番
私には理想の夫婦がいる。
父と母だ。白虎獣人のヴァルハルト公爵と、公爵夫人である母。
二人は番だ。
朝食も一緒。昼の茶会も一緒。夜会でも気付けば寄り添っている。
結婚して二十年以上経つというのに、娘としては少々恥ずかしいくらい、今でも仲が良い。
番とは本来そういうものなのだろうと思っていた。
互いを大切にし、支え合う、誰よりも信頼できる相手。
唯一無二の伴侶。
だから私もいつか。そんな相手に出会うのだと思っていた。
今日までは。
◇◇◇
「……最悪だわ」
春の夜会の王城の大広間で私は呟いた。
私の名前はレティシア・ヴァルハルト。
白虎獣人の公爵令嬢。数日前に、十六歳になった。
獣人の女性は一六歳で成人し、番を感知できるようになる。
番。
獣人にとって唯一無二の存在で、魔力を分かち合い、強く惹かれ合う。
子どもにも恵まれやすくなる特別な相手。
多くの獣人が憧れる運命の相手。
それが番だ。そして私の番は。
あそこにいた。
金髪。青い瞳。整った容姿。誰もが振り返る華やかな存在感。
王太子アルベルト・レオハルト。
私の幼馴染。そして、現在の仮婚約者。
獣人には番が存在する。
だから高位貴族同士の婚約では、正式な婚姻前に仮婚約という形を取ることが珍しくない。
番が見つかれば婚約は解消。見つからなければそのまま結婚。
私とアルベルトもそうだった。
私が十二歳、アルベルトが十三歳の時に王家と公爵家の思惑が一致した結果で仮婚約が結ばれた。
理由は明白だった。
公爵家、白虎獣人、そして魔力。
王国でも有数と呼ばれる私の魔力量は、王太子妃候補としては申し分ない。
アルベルトは、世間では人気がある。
容姿端麗で、成績優秀。剣の腕も悪くない。
そして、次期国王。令嬢達の憧れの的でもある。
実際、努力もしている。
王太子として評価されるための努力を。
理想の王子として振る舞うための努力を。
だからこそ厄介だった。
私はあの男の本性を知っている。
アルベルトには兄と弟がいる。どちらも本来なら王位継承権は低い側妃の子だ。
だが能力だけを見れば違った。兄も弟も魔力がアルベルトよりずっと高い。
その事実をアルベルトは昔から気にしていた。
『正妃の子だから王太子になれた』
そんな陰口を聞いたこともある。
もちろん本人の前では誰も言わない。だが本人は知っている。
だから彼は完璧な王太子を演じ続ける。
誰にも弱みを見せないために。
誰にも見下されないために。
そして、アルベルトは私のことが嫌いなのだと思う。
正確に言うと、私自身というよりも私が持っている魔力をおそらく嫌っている。
◇◇◇
七歳の頃。
『レティシア様は本当に素晴らしい魔力量ですな』
『将来は公爵様以上かもしれません』
アルベルトが横にいるときに、大人達はよくそう言った。
兄や弟と比べられ続ける王太子。そして褒められる私。
今なら分かるが、あれはきっと面白くなかったのだろう。
仮婚約してからも婚約者とのお茶会より令嬢との談笑を優先した。
夜会では、最初こそエスコートするが、ファーストダンスが終わればいつの間にか他の令嬢を腕にぶら下げている。しかも毎回違う令嬢。
私との約束の時間を平気で遅らせるし、私の話には興味を示さない。
研究の話をすれば話題を変え、魔力の話になれば機嫌が悪くなる。
褒められている私を見れば不機嫌になる。
周囲もなんとなく気付き始めて、少しずつ空気が変わっていった
『殿下はレティシア様にあまりご興味がないのでは?』
『婚約は王家の都合でしょう?』
『仮婚約ですもの。すぐに終わるかもしれませんわね』
そんな噂を耳にすることも増えた。
アルベルトは私を見ていない。見ているのは公爵家であることや、魔力が高いことなどの王太子妃候補としての価値だ。
少なくとも私はそう感じていた。
しかも問題はそれだけではない。
アルベルトは暴力を躾だと思っている。
もちろん人前では見せない。優しく、寛大で、理想的な王子を演じている。
だから皆騙される。
だが私は知っている。見てしまったからだ。
◇◇◇
八歳の頃だった。
王城の庭園で偶然その場面を見てしまった。
側近候補の少年がアルベルトの前に立っていた。
少年は顔を青くしている。
何か失敗をしたのだろう。
『申し訳ありません』
少年は深く頭を下げた。
『申し訳ありませんじゃない』
アルベルトは冷たく言った。
『同じ失敗を何度繰り返すつもりだ』
『ですが……』
『言い訳をするな』
次の瞬間だった。アルベルトは少年を地面へ突き飛ばす。
少年は尻もちをついた。
目には涙が浮かんでいた。
その時、遠くから大人達の声が聞こえた。
するとアルベルトは一瞬で表情を変え、少年へ手を差し伸べる。
『怪我はないか?』
さっきまでの冷たさが嘘のように優しい声だった。
『転んでしまったようですね』
大人達は感心していた。
『なんとお優しい王太子殿下だ』
誰も疑わなかった。
だが私は見ていた。
転ばせたのも、怯えさせたのもアルベルトだった。
それを少しも悪いことだと思っていなかった。
◇◇◇
十歳の時に、私も一度だけ怒らせたことがある。
あの日も側近候補の一人が些細な失敗で叱責されているところをたまたま目撃した。
