静かな毒
残り九十日。長いようで短い。
何もしなければ、あっという間に終わる時間だった。
私は予定表を閉じた。
婚約者交流の茶会。王家主催の見学会。夜会。これまでは義務として参加していたものばかりだ。
だが今は違う。
私はアルベルトを怒らせなければならない。
◇◇◇
最初の機会は婚約者交流の茶会だった。
約束の時間を三十分過ぎてから、ようやくアルベルトが現れる。
「待たせたな」
「いいえ」
実際はよくないが、今さら文句を言う気もなかった。
どうせまた令嬢達と話していたのだろう。
しばらく当たり障りのない会話が続く。
領地の話や公務の話。だがアルベルトは上の空だった。
私の話に興味がないことなど知っている。
「殿下は本当に努力家ですわね」
不意に言うと、アルベルトが顔を上げた。
「急だな」
「そうでしょうか」
私は微笑む。
「昔から誰よりも努力していらっしゃいましたもの」
アルベルトが満更でもなさそうに頷く。
だから続ける。
「王太子であり続けるために」
カップを持つ手が一瞬だけ止まった。
「当然の話だ」
声音が少し硬い。私はそこで話を切った。最初はこれでいい。
◇◇◇
数日後。王家主催の見学会で若い貴族達が王太子を囲んでいた。
「殿下は本当に立派なお方です」
「私もそう思いますわ」
私が口を挟むと、アルベルトがこちらを見た。
「誰よりも諦めない方ですもの」
周囲が頷く。称賛にしか聞こえない。
「兄君や弟君がどれほど優秀でも」
「決して逃げなかった」
アルベルトの口元から笑みが消えた。
「レティシア」
低い声だった。
「何でしょう」
「話題を選べ」
「褒めておりますのに?」
私は不思議そうに瞬いた。周囲も同じ顔をしていた。
だからアルベルトは何も言えない。言えば、自分で認めることになるから。
◇◇◇
ある夜会の日。ファーストダンスを終えると、アルベルトはすぐに令嬢達の輪へ向かった。
いつものことだ。私はその後ろを追う。
「殿下」
「何だ」
「皆様から慕われていらっしゃいますわね」
「当然だ」
即答だった。私は笑みを深めた。
「本当にお上手ですもの」
「何がだ」
「人に好かれるのが」
そこで言葉を切る。アルベルトの視線が鋭くなる。
「特に」
私はゆっくり続けた。
「人の見ている場所では」
令嬢達は意味が分からず首を傾げている。だがアルベルトは違う。
警戒の色が見えた。
私は会釈すると、背中に突き刺さる視線を感じながらその場を離れた。
◇◇◇
それから一か月近く、婚約者交流のたびに私は言葉を重ねた。
すると、婚約者交流はさらに味気ないものになった。
遅刻は増えた。会話は減った。目も合わせない。アルベルトの機嫌は目に見えて悪くなっていった。
そしてそれは、私にとって良い兆候だった。
◇◇◇
ある時、庭園で呼び止められた。
「レティシア」
その声だけで分かった。
怒っている。
「何でしょう」
「最近何がしたい」
「何の話です?」
「とぼけるな」
短い言葉だった。だが以前より明らかに余裕がない。
「私は事実を話しているだけですわ」
「事実?」
「違いますか?」
アルベルトは黙る。私はそこで最後の一押しをした。
「殿下はお強い方ですもの」
「当然だ」
「ええ」
私は頷いた。
「自分より弱い方には特に」
今までとは比べ物にならないほどに空気が変わった。
「……何のことだ」
「覚えておりませんか?」
「……」
「私は覚えておりますわ」
十歳の時に、私を壁へ押しつけた時と同じ目だった。
「お前は」
そこでアルベルトは言葉を切った。拳が白くなるほど強く握られている。
沈黙が続くが、手は出なかった。
この男は間違いなく怒っている。
しかも今までとは違う。私を不快な相手ではなく、自分を脅かす存在として認識し始めている。
残り六十日。
まだ足りないが、確実に近付いている。
ならば次はもっと深く刺そう。仮面の奥に隠された本性へ。それを人前に引きずりだすために。
私は静かに庭園を後にした。




