調整役
翌日の放課後。雷翔と月詠は大橋から渡された資料を持って、文化祭予算の聞き取りを始めた。名目上は、不満を抱えている各部の話を聞き、執行部案を前提に落としどころを探すための調整役である。少なくとも、大橋はそういう仕事を一年生二人に任せたつもりでいる。
雷翔にも、最初から結論を決めるつもりはなかった。月詠が予算会議で感じた違和感が本物なのか。軽音部と写真部には本当に増額に値する事情があるのか。吹奏楽部と演劇部の削減は妥当なのか。全部見てから判断すればいい。問題があるとすれば、調べる対象が四部もあることだった。
「普通に多いな」
資料をめくりながら雷翔が呟く。
「自分からやるって言ったんでしょ」
「そこを言われると何も言えない」
月詠は少し笑った。最初に訪ねたのは吹奏楽部だった。前年五十万円から三十五万円へ、十五万円の削減。部長の三原は、申請書といくつかの見積書を机へ並べた。
「十五万全部戻せとは言わないんだよ」
古い楽器の写真を指しながら言う。
「来年まで持ちそうなのもある。でも、この辺は文化祭まで使うし、途中で壊れたら代わりがない。十万あれば危ないものから直せる」
雷翔は申請書と見積書を見比べた。執行部の査定が完全に間違っているわけではない。確かに先送りできそうな項目もある。ただ、現場が言うほどの危険があるなら、一律に「来年度でもよい」と処理するのも雑だった。
「昨日、それ言えばよかったのに」
三原は苦笑した。
「言って変わると思う?」
雷翔の手が止まった。
「大橋会長と執行部が決めた後で細かい話しても、どうせ変わらないよ」
十五万円の是非より、その言葉の方が気になった。権限が強いこと自体は悪くない。判断する人間には、それに見合うだけの裁量が必要だ。だが、その判断が最初から覆らないものとして受け取られているなら、それは少し違う。
雷翔は何も言わず、資料を閉じた。面倒な匂いが一つ増えた。
部室を出たあとも、そのことを月詠には話さなかった。月詠も聞かなかった。ただ、廊下を歩きながら一度だけ雷翔の横顔を見た。
「何?」
「別に」
「その言い方、最近便利に使ってない?」
月詠は答えなかった。
◇
演劇部では、さらに分かりやすい資料が出てきた。前年四十万円。今年度二十四万円。四割減。部長の諸星は、二人が席に着くより先に前年の申請資料を机へ置いた。
「これ見て」
照明設備の更新申請。その横に、前年の生徒会が残した記録がある。
『予算不足のため、次年度優先検討』
雷翔はその文字を指で追った。
「去年も通らなかった?」
「そう。今年は優先するって言われた。それで、またこれ」
「去年、大橋先輩は?」
「副会長」
雷翔はもう一度資料へ目を落とす。前年に先送り。今年度も先送り。事情が変わったと言われれば、それだけなら説明はできる。だが今年は、その一方で軽音部と写真部が大幅に増額されている。
「写真部なんて、去年より部員減ってるよ」
諸星が言った。雷翔が顔を上げる。
「減ってる?」
「卒業した三年が多かったのに、新入部員がほとんど入ってない。活動規模は去年より小さい。それで予算だけ五割増って、普通に考えて変でしょ」
隣の月詠が、そこで一度だけ資料から顔を上げた。雷翔はその横顔を見る。何も言わない。ただ、その話は覚えておいた方がよさそうだった。
「なるほどね」
雷翔は資料を閉じた。
「増えたな」
「何が?」
「調べること」
「最初から四部調べるって言ってたでしょ」
「そうなんだけどさ。予定より中身が濃い」
「嫌なの?」
「面倒なのと嫌なのは違う」
月詠が少しだけ口元を緩める。まだ決めつけるには早い。だからこそ、次は増額された側へ行く。
◇
軽音楽部の部室へ近づくと、扉の向こうから女性ボーカルの歌声が聞こえてきた。雷翔は足を止める。
