まだ遠き《竜殺し》
「ギルド長ー!」
ヤドリギのギルドハウスに、珍しくミルヴスの声が響いた。作戦会議をしていた者も、談笑していた者も顔を上げる。
「探してるんですか?」
「今、呼んできます?」
「あ、モアさん。どこか知ってます?」
「急ぎか? 最近は分析室に入り浸ってたが、今もいるかは分からんな」
「いえ、ありがとうございます」
礼を述べたミルヴスの手には、封を切ったばかりの伝令書が二枚。
「……こういう時に限って、いねぇんだよな」
分析室の方へ向けた足を止める。
まさか、隠れているんじゃないか。普段なら頼りにしない勘を、今日は信じてみることにした。
「オレから逃げられると思わないでくださいよ、ギルド長」
《遠視》。《俯瞰視》。微かな動きや温度、魔力の流れを捉える《精密視》。
複数の高等魔法を組み合わせた、ミルヴス独自の索敵がギルドハウスを辿る。
「――みぃつけた」
*
地下書庫の扉には、鍵がかかっていた。
その奥で《スライム狩り》は、半日分の食料と水を傍らに置き、息を潜めていた。
まだ来ないはずだ。
少なくとも、あと少しは――。
「おい、こんなとこで何してんだ」
「ひ、ひぃいぃっ!」
振り向いた先にミルヴスがいた。扉が開いた音さえ聞こえなかった。
「こ、こんな所で奇遇ですね、ミルヴスくん?」
にっこりと笑い返され、ギルド長は大人しくなった。
「悪い知らせと、超悪い知らせがあります。どっちから聞きたいです?」
「良い知らせだけが、聞きたいかなぁ……なんて」
「悪い知らせからいきますね」
「選択権なし!」
ミルヴスは椅子に積まれた本を脇へ移し、腰を下ろした。
「評議会入り四大ギルドの一角、《ステラビア》のギルド長が病に伏されました」
「デネピアさんが?」
「はい。後継争いで、ギルドとしての機能を失いつつあります。昨日、連盟は《ステラビア》を評議会入りギルド名簿から除名しました」
一枚目の伝令書を渡す。受け取る手が汗ばんでいる。
「ミルヴスくん、あとの話はまた今度にしないかい?」
「欠員を補うため、次回評議会までに新たなギルドを選定することになりました。緊急議会が召集され、その結果――」
* * *
「おい、アイツだろ?」
「え、あれが例の?」
自分のギルドのロビーを歩くだけで、オレ様の噂がそこかしこから聞こえてくる。
「……ああ、あれだろ?イキって《竜殺し》を越えるとか言ってる、身の程知らずだろ?」
「笑える、イキリ竜殺しじゃん」
遠くの声にオレは一睨みだけして、歩き続ける。白のローブを身にまとい、左胸には誇り高き剣を模した紋章。薄手ながらも丈夫さを備えた甲冑が、歩みに合わせて揺れる。
「また、お前のこと気にしてたな」
「同期も先輩方でさえ、もうピュロスの話題で持ち切りだな」
仲間を連れてギルドを出る。少し歩いてから振り返り、ホームの上階を見上げた。
「――ちっ」
そこから、いけ好かない《教官》殿が、冷ややかな目でオレを見下ろしていた。
「今に見てろよ。クソじじいも、《竜殺し》も」
*
「討伐依頼は、フリーボアのコミュニティ殲滅。それと、可能なら、目撃情報のある中位種ロックワームの調査、討伐だな」
四人パーティ。リーダーはオレ様。
斥候のリリアン、援護・救護のトーマス、分析役のレイモンド。同期で《バルムンク》の門を叩き、生き残った精鋭だ。
「目撃情報って、ソースは?」
「他の依頼に当たっていた冒険者。三件とも、前衛の目視だ」
「なによそれ。当てになんないじゃない」
リリアンは警戒地域へ入ると、すぐに索敵を始めた。
「左前方45m。フリーボアと思われる反応が七。その奥にも同数か、それ以上」
「了解。20秒で分析する。ちょっと待ってく――」
