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文化祭予算会議

 五月に入ると、生徒会本部は文化祭の準備で一気に慌ただしくなった。各クラスや部活動から企画書と予算申請が集まり始め、雷翔と月詠も一般書記として正式に任命されていた。


 仕事は資料整理、過去実績との照合、会議用資料の作成。入ったばかりの一年生に重要な判断を任せることはないが、生徒会が何を材料に意思決定しているのかを見るには十分だった。


 雷翔は、こういう仕事を嫌いではない。書類そのものが好きなわけではない。数字と記録を追っていけば、学校という組織が何を基準に動き、誰の判断で結果が変わるのかが見えてくる。そちらの方が面白かった。


 ある日の放課後。雷翔は文化祭予算の執行部案を確認していて、手を止めた。


「月詠」


 隣の机で去年の議事録を整理していた月詠が顔を上げる。


「何?」


「これ見て」


 雷翔は予算一覧を机の上で滑らせた。月詠は何も言わずに受け取り、視線を下へ走らせる。今年度の文化祭予算案には、前年実績と今年度査定額が並べて記載されていた。


 軽音楽部――前年二十五万円。今年度四十万円。


 六〇パーセント増。写真部――前年二十万円。今年度三十万円。


 五〇パーセント増。一方で、吹奏楽部は前年五十万円から三十五万円へ三〇パーセント減。演劇部は四十万円から二十四万円へ、四〇パーセント削減されている。月詠の視線が、もう一度上へ戻った。


「随分きれいに分かれてるね」


「だろ」


 雷翔は椅子にもたれた。もちろん、増額にも削減にも理由は付けられている。軽音部は新規機材と文化祭ステージの拡充。写真部は撮影機材の更新と展示設備の増設。


 対して吹奏楽部は、一部の楽器修繕を来年度へ延期可能。演劇部は舞台設備の一部を既存品で代替可能とされていた。文章だけを読めば、一応は筋が通っている。


「どう思う?」


 雷翔が聞く。月詠は少し考えた。


「数字だけなら、理由があるなら別に」


「俺も」


 雷翔は予算表を指先で軽く叩く。


「増やすのも削るのも悪くない。気になるのは、なんでこの四つがこうなったかだな」


「今日の会議で聞けば?」


「そのつもり」


 雷翔が笑うと、月詠はわずかに目を細めた。


「楽しそうだね」


「面白そうだからな」


「まだ何も起きてないけど」


「だから面白いんだろ」


 月詠は何も答えなかった。ただ、否定もしなかった。


      ◇


 放課後。文化祭予算会議は、生徒会本部の大会議室で開かれた。


 各部活動の代表、文化祭実行委員、生徒会執行部。それを補助する書記や会計まで集まり、普段は広く感じる部屋が今日はかなり狭い。


 雷翔と月詠は一般書記として、壁際の補助席に座った。やがて執行部が入ってくる。


 中央に座った三年生を見て、雷翔はすぐに分かった。大橋。


 現生徒会長。顔を見るのは初めてだった。


 上級生から聞いていた話だけなら、もっと軽薄な男を想像していた。女子関係が派手だとか、異性交友に関する校則を自分たちに都合よく緩和したとか、耳に入ってくるのはそんな噂ばかりだったからだ。


 実際には、印象が違う。制服はきちんと着ている。話し方も落ち着いていて、執行部の面々も自然に大橋の判断を待っている。少なくとも、頭の悪い男には見えなかった。


「始めよう」


 大橋が言うと、会議室が静かになった。最初に会計局長から全体予算の説明が入る。


 今年度の申請総額は、使用可能な文化祭予算を大きく上回っている。そのため執行部で査定を行い、優先順位をつけて調整したという。


 それ自体は当然だった。全員に欲しいだけ配れるなら、そもそも査定など必要ない。雷翔が知りたいのは、その優先順位だった。


「軽音楽部、四十万円」


 会議室の空気が少し動く。前年は二十五万円。続いて、


「写真部、三十万円」


 前年は二十万円だった。


「吹奏楽部、三十五万円」


 前年五十万円。


「演劇部、二十四万円」


 前年四十万円。今度は、はっきりとざわめきが起こった。


 雷翔は大橋ではなく、会議室全体を見る。吹奏楽部の代表が隣と何か話している。演劇部の代表は最初から表情が硬い。軽音部と写真部の代表は黙っていた。最初に手を挙げたのは、吹奏楽部の三原だった。