「上手いな」
月詠も聞いていたが、反応は薄い。
「そうだね」
「興味なさそうだな」
「歌でしょ」
「身も蓋もないな」
「予算調査に来たんじゃないの?」
「そうだった」
雷翔は少し残念そうに扉を開けた。軽音部長は、予算の話を振られると意外そうな顔をした。
「四十万通ったの、俺らも驚いたけど」
「申請はいくら?」
「四十二万。去年かなり削られたから、今年も三十くらいだと思ってた」
少なくとも、軽音部自身が執行部と話を合わせていたようには見えない。今年は文化祭のステージ企画を増やし、機材も更新する。申請内容そのものには、十分な理由があった。
「今年のメインって誰なんです?」
部長は部室の奥を指した。
「数坂。うちの看板」
さっき歌っていた三年生だった。歌が上手いだけではない。ステージの中央に立つと自然に目を引く。人気があるのも分かる気がした。
「大橋会長って、よくここ来るんですか?」
何気ない調子で聞いた瞬間、隣にいる月詠の視線が軽音部長へ向いた。雷翔はそれを横目で見る。
「最近はよく来るな」
部長は少し言いにくそうに笑った。
「数坂目当てっぽいけど」
「会長、彼女いますよね」
「いるよ。だから数坂もかなり迷惑してる」
月詠の視線が、今度は数坂へ移った。雷翔は一拍置く。
「数坂先輩自身は、大橋先輩をどう思ってるんです?」
「断ってる。あんまり強く言えないだけじゃない? 相手、生徒会長だし」
雷翔は月詠を見る。目が合った。月詠は何も言わない。ただ、それ以上質問する必要はなさそうだった。
「分かりました。ありがとうございます」
二人は部室を出た。廊下へ出たところで、雷翔が小さく息を吐く。
「嫌な感じになってきたな」
「何が?」
「面倒の種類が、予算から人間関係に変わってきた」
「そっちの方が嫌?」
「圧倒的に」
月詠が少し笑った。
◇
最後は写真部だった。部室へ入って最初に感じたのは、静かだということだった。部屋そのものは広く、壁には過去の文化祭や体育祭で撮影された写真が並び、活動実績も十分にある。だが、人が少ない。今年度の部員名簿も明らかに薄かった。諸星の話は本当らしい。
「今年、部員かなり減りました?」
写真部長の表情が少し曇った。
「三年が結構卒業したから」
「新入部員は?」
「あまり入ってない」
活動規模は縮小している。その一方で、予算は増えている。
「増額理由は、新しい撮影機材と展示設備ですよね」
「学校広報との連携が増えるので」
答えは滑らかだった。雷翔は前年の購入記録を机へ置いた。
「去年もカメラ二台とレンズ買ってますよね。今年必要なのは別用途ですか?」
ほんのわずかな間があった。雷翔だけなら、気にも留めなかったかもしれない。だが、その横で月詠の視線が少し変わった。雷翔は質問を一つずらす。
「今年の増額って、写真部から強く希望したんですか?」
「それは……部でも必要だって話はしてたけど」
「誰かから勧められた?」
また短い間。
「石川先輩から、設備を更新した方がいいんじゃないかって」
副会長の石川。その名前が出た瞬間、月詠が写真部長を見る。
雷翔は心の中で一度だけ溜息をついた。また一人増えた。
「石川先輩とは、よく話すんですか?」
写真部長はすぐには答えなかった。雷翔は月詠を見る。今度は月詠の方から、一瞬だけ視線が返ってきた。それで十分だった。
「分かりました。ありがとうございます」
それ以上は追わなかった。
◇
部室を出てしばらく歩き、人のいない廊下まで来たところで月詠が口を開いた。
「何が分かったの?」
「まず、お前」
月詠が足を止める。
「僕?」
「軽音でも写真部でも、引っかかったところで見る場所変わっただろ」
