首席と次席
本編が始まります。
四月。都立東雲学園の入学式は、雷翔が思っていたよりずっと普通だった。体育館には椅子が整然と並び、壇上には校旗と演台。新入生たちはまだ馴染まない制服に身を包み、後方の保護者席からは式が始まってからも小さな話し声が途切れない。
天城雷翔は、新入生の列の最前列に座っていた。首席で入学した結果、今日は新入生代表として挨拶までさせられることになっている。入学初日から仕事が増えた。面倒ではあるが、断るほどでもない。こういう場で教師に名前を覚えられておけば、後々何かの役に立つかもしれないし、勝手に印象まで良くなるなら悪い話ではなかった。
壇上では校長が話を続けている。自主、自律、独立。学校案内にも並んでいた言葉を、少しずつ形を変えながら繰り返していた。東雲学園は都内でも少し変わった学校で、校則は比較的少なく、生徒の自治権が強い。学校行事だけでなく、予算配分や部活動、委員会の運営にも生徒側の判断がかなり認められている。教師がすべてを決めるのではなく、生徒自身に考えさせる。その点だけは、雷翔も気に入っていた。何も考えずに「決まりだから従え」と言われるより、ずっといい。
「続きまして、新入生代表、天城雷翔君」
名前を呼ばれ、雷翔は立ち上がった。壇上へ向かう途中、一度だけ体育館を見渡す。生徒に教師、保護者を合わせれば数百人はいるだろう。緊張はしなかった。むしろ、これだけの人間がこれから自分の話を黙って聞くという状況の方が、少し面白かった。
演台の前に立ち、用意してきた原稿を開く。内容は無難なものだ。この学校で学べることへの感謝。新しい仲間との出会い。これから始まる学校生活への期待。教師が読んでも、保護者が聞いても何も問題はない。だからこそ、そのまま読むのは少しつまらなかった。雷翔は原稿から目を上げた。
「僕たちは今日から、この東雲学園の生徒になります」
体育館をゆっくりと見渡す。
「学校案内には、この学校の理念として『自主独立』と書かれていました。僕は、その言葉を見てここを選びました」
用意してきた文章から少しだけ外れると、教師席の何人かがこちらへ顔を上げた。
「自分で考え、自分で選び、その結果に責任を持つ。高校生活の三年間を、誰かに与えられるものではなく、自分たちで作っていけるなら、それはきっと面白いと思います」
体育館は静かだった。少なくとも、聞いてはいる。なら、それで十分だ。
「三年後、ここを選んでよかったと、全員が思えるような学校生活にしたいと思います」
一礼すると、拍手が起こった。大したことを言ったつもりはない。それでも、最初から最後まで原稿を読み上げるよりは、多少なりとも印象に残っただろう。
席へ戻る途中、雷翔は一人の生徒と目が合った。新入生の列の少し離れた場所で、さらりとした黒髪に切れ長の目をした、整った顔立ちの少年がこちらを見ている。感心しているわけでも、羨んでいるわけでもない。ただ見ている。いや、観察していると言った方が近い。
雷翔も数秒だけ見返した。知らない顔だが、名前には覚えがある。月詠玲央。入試成績、次席。自分とはほとんど点差がなかったから、それだけで覚えていた。月詠の方から視線を逸らす様子もないので、雷翔が先に前を向く。そのうち話すこともあるだろう。その程度に思った。
入学式が終わると、新入生たちはそれぞれの教室へ移動した。雷翔のクラスは一年一組で、席は窓際の後方だった。悪くない。荷物を置いて椅子に座ると、周囲では早くも自己紹介が始まっていた。
「天城君だよね? さっき挨拶してた」
隣の席の女子生徒が話しかけてくる。
「そう」
「すごかったね。首席なんでしょ?」
「らしいね」
「らしいねって、自分のことじゃん」
笑われたので、雷翔も笑った。こういう会話は嫌いではない。人付き合いそのものに興味がないわけでもないし、友人が多ければ何かと便利でもある。何人かと名前を交換したところで、教室の前方が少し騒がしくなった。
「月詠君って、このクラスなんだ」
「うわ、本当に顔いいね」
そんな声が聞こえて、雷翔も何気なくそちらを見る。入学式で目が合った少年が教室へ入ってきた。偶然にも同じクラスらしい。席は雷翔から二列ほど前だった。
月詠は席に着くなり周囲から話しかけられた。愛想が悪いわけではなく、聞かれれば名前を答えるし、時折笑いもする。ただ、会話そのものを楽しんでいるようには見えなかった。答える必要があるから答えている。雷翔には、そんなふうに見えた。
