剥がれる仮面
残り六十日。焦りはあったが手応えもあった。
アルベルトは確実に変わり始めている。
以前のような無関心は消えた。私が何を言うのか。何を知っているのか。
最近では、こちらを警戒しているようだった。
◇◇◇
次の婚約者交流の日。私は少しだけ足を止めた。
アルベルトが先に来ていたからだ。
いつもならあり得ない。私が席に近付くと、アルベルトは手元の書類から顔を上げた。
「珍しいですわね」
「何がだ」
「待たされなかったので」
一瞬だけ沈黙が落ちる。アルベルトの眉がぴくりと動いた。
「いちいち覚えているのか」
「覚えておりますわ」
私は微笑んだ。
「仮とはいえ、婚約者ですもの」
私は何気ない口調で答える。
「何十分待ったかも」
「……」
「どのお茶会に来なかったかも」
「レティシア」
「どの夜会で置いていかれたかも」
アルベルトの顔が険しくなる。
「忘れていると思われていたのですか?」
アルベルトが視線を逸らした。
「どうした」
アルベルトが低く言う。
「何がでしょう」
「最近のお前は妙だ」
私は思わず笑いそうになった。
「そうでしょうか」
「残念ですわ」
「何がだ」
「殿下には私が変わったように見えるのですね」
アルベルトが眉をひそめる。
「意味が分からん」
「私は昔から同じです」
カップを持ち上げる。
「言えなかったことを言うようになっただけで」
「……」
「それを変わったとおっしゃるなら」
私は小さく首を傾げた。
「殿下は今まで私をご覧になっていなかったのでしょうね」
空気が凍る。
「勝手なことを言うな」
即座に返ってきた。ここまで早く反応したのは初めてだった。
「違いましたか?」
「私はお前を」
アルベルトが言葉を切る。続きが出てこない。
「見ていた、と仰りたいのですか?」
私は静かに問い返した。
「では私の好きな花は何ですか」
「……」
「好きな本は」
「……」
「好きな色は」
「……」
答えはない。
「ほら」
私は笑った。
「やはりご存じない」
「レティシア」
低い声だった。怒りを押し殺した声。
「殿下は私を見ていたのではありません」
アルベルトの目が細くなる。
「見ているつもりだっただけです」
「黙れ」
短い言葉だったが、今まで聞いたどの声よりも冷たかった。
私は思わず笑った。図星なのだ。もし違うなら、好きな花の一つくらい答えられたはずなのだから。
その日の茶会は、それ以上続かなかった。
アルベルトは不機嫌そうに書類へ視線を落とし。
私は静かに紅茶を飲んだ。会話はない。だが沈黙だけで十分だった。
以前とは違う。あの男は確実に怒っている。
◇◇◇
残り四十五日。
◇◇◇
王城で若い貴族達を集めた見学会が開かれていた。
次代の貴族達へ行政や政務を学ばせるための行事だ。
当然、王太子であるアルベルトも参加している。
私は少し離れた場所から様子を眺めていた。
「素晴らしいご説明でした」
「勉強になりました」
「ありがとうございました」
見学会が終わると、令息達が順番にアルベルトへ挨拶していく。
皆、礼儀正しい。模範的な振る舞いだ。
だが、アルベルトが背を向けた瞬間だった。
「はぁ……」
一人の令息が大きく息を吐いた。肩から力が抜けている。隣にいた令息も苦笑した。
「緊張したな」
「怒られるかと思った」
二人は小声で話しながら去っていく。
楽しそうな会話ではなかった。解放された人間の会話だった。
私はその様子を見送ってからアルベルトへ近付いた。
「殿下」
アルベルトがこちらを見る。
「何だ」
「本当に立派でしたわ」
一瞬だけ怪訝そうな顔になる。
「今度は何だ」
「皆様から一目置かれていらっしゃる」
「当然だ」
私は頷いた。
「怖がられるほどに」
空気が止まった。
「何だと」
低い声だった。私は首を傾げる。
「失礼でしたか?」
「誰が怖がっている」
「先ほどの令息様達です」
「緊張していただけだ」
「そうでしょうか」
私は微笑んだ。