「そんなことしてた?」
「してた」
雷翔は歩きながら続ける。
「大橋の名前が出た時と、石川の名前が出た時。お前が反応したから、もう一個聞いた」
月詠は少し黙った。
「君、それだけで分かるの?」
「全部は分からないよ」
雷翔は振り返る。
「でも、お前が何か拾ったことくらいは分かる」
月詠は数秒、雷翔を見た。
「……怖いね」
「何が?」
「別に」
「またそれ?」
月詠は答えなかった。雷翔は少し笑って、話を戻す。
「で、今のところ見えてるのは二つ。大橋は軽音。正確には、数坂先輩に個人的な興味がある」
指をもう一本立てる。
「石川先輩は写真部の増額に、自分から関わってる」
「写真部長との関係は?」
「分からない。そこはまだ何もない」
月詠がわずかに頷く。
「でも、会長と副会長がそれぞれ増額された部に関わってる」
「そう。一人だけが自分の都合で予算を動かそうとしたら、他の執行部が止める可能性がある」
「二人なら?」
「少なくとも、お互いの案件に口を出さないことはできる」
月詠の目が少し細くなった。
「談合?」
「可能性はある。でも、まだ形がきれいすぎるだけ」
「きれいすぎる?」
「大橋が軽音。石川が写真。吹奏楽と演劇から削った分が、ちょうどそっちへ寄ってる」
数字としては説明しやすい。だが、それだけで裏で話を合わせた証拠にはならない。
「じゃあ、まだ分からない」
「うん」
雷翔は生徒会本部のある方向を見る。
「だから次をやる」
「何するの?」
雷翔は少し考えた。本音を言えば、もう十分働いた気もする。だが、ここまで調べて放っておく方が後で面倒になりそうだった。
「本人たちに聞く」
月詠が見る。
「そのまま?」
「まさか。大橋と石川に、同じことを別々に聞く」
「何を?」
「軽音と写真を増額した理由。それを誰が最初に提案して、執行部で誰が賛成したのか」
月詠はすぐに理解したらしい。
「二人で話を合わせてるなら、説明も同じになるんじゃない?」
「準備してればな。でも、予算の表向きの理由だけ合わせてても、話した順番とか、誰が何を言ったかまで全部同じとは限らない」
「ズレなかったら?」
「その時は別のところから見る」
「それでも何も出なかったら?」
「じゃあ、俺たちの考えが間違ってる」
月詠が少し意外そうに見た。雷翔は肩をすくめる。
「証拠が出ないのに、最初に決めた答えへ無理やり合わせる方が格好悪いだろ」
「そういうところは真面目だね」
「そういうところは、って何だよ」
月詠は答えず、少しだけ笑った。
「楽しそう」
「まあね」
雷翔は否定しなかった。
「でも、めんどくせぇ」
「どっち?」
「両立するだろ」
月詠は少し考えてから頷いた。
「天城ならするかも」
「どういう意味だよ」
今度は月詠が答えない。
「でも、お前も気になってるだろ」
「君がどうやるのかは」
月詠にしては、かなり率直な答えだった。雷翔の口元が緩む。
「じゃあ見てろよ」
「見るだけ?」
「手伝えよ」
「なんで?」
「もう半分くらいお前のおかげだから」
「じゃあ半分だけ手伝う」
「そこは全部やれよ」
月詠は小さく笑った。雷翔も笑いながら、その横へ並ぶ。
廊下の先には、生徒会本部の扉が見えていた。次に聞くべき相手は、もう決まっている。そして雷翔は、その扉を見るなり小さく呟いた。
「……これ絶対、仕事増えるやつだな」
月詠は聞こえていたはずだが、何も答えなかった。止める気もなかった。面倒だと零しながら、それでも一番きれいな解決まで進む雷翔を、もう少し見ていたかった。
お読みいただきありがとうございます。面白いと思っていただけたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