しばらく眺めていたが、それ以上観察する理由もない。雷翔は鞄から問題集を取り出した。ホームルームが始まるまで暇だった。数分後。
「天城君」
前の方から声がした。顔を上げると、月詠がこちらを向いている。
「何?」
「さっきの挨拶」
「うん」
「原稿と違ったでしょ」
雷翔は少し眉を上げた。
「なんで分かった?」
「途中から先生が原稿見てたから」
月詠は平然と言った。雷翔は式の最中の教師席を思い返す。確かに、自分が原稿から外れた辺りで手元へ視線を落とした教師がいた。そこまで見ていたのか。
「よく見てるね」
「普通じゃない?」
「普通の奴は、新入生代表が喋ってる時に先生の手元なんか見ないだろ」
月詠は少し考えるように首を傾げた。
「そうかも」
妙な返事だった。本当に普通だと思っていたらしい。雷翔は問題集を閉じた。少し興味が出た。
「月詠だっけ」
「うん」
「次席の」
月詠の目がわずかに細くなる。
「覚えてたんだ」
「俺と点数近かったから」
「三点差」
「知ってる」
「じゃあ、次は勝つよ」
淡々とした言い方だった。冗談なのか、本気なのか。雷翔は笑った。
「無理じゃない?」
「なんで?」
「俺の方が頭いいから」
月詠は数秒、雷翔を見た。怒るか、呆れるか、笑うか。大抵の人間なら、そのどれかだ。ところが月詠は、ほんの少しだけ口元を上げた。
「へえ」
それだけだった。予想と違う反応に、今度は雷翔の方が気になった。
「何?」
「別に」
月詠は前を向きかけて、少しだけ視線を戻した。
「面白い人だなと思って」
その言い方には、社交辞令も皮肉も感じられない。本当に少し興味を持った。ただ、それだけの声だった。
「お前も結構変だな」
「そう?」
「普通はそこでムカつくだろ」
月詠が振り返る。
「本当に君の方が頭いいなら、別に怒る理由ないでしょ」
雷翔の手が止まった。一秒ほど、その言葉の意味を考えてから笑う。
「なるほど」
今まで「俺の方が頭がいい」と言って、腹を立てなかった人間ならいた。冗談だと思って笑った人間もいた。けれど、本当にどちらが上なのか確かめてから、怒るかどうか決めればいい。そんな返しをしてきた人間は初めてだった。こいつ、面白いな。
「やっぱ、お前ちょっと面白いな」
今度は雷翔が言うと、月詠は小さく笑った。その時、教室の扉が開いた。
「はい、席についてー。ホームルーム始めるぞ」
担任らしい男性教師が入ってくる。月詠は前を向き、雷翔も問題集を鞄へ戻した。会話はそれで終わった。
ほんの数分だった。それでも雷翔は、月詠という名前を、入試成績とは別の理由で覚えた。
◇
簡単な説明と自己紹介が一通り終わったところで、担任が黒板へ向かった。
「最後に、この学校の生徒会について説明しておく」
白いチョークが黒板を走り、「東雲学園生徒会」と書かれる。その文字を見て、雷翔は少しだけ姿勢を変えた。
入学式でも触れられていた、生徒自治の中心だ。学校行事だけではない。予算や部活動、委員会の運営にも関与し、他校に比べてかなり大きな権限を持っている。
「東雲では昔から、各クラス二人くらいは生徒会活動に参加するのが慣例になってる。強制じゃない。興味がある奴は今週中に俺のところへ来てくれ」
何人かが顔を見合わせたが、その場で手を挙げる者はいなかった。入学したばかりで、わざわざ面倒事を増やしたい人間は少ないらしい。
雷翔は黒板を見た。入学案内に書かれていたことが本当なら、ただ行事の手伝いをするだけの組織ではない。学校生活のかなりの部分を、生徒自身の判断で動かせる。
教師の話はそのまま続いていたが、雷翔はもう半分ほど聞いていなかった。代わりに考える。どこまで本当に、生徒だけで決められるのか。扱う予算はいくらなのか。教師と生徒会の意見がぶつかった時、最後に通るのはどちらなのか。
確かめてみたいことが、いくつも浮かんできた。面倒を増やす趣味はないが、仕組みが見えているのに、他人が下手に動かすのを眺めている方が苛立ちそうだった。自分で触れるなら、その方が早い。雷翔は、黒板に書かれた文字をもう一度見た。
生徒会。面倒そうではある。けれど、自分ならかなり上手く動かせる。そう思った時点で、見なかったことにはできなかった。
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