失われた記憶
——————アイリス・ベアーテ 21 秋
目が覚めると、見覚えのない河にいた。知らない男の人に抱きかかえられている。男の人の心臓には、血濡れた剣が浮かび上がっていた。それを見た瞬間驚いた。あれは何なのだろう?
自分の名前はアイリス。それは微かに覚えている。しかし、それ以外のことは記憶に残っていない。
「……貴方は?」
そう尋ねると煌めくように美しい銀髪の男性は答えた。
「私はルシアンと申します。今貴方が崖から落ちたのを追ってきた所です。」
「ルシアン様。助けてくださったんですね。ありがとうございます。なぜだか記憶がなくて……」
「ルシアンでいいですよ。とりあえず、岸から上がりましょうか。」
私を抱きかかえたまま、親切に岸へと上がらせてくれた。この人はどうやら私の事を知っているようなので、聞いてみることにした。
「私のことを教えてくれませんか?」
「ええ、もちろんです。」
彼は、ハンカチで水に濡れた髪を拭いてくれた。
「貴方は、ベアーテ公爵のお嬢様であるアイリス様です。現在は、陛下とご結婚されこの国の皇后様となっています。」
「皇后!?私が!?」
「はい。しかし……」彼は悲痛な面持ちで、俯いた。
「望まむご結婚だったのです。皇后様も当時、それを嘆いていました。私と逃げようとしたこともあります。それは叶いませんでしたが.....」
駆け落ち?つまり私とこの男の人はそういう関係だったということ……?
「そうだったんですか。」
ルシアンと名乗る男の人とある人が重なる。忘れてはいけない大切な人。この人がそうなのかもしれない。
「ひとまず宮殿に戻りましょう。皇后様が記憶喪失になったなど、大変な問題ですから。」
私たちは宮殿に戻った。
戻ってすぐ、金髪の男性が駆けつけてきた。どこか見覚えがあるような気がする。
「アイリス、お前は一体、今までどこに行っていた?」
この人は誰だろう?この人もまた心臓に血濡れた剣が浮かび上がっている。チラッとルシアンの方を向き助けを求める。
「この方は、皇帝陛下です。」
皇帝陛下!?つまり私の結婚相手ってことよね?!
「なんの冗談だ。ルシアン、説明しろ」
「牢からは私が連れ出しました。あまりにも皇后様が苦しそうにしていましたので。行きたいところがあるというので、ついていくと忘却の清流でした。彼女は自ら飛び込み、記憶を消し去ってしまったのです。」
自ら飛び込む。それほど人生が苦しかったのだろうか。それに牢屋に入れられていたの?私は一体どんな扱いを受けてきたんだろう。
「つまり、余を覚えていないと?」
「ええ、自分の名前などはかすかに覚えているようですが、それ以外の記憶が一切ないそうです。」
それを聞いた皇帝と呼ばれる方はすごくショックを受けたような表情をしていた。
「ふざけるな、ルシアン。お前、アーサーを懐柔したた罪で今すぐ処刑してもいいんだぞ?」
「陛下。私を処刑したらこの国の人間がどうなるかご存知でしょう」
「はっ。言うようになったものだ。」
険悪な雰囲気がこの場を包んでいた。ルシアンは私を助けてくれたのに処刑されるなんてそんなのは駄目……!
「ルシアンは私を助けてくださいました。なのでどうか、殺さないでください。」
そう言うと、皇帝陛下は怒ったようにその場を去ってしまった。ルシアンから後に、彼は暴君であり、無闇やたらに人を殺す残酷な人間なのだと聞いた。
私は、なんて恐ろしい人間と結婚してしまったのだろうと、忘却の清流という河に身を投げてしまった自分の気持ちが分かった気がした。