「私には怯えているように見えました」
アルベルトの目が細くなる。
「言葉を選べ」
「申し訳ありません」
素直に謝る。だが、もちろんそこで終わらない。
「ですが安心しました」
「何?」
「昔から変わっていらっしゃらないようでしたので」
アルベルトの表情が固まった。
「何が言いたい」
私は首を傾げる。
「ただ」
一歩だけ踏み込む。
「殿下は昔から、人を従わせるのがお上手だと思っただけです」
冷たい風が吹き抜けた。
「……黙れ」
短い言葉だったが怒気は隠せていない。以前なら笑って流していたはずだ。
それが今では反射的に否定する。
私はそれ以上何も言わなかった。続ける必要がなかったからだ。
アルベルトは私を睨んでいる。
◇◇◇
残り三十日。婚約者交流の日。
最近のアルベルトは分かりやすかった。私が話しかけるだけで機嫌が悪くなる。
「殿下」
「何だ」
「前から不思議だったのです」
アルベルトが露骨に顔をしかめた。
「なぜ私と仮婚約したのですか」
「王家が決めたことだ」
「なるほど」
私は頷く。
「では私である必要はなかったのですね」
空気が止まった。
「何だと」
「公爵家の娘で」
「白虎獣人で」
「十分な魔力を持っていれば」
私は微笑んだ。
「誰でも良かった」
「違いますか?」
アルベルトは答えない。
「それ以上言うな」
低い声だった。否定ではない。制止だった。
私は思わず笑った。ようやく見えてきた。あの男が本当に触れられたくない場所が。
◇◇◇
残り十日。期限が近付くほど、焦りは強くなっていた。
アルベルトは間違いなく怒っている。だが、まだ足りない。
あの男は昔から自制心だけは強かった。
王太子として、自分を取り繕うことに慣れている。
その日の夜会で、私は会場の隅で果実酒を口にしていた。
ほどなくしてアルベルトがこちらへ歩いてくる。
最近では珍しくもなくなった。以前なら、私を見つけても近寄ることなどなかったのだから。
「また一人か」
声を掛けたのはアルベルトの方だった。
「殿下こそ」
「令嬢達の相手に疲れただけだ」
「そうですか」
短い沈黙。アルベルトは私の隣に立ったまま動かない。
何かを警戒しているようだった。あるいは、私が何を言うのか待っているのかもしれない。
「殿下」
「何だ」
「昔から不思議でした」
アルベルトの眉が寄る。
もう慣れた反応だった。
「またそれか」
私は微笑む。
「殿下はずっと、ないものばかり見ていらっしゃる」
「何の話だ」
私は肩をすくめる。
「ただ昔からそうでしたでしょう?」
「意味が分からん」
「そうですか」
私は窓の外へ視線を向けた。
「私は羨ましかったですわ」
「何がだ」
「殿下には欲しいものがたくさんあって」
アルベルトの目が細くなる。
「お前は何が言いたい」
「兄君がお優秀だから努力する」
「……」
「弟君がお優秀だから努力する」
「やめろ」
初めてだった。名前すら出していないのに止められたのは。
私がどこを刺そうとしているのかわかっているのだ。
「私は褒めておりますのに」
「レティシア」
「殿下は本当に努力家ですもの」
少しだけ笑みを深める。
「足りないものを埋めるために」
アルベルトの表情から色が消えた。
「黙れ」
「違いますか?」
「黙れと言っている」
低い声。周囲には聞こえない。だが怒気は隠し切れていない。
「申し訳ありません」
私は素直に謝った。そして、最後にもう一つだけ言う。
「でも安心ですね」
アルベルトがこちらを見る。
「何がだ」
「もうすぐ成人ですもの」
「……」
「殿下がお望みのものも、きっと見つかりますわ」
沈黙。アルベルトの拳が握られ、背を向けた。
私はその背中を見送る。
今のは効いた。兄や弟の話ではない。魔力とも言っていない。
それでも、あの男は理解した。自分が何を欲しているのか、私が気付いていることを。
もう後はない。次で終わりだ。
アルベルトの誕生日。
最後の夜会。
そこで全てを終わらせる。