「質問いいですか」


「どうぞ」


 大橋が促す。


「うちは前年五十万から三十五万。十五万円削られてますよね。その一方で、軽音部は十五万円増えてる。基準を説明してもらえますか?」


 数字を並べられると、差がよく見える。何人かが資料へ目を落とした。大橋は落ち着いて答えた。


「軽音部は今年、文化祭のメインステージで企画を増やす予定になってる。機材の更新も必要だし、観客数を考えれば文化祭全体への波及効果も大きい」


「じゃあ吹奏楽は?」


「申請に入っていた修繕項目の一部は、今年やらなくても活動に支障がないと判断した」


 三原の表情が曇る。今度は演劇部代表の諸星が手を上げた。


「うちは四十万から二十四万です。四割ですよ」


 声には明らかな苛立ちがあった。


「舞台設備を更新しなければ、今年の演目自体を変えないといけない。それなのに写真部は十万円増額されてますよね」


 大橋がそちらを見る。


「写真部は今年、文化祭の記録だけじゃなく学校広報との合同企画がある。撮影機材と展示設備は、文化祭後も学校側で活用できる」


「それなら広報予算から出すべきでは?」


「広報予算には余裕がない。文化祭で直接使用する以上、こちらから出すのが妥当だと執行部は判断した」


 答えは速かった。雷翔は聞きながら、少しだけ感心する。


 少なくとも、何も考えずに数字を動かしたわけではない。反論されることを想定して、理屈は用意している。


「その判断をしたのは誰ですか?」


 諸星が聞いた。


「執行部」


「実質、会長ですよね」


 一瞬だけ、空気が張る。大橋は表情を変えなかった。


「最終責任者は俺だよ」


 静かな声だった。それでも会議室を押さえるだけの力がある。


 雷翔はわずかに目を細めた。権限を使ったなら、責任も引き受ける。


 少なくとも、その点は筋が通っている。その時だった。


 隣の月詠が、大橋をじっと見ていることに気づいた。表情そのものはほとんど変わっていない。けれど、この一か月一緒にいれば分かる。


 機嫌が悪い。珍しい。


 月詠は大抵のことなら「別に」で済ませる。雷翔は声を落とした。


「月詠」


「何?」


「なんかあった?」


 少し間があった。


「……気持ち悪い」


 雷翔は眉を上げた。月詠の口から出る言葉としては、かなり珍しい。


「何が?」


 月詠は大橋から視線を外さない。


「言ってることと、感情が合ってない」


 声や表情から、考えていることの見当をつけるのは昔から得意だった。けれど今、大橋の内側に感じている喜びは、眉の動きや声の調子から推測したものではない。言葉とは別のところから、感情そのものが届いていた。


 その違いを初めて知ったのは、中学にいた頃だった。告白を断った重田に肩を掴まれ、床へ押し倒されたとき、相手の怒りと欲望が、突然、自分の内側へ流れ込んできた。嫌われたくない、否定されたくないという不安まで、表情を見るより深いところで分かった。


 そして、その奥に触れられた。本当にこんなことをしてまで、自分を欲しいのか。重田の中に最初からあった、ごく小さな迷いを前へ押し出すと、こちらを押さえていた腕から力が抜けた。


 ない感情を作ったのではないし、相手の心を丸ごと別のものへ変えたわけでもなかった。それでも、小さな感情の位置が変わるだけで、人間の行動は変わる。玲央はその事実と、自分がそうできるという事実を、誰にも知らせずにいた。


 異能というものがあることは知っていた。だが、それが自分に現れたからといって、人に話さなければならないとも思わなかった。少なくとも、隣の天城へ説明する理由は、まだない。


 大橋の感情へ触れて動かすつもりもなかった。今ここで会長の態度を変えたところで、数字がこうなった理由まで明らかになるわけではない。玲央は、説明のたびに浮かぶ喜びだけを確かめ、隣の雷翔へ視線を戻した。