怯える少年を見ているうちに、私も黙っていられなくなった。
『殿下』
アルベルトが振り返る。
私は少年の前へ一歩進み出た。
『やり過ぎではありませんか』
アルベルトは少しだけ目を細めた。
『何がだ』
『失敗を責めても意味はないと思います』
『意味はある』
『恐怖で従わせても、信頼は得られません』
その瞬間だった。
『下がれ』
声の温度が消え、冷たい声だった。
『嫌です』
私は首を横に振った。
『私は殿下のお考えには賛同できません』
数秒の沈黙のあと、それまで無表情だったアルベルトが笑った。
だが目だけは笑っていない。
『立場をわきまえろ』
その場では何も起きなかった。
だから終わったのだと思っていた。
だが違った。
帰り道に、人気のない回廊で呼び止められた。
『レティシア』
振り返るとアルベルトがいた。
『お前は勘違いしている』
『何を?』
アルベルトはゆっくり歩み寄り、私の腕を掴んだ。
痛かった。
反射的に顔をしかめる。
だがアルベルトは手を離さなず、むしろ少しずつ力を強めていく。
『離してください』
『黙れ』
低い声だった。背筋が冷える。
『お前は自分の立場を理解していない』
『立場?』
『人前で私に反論するな』
さらに腕が痛む。
『覚えておけ』
アルベルトは言った。
『余計なことを言うたびに、お前自身が損をする』
怒鳴りもしていない、静かな口調だったが、怖かった。
『私は間違ったことは言っていません』
そう返した瞬間、アルベルトは私を壁へ押しつけた。
肩が硬い石にぶつかり、痛みが走った。
『正しいかどうかは関係ない』
青い瞳が私を見下ろしている。
『上に立つ人間に逆らうな』
『それが殿下のお考えですか』
『そうだ』
『わかったか』
私は答えなかった。
その時、遠くから侍女の声が聞こえた。
『レティシア様!』
途端にアルベルトの表情が変わる。優しい王子の顔に。
『探していたぞ』
まるで何事もなかったかのように微笑む。
私は何も言えなかった。言っても信じてもらえないと思ったからだ。
◇◇◇
あの時初めて理解した。
アルベルトは怒ると手が出る。
しかも、それを悪いことだと思っていない。
教育だから、躾だから、相手のためだから、とそう本気で信じているようだ。
だから怖かった。
感情的に暴れる人間よりも、自分が正しいと信じている人間の方が。
だから春の夜会の大広間で、番だと知った瞬間、真っ先に思った。
終わった、と。もし番になれば、私はもう逃げられない。
今ですら婚約者という立場で軽んじられているのだ。
番になればどうなる。
問題は感情だけではなかった。
番同士は魔力を共有する。表向きにはそう説明されている。
互いの魔力が循環し、補い合うのだと。
だが実際は少し違う。
魔力は多い方から少ない方へ流れる。
もちろん一方的ではないが、流れる量は決して平等ではない。
私は王国でも有数の魔力保持者だ。父を超えるかもしれないとも言われている。
一方でアルベルトの魔力は王族としては少ない。兄にも、弟にも、届かない。
それこそがあの男の最大の劣等感だった。
だから分かる。もし私達が番になれば、彼が望もうと望むまいと、私の魔力はアルベルトへ流れる。
きっと周囲はそれを歓迎する。王太子の不足した魔力を補う理想的な番だと。王家はなおさらだろう。
そうして私は、生涯、与える側になる。
それは夫婦として支え合うことなのかもしれない。愛し合う番なら喜んで差し出すのかもしれない。
だが、私には無理だ。私を見ようともしない、婚約者である私より他の令嬢を優先する男に。
私自身ではなく、公爵家と魔力にしか価値を見出していない男に。
一生魔力を与え続けるなど。
絶対に嫌だった。
だが、まだ何もかも終わったわけではない。
番が確定したからといって、今すぐ結婚させられるわけではない。
アルベルトはまだ十七歳だ。獣人の男性が成人するのは十八歳だ。アルベルトの成人まであと三か月。
つまり、現時点で番を知っているのは私だけ。
そして、私には一つだけ切り札があった。
番救済制度。
獣人なら誰もが知る制度だ。
番による虐待や支配から被害者を守るための法律。
条件はいずれか。
双方の合意、あるいは、番から致死級の暴力を受けること。
双方合意はあり得ない。
王家が私を手放すはずがない。まして私の魔力量が知られればなおさらだ。
残された道は一つだけ。
私は静かに息を吐いた。
視線の先ではアルベルトが令嬢達に囲まれている。
完璧な王太子の笑顔で、誰もが憧れる王子として。
だが私は本当の姿を、その本性を知っている。
アルベルトは怒ると手を出す。しかも感情に任せてではない。
自分が正しいと信じたまま。
教育だから、躾だから、相手のためだからと言って他人を傷付けられる人間だ。
だから確信していた。
あの男は追い込まれれば必ず手を出す。
昔からそうだったように。
残り九十日。
アルベルトを怒らせる。
仮面を剥がす。
暴力を引き出す。
そして、番を解消する。
私は拳を握った。
自由でいるために、生き残るために、そしてあの男の番にならないために。
絶対に失敗できない。




