忘却の清流
————————ルシアン・トリスタン 20 秋
皇后様が囚われている間、私は頻繁に皇后様に会いに行った。アーサーは既に私の手の内にある。アーサーには毎日、それらしい報告を皇帝にさせた。
「皇后様。ここから出られる方法を私も探しています。もう少しの辛抱です。お辛いと思いますが、もう少しだけ持ち堪えてください。」
「ありがとうございます。ルシアン殿下。レオンはここ数日間、会いに来る様子もない。私は既に見限られてしまったのかもしれません。」
「そんな事はないとは思います。ですが、万が一、そんな事があっても、私が貴方を助けます。」
そう、そして私が皇后様にとっての白馬の王子様になる。ピンチの時に救ってくれた王子様。そうすれば、私に気持ちが傾く可能性もゼロではないだろう。それを利用する。愛する人間が他の男に気持ちが傾いたと知れば、皇帝は酷く傷つくだろう。
.......。どうしてだろうか。最初はただ、全てを取り返したかった。それだけだったはずだ。なのに今や皇帝にどう打撃を与えてやろうかと考えている。
いつの間にか失ったものを取り返そうという目的が、復讐という黒い感情に呑まれてしまった。
「優しいのね、貴方は。」
この人は知らない。私がどんな陰謀を抱えこんな事をしているかを。なんと、騙されやすい人間なのか。
「私は優しい人間などではありません。」
「いいえ。私には分かります。目を見れば分かるのですよ。」
皇后様は穏やかに微笑んだ。
「それで、私が心優しい人間だと?」
「ええ。そうです。」
私が?全く、笑えるものだ。見当違いにも程がある。
しかし、私は優しい笑みを浮かべた。完璧に計算された笑み。
「そうですか。それなら良かったです。」
皇后様とは数週間、毎日のように話をした。
他愛のない話を沢山した。ただ皇后様の口から出てくる話は皇帝の事ばかりで、なんだか腹が立った。
どう足掻いても、この人は皇帝を愛しているのだと、身に染みるように分かったからだ。
「それでね、レオンは拗ねて1日寝室に閉じこもっていたのよ。全く子供みたいで笑えるでしょう?」
「それはそれは。全く想像がつきませんね。」
彼女から聞く皇帝の話は、自分が想像している人物像とは大きく異なっていた。
無邪気、甘えん坊、ワガママ。大型犬のような性格だ。それは恐らく、彼女にしか見せない一面なのだろう。
だとしたらやはり、彼女は使える。皇帝を倒すために必要な重要なピースだ。
それから、だんだんと皇后様は落ち込んでいった。既に長い時が経過している。無理もない。
「やはりレオンは、もう私を見限ってしまったのでしょうか」
「もうここにいらしてはおかしくない程日数が経っていますもんね。」私は、肩を竦めてそういった。彼女の不安を煽るように。
「そうですわよね。あの日から一体何日が過ぎ去ってしまったのでしょう。」
彼女は絶望していた。
しかし次の日も、彼女の気持ちが傾く事はなかった。
「レオンは今何をしているのかしら。会いたいわ。」
「そんなに陛下に会いたいですか。貴方を牢に閉じ込めたと言うのに。」
「ええ。それは誤解あってのことですから。レオンは昔から頭に血が昇ると行動が行き過ぎてしまうことがあるんです。でも、きっと分かってくれる。そう信じているんです。」
寛大だった。言葉や仕草から、母性のようなものも感じた。しかしそういう彼女の表情は、とても苦しそうだった。
ただ、皇帝が羨ましかった。こんなに暖かい人に愛されている。本来なら私の妃になるはずだった彼女。もしも皇帝があの人ではなくわたしだったら、彼女が思う人は私であっただろうか。
その時、私はあることを思いついた。"忘却の清流"
その名の通り、その川には人の記憶を忘れさせる力がある。その身を水に委ね、口から水を取り込んだ者は記憶を一切失くしてしまうのだという。
どれほど大切だった人も。どれほど幸せだった日々も。どれほど忘れたくなかった記憶でさえも忘れてしまう。だから人々は、この川を恐れた。
私は思う。記憶とは、なんと残酷なものなのだろう、と。忘れてしまえば、苦しまずに済む。けれど同時に、愛したことも無かったことになってしまう。
すべてを忘れてしまったほうが、幸せなのだろうか。私には、分からない。ただ1つ分かっているのは。
この川は、失ったものを2度と取り戻してはくれないということだ。
私は、アーサーの力を借り、牢の扉を開けた。
「ルシアン殿下、一体どうやって....!」
皇后様は驚いたように目を見開いた。
「詳しい事はまた後で話しましょう。それよりも....」
「少し眠ってもらいます、皇后様」
皇后様を気絶させ、忘却の清流へと足を運んだ。
忘却の清流は、鏡のように透き通っていて、綺麗な藍色だった。 息をのむほどに、美しかった。彼女を横抱きにし、清流へと足を進めていく。ゆっくり、慎重に。
そして、彼女に水を飲ませる前に、彼女の唇にキスを落とした。触れた瞬間胸が痛くなる。何故こんな事をしたのだろう。
これからする事は、多分苦しんでいる彼女を解放してあげたいからするのではない。皇帝に打撃を与える為でもない。それはただの建前だった。もっと自分勝手な理由だ。私は慎重に水を手で掬い彼女に飲ませた。
飲ませてしまった。もう取り返しがつかない。しかし、これでいい。これできっと全て上手くいくはずだ。
暫くして彼女が目を覚ます。
「……?貴方は?」