 雷翔は黙った。月詠の異能について、雷翔はまだ知らない。ただ、この一か月で、人の機嫌や本心を読むのが異様に上手いことには気づいていた。


「軽音と写真の説明をしてる時だけ、少し違う」


「どう違う?」


「嬉しそう」


 雷翔も大橋を見る。外から見た限りでは、いつもと変わらない。


「吹奏楽と演劇の時は?」


「ただ説明してるだけ。でも軽音と写真を守る時は……」


 月詠が少しだけ眉を寄せる。


「納得させようとしてるというより、自分が納得してる感じがする」


「理由を後から作ってる?」


「そんな感じ」


 月詠はそこでようやく雷翔を見る。


「断定はできないけど」


「十分」


 雷翔は小さく答えた。数字だけなら、偏っている。


 理由だけなら、成立している。そこへ月詠の違和感が加わった。


 まだ何の証拠でもない。だからこそ、調べる価値がある。


 雷翔はもう一度資料へ目を落とした。軽音楽部、写真部、吹奏楽部、演劇部、そして執行部案。


 少しだけ面白くなってきた。雷翔は手を上げた。


 隣で月詠がこちらを見る。大橋も雷翔へ視線を向けた。


「一年の天城です。一般書記で入ってます」


「知ってるよ」


 大橋が少し笑った。


「首席の一年だろ」


 会議室にわずかな笑いが起きる。雷翔も笑顔を返した。


「どうも」


 そして、できるだけ何でもない提案のように続けた。


「この予算調整、僕と月詠に少し手伝わせてもらえませんか?」


 今度こそ会議室が静まった。月詠まで雷翔を見る。明らかに、初耳という顔だった。大橋が尋ねる。


「何をするつもり?」


「吹奏楽部と演劇部は納得してない。軽音部と写真部にも、それぞれ事情があると思います」


 雷翔は四部の数字が並んだ資料を持ち上げる。


「一度全部から話を聞いて、執行部案を前提に、調整できる余地がないか整理します」


「執行部案そのものを変更するつもりはないよ」


「もちろん」


 雷翔は迷いなく答えた。


「最終判断は執行部ですから」


 それは事実だった。最終判断をするのは執行部。


 ただし、その前に何を材料として並べるかまでは決まっていない。大橋は数秒考えた。


「いいよ」


 頷く。


「一年に何ができるか見てみたいしな。小原に必要な資料を出させる」


「ありがとうございます」


 雷翔は素直に頭を下げた。隣から月詠の視線が刺さる。気づいていたが、今は見ないことにした。


      ◇


 会議が終わり、生徒会本部を出る。二人はしばらく無言で廊下を歩いた。人の少ない階段まで来たところで、月詠が先に口を開く。


「僕、聞いてないけど」


 雷翔は笑った。


「やっぱそこ?」


「僕と月詠に、って言ってた」


「嫌だった?」


 月詠は少し考える。


「別に」


「じゃあいいじゃん」


「よくない」


「どっちだよ」


 月詠は答えず、そのまま階段を降りる。雷翔も横へ並んだ。


「で」


 月詠が言う。


「会長の方針に沿うんだ」


 声はいつもと変わらない。ただ、雷翔には少し棘があるように聞こえた。


「そこも気にしてた?」


「別に」


「今日は別にが多いな」


 月詠が雷翔を見る。


「どういうつもり?」


 雷翔は少し笑った。


「言った通りだよ。まず調べる」


「軽音と写真が優遇されてるか?」


「それもまだ分からない」


 月詠が眉を寄せた。


「さっきは――」


「お前が感じたことは信用してるよ」


 雷翔は遮った。


「でも、感情と予算が変だからって、それだけで大橋が悪いって決めたら馬鹿だろ」


 月詠が黙る。


「軽音と写真に、本当に増額するだけの理由があるかもしれない。吹奏楽と演劇の申請が無茶だった可能性もある」


「じゃあ全部調べる」


「そういうこと」


 雷翔は頷いた。


「四部の申請書。過去の実績。今年の企画。必要なら部長にも話を聞く。執行部が何を根拠に査定したのかも見る」


「それで?」


「大橋の案が正しいなら、そのままでいい」


 雷翔は少し間を置いた。


「間違ってるなら直す」


「間違ってるだけなら?」


「直せば済む」


「わざとだったら?」


 そこで雷翔は少し考えた。


「その時に考える」


 月詠が意外そうに見る。


「今は決めないんだ」


「何も分かってないのに?」


「さっき楽しそうだったのに」


「調べるのが楽しそうなんだよ」


 雷翔は笑った。


「答え決めてから証拠探すのはつまらないだろ」


 月詠は数秒、雷翔を見ていた。やがて、小さく息を吐く。


「なるほど」


「何?」


「いや」


 月詠は前を向いた。


「それならいい」


「何が?」


「別に」


 また同じ答えだった。雷翔は笑う。


「まず何から行く?」


 月詠が尋ねる。


「四部全部」


「軽音と写真も?」


「当然」


 雷翔は即答した。


「片方の話だけ聞いて正義ぶるほど馬鹿じゃないよ」


「その後は?」


 雷翔は少し考えた。手元には、まだ数字しかない。けれど、その数字がどうしてそこへ辿り着いたのかは調べられる。


「全部並べてから考える」


「ひっくり返す?」


「必要なら」


 雷翔は階段の上を振り返った。その先には、生徒会本部がある。


「どうせやるなら、誰にも文句を言わせない形でな」


 月詠が、その横顔を見る。そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「それは、ちょっと面白そう」


「だろ?」


「僕は何をすればいい?」


 月詠の方から尋ねられ、雷翔は一瞬だけ目を細めた。それから四部の資料を二つに分け、迷いなく片方を差し出す。


「相手の反応を見て。言ってることと感情がずれたら教えて」


「分かった」


 月詠は受け取った資料へ目を落とした。雷翔が何を見て、どう片づけるのか。その隣にいれば、もう少し詳しく分かりそうだった。

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