第30話 憤怒と悲哀
男は顎にそっと手を当てた。
「今は悪魔化現象と呼ばれているのか」
ソルに質問を投げかけた。
「体調はどうかな? 喉が渇いているのなら水を用意するが」
「喉が渇いているし、頭がくらくらして気持ち悪い。この手足の拘束も外してほしい」
「わかった。水を用意するので、少し待ってほしい」
男はその場を立ち去り、ソルは岩肌の地面に頭を当てた。
男は水入れを持って戻ってきた。
閂板を外して出入口を開け、中に入る。
「ゆっくりと飲むんだ」
ソルは喉を潤した。
男はソルの口から飲み口を離し、手足の拘束をナイフで切った。
ソルは起き上がれないほど衰弱していた。
「不死といっても体調を崩す。キミは何も変わっていない。食事を用意しよう」
「マーニも生きているのか」
「同行していた少女については、キミの体力が回復してから話すよ。ここから出してあげることはできないが、可能な限り、キミの要望に応えるよ」
男は出入口を開けたまま出ていった。
だが、ソルに起き上がるだけの体力は残っていなかった。
男は料理を載せた木の器を持って戻ってきた。
「キミの口には合わないかもしれないが、我慢してほしい。危険なものは入っていない。キミが口にしても死ぬことはないからね」
ソルは顔を顰めたが、強引に食べさせられた。
「今のキミに必要なものは休息だ。排泄物は、奥に置いた入れ物で済ませてくれると助かるよ」
男は出入口を閉め、閂板を嵌めて立ち去った。
ソルは気絶するように眠りについた。
ソルは目を覚ました瞬間、吐しゃ物を撒き散らした。
ふらつきながら立ち上がり、格子へ近寄って声を絞り出した。
「誰かいないのか。喉が渇いた。水をくれないか」
しばらくして足音が聞こえ、男が水入れを持ってやってきた。
ソルに水入れを手渡し、吐しゃ物を一瞥した。
「やはり口に合わなかったか。だが、内臓が回復しているようで安心したよ」
ソルは水で喉を潤し、男に尋ねた。
「まだ話してくれないのか?」
「顔色も良くなっている」
男は中に入り、出入口を塞ぐように立った。
「それでは話すとしよう」
男は咳払いをひとつした。
「同行していた少女についてだったね。彼女は亡くなったよ」
ソルは歯を食いしばった。
「あの女のせいだ。殺してやる!」
「それを命じたのが僕だ」
次の瞬間、ソルは男の顔面を殴りつけた。
男は尻もちをついた。しかし、ソルから目を逸らさなかった。
「マーニが、あいつが一体何をしたって言うんだよ!」
ソルは男の胸倉を掴み、顔面を何度も殴りつけた。
——ソルは違和感を覚えた。
殴りつけるたびに傷が癒える。
男は抵抗もせず、ひたすらソルを見つめ返している。
ソルは殴るのをやめ、後退りした。
男は起き上がり、折れた歯を吐き捨てた。
「僕もキミと同じく死に拒絶された。一つだけ違う点は、どれだけ痛めつけられようと傷が癒えてしまう」
男はナイフを取り出し、自らの左手に突き刺し、傷口を広げてからナイフを抜いた。
流れ落ちた血液が逆流するように戻り、傷口が跡形もなく塞がった。
「もう300年近く生きている不老不死だ。ヴェラの民からは神の使いと呼ばれているが、そんな大それたものではない。ごく普通の家庭に生まれ、人と同じように育てられた。キミと同じように、気づけば不死になっていた」
ソルは手を振り払った。
「それとマーニの死にどういう関係がある!」
「不死を見分けることはできない。だから、殺すよう命じた。キミたちを保護するために」
「保護だと……ふざけるな!」
「今のキミからすればそう思うのも無理はない」
男は冷たい口調で言った。
「だが、不死になった者の末路を知っているのか」
「末路だと……?」
男は息を吐いた。
「あれはいつだったかもう忘れたが、僕は事故に遭い、それを見ていた者たちは死んだと思ったんだ。僕自身も死を覚悟していた。だが、生きていた。それから迫害を受けるようになった。
それが僕一人ならまだよかった。だが、家族にまで被害が及んだ。僕たち一家は疲れ果て、死に場所を求めていた。
そんな時に、魔王ネクロヴァルと出会い、彼に保護された。彼は不老の魔法を提案した。僕は彼の提案を受け入れた。不死になった者が、僕と同じ目に遭わないようにするために」
ソルは歯を食いしばり、拳を握り締めた。
「だからってこんなこと許されるのかよ!」
男はソルに冷たい眼差しを向けた。
「それでは、見て見ぬふりをすればよかったというのか」
ソルは言い返すことができなかった。
「僕は歴史の真実を知ってしまった。この選択が正しいと思い、行動を移した」
男はソルの目をまっすぐ見つめた。
「僕は彼と盟約を交わした。僕たち一家は、このヴェラの森に集落を作った。
だが、子どもたちに罪はない。子どもを作るなと言えなかった。近親交配にも限界を感じ、森に足を踏み入れた旅人を攫ったことがあった。僕と違い、彼らには寿命がある。彼らは生きるのに必死だった。だが、我々も被害を受けた。
誘拐、強姦、暴行、殺人——だから僕は族長になり、言語体系を変え、ヴェラの民と名乗り、掟を作り、外部との干渉を極力避けた」
族長は両手を広げた。
「家族を失う痛みは理解している。キミの気が済むまで僕を殴ってくれて構わない。ナイフで突き刺しても構わない。どれだけ謝罪しても、あの少女は蘇らない」
ソルは膝から崩れ落ちた。
族長は上着の内側から手帳を取り出し、ソルの目の前に置いた。
血痕が付着した手帳は、マーニのものだった。
「これは、キミが手に持っていた手帳だよ。中を確認させてもらった。これを読んだ上で決断してほしい」
族長は一拍置いた。
「不老不死として永劫の時を生きるのか、すべての記憶を消して理性を失った怪物になるのか」
腰を下ろし、ソルを見据えた。
ソルは手帳を手に取り、ページをめくった。




