもロウとは会話という会話ができなかった。だが、カルナと打ち解けたことで、普通の親子の会話ができるようになったのだ。
ただし、相変わらず他の者とはまったく話もしないし、そもそも興味を持たないのは言わずもがなである。
カルナとの別れは少し名残惜しいものがあったのだが、シノンは平静を装うしかなかった。
ロウとカルナの養父であるエジルは幼なじみだと言うので、また会えると、静かに期待しながら。