「まだ温存しとけ。オレ様だけで十分だ」
脚と、初撃を入れる腕へ《身体強化》を通す。
踏み込んだ地面が弾けた。
「――相変わらず、化け物みたいな魔法制御だな」
木々を抜ける。45m先、一体目。
間違いなく、言われた場所にいる。
「――相変わらず良い精度だ、リリアン」
振り返ると、親指がぐっと上がった。
あとは斬るだけだ。下位の魔物をいくつ倒したって、手応えなんざありゃしねぇ。
「つまんねぇんだよ」
数十秒で、七体が転がった。
「あはは。さすがは私たちの中でも唯一、Lv3への昇格審査に通ってるだけあるわ」
「うるせぇよ。次は?」
「ここからなら問題ない。50m先、左に十一、右に五」
「左はオレ様だ。お前らで右」
リリアンとレイモンドが右へ散る。トーマスは後方で足を止めた。
左の群れは数体倒されてから、ようやく敵襲に気づいた。ここはさっきより広い。最低限の剣戟で十一体を狩り終える頃、右でも最後の一体が倒れた。
「これで、一応は討伐対象の殲滅を果たしましたね。どうしますか?」
剣を振って血を払い、周囲を確かめながら近づいてきたトーマスへ顔を向ける。
「リリアン」
「はいはい」
範囲こそ狭いが、100m四方圏内なら、リリアンの索敵は精確だ。
その顔が、わずかに引きつった。
「――これは」
「当たりか?」
近くの葉がガサガサと揺れた。オレの魔力に圧されている。
「反応は一つ。初めて接敵する反応だけど、昨日トーマスとレイモンドと調べた特徴や行動特性と照らし合わせれば――間違いない」
「じゃあ、ロックワーム狩りといくか」
「ピュロス。やる気になってるところ悪いが、中位魔物とのパーティ規模での戦闘はLv2には推奨されていない。生息確認だけでも、十分すぎる成果だ」
推奨? 非推奨?
強い魔物を推奨してくれるやつなんかいるかよ。君は竜に挑むべきではない。そう言われたら、止まれんのか?
「残りたいヤツは残れ。オレ様は一人でも狩りに行く」
三人が目を合わせ、小さく息を吐いた。
「お供するさ、未来の《竜殺し》殿」
その呼び方で揶揄していいのは、こいつらだけだ。
こいつらだけが、オレがそこへ至ると思っている。
「荒地の地下よ。見通しがいいから、出たらこっちも丸見えね」
「トーマスは森の切れ目で救護の準備を。退くならそこだ」
「ああ。みんなの無事を信じてるよ」
「準備はできたか?」
「――ああ」
*
森が途切れ、乾いた土と岩ばかりの荒地が開けた。
「反応は?」
「地下。ほとんど動いてないわ。深さまでは分からないけど、そう遠くない」
レイモンドが地面に触れ、露出した岩盤と周囲の窪みを見比べる。
「穴は?」
「見当たらないわ」
「なら、決まった場所から出入りしてるわけじゃないな」
岩石地帯を好み、地中から獲物を襲う中位魔物。硬い外殻を持つ《ロックワーム》。
昨日三人が集めた情報は、オレも頭に入れてきた。
「出てくるまで待つぞ」
「意外だな。地面を叩き割ってでも引きずり出すかと思った」
「バカか。地面の中で戦えるかよ」
リリアンが吹き出した。
「ちゃんと考えてたのね」
「お前ら、オレ様をなんだと思ってんだ」
「未来の《竜殺し》殿」
「ぶっ飛ばすぞ」
剣を構え、リリアンへ顎をしゃくる。
「動いたら方向と距離。レイモンドは、出てきたら分析。攻撃方法と外殻の硬さを優先しろ」
「20秒くれ」
「長ぇ。10秒」
「無茶言うな。初見の中位種だぞ」
「じゃあ15秒」
「……善処する」
乾いた風がローブの裾を払った。
「――動いた」
リリアンが数歩下がる。
「こっち。距離30!」
まだ見えねぇ。柄を握る手に魔力を通す。
「25、20――」
脚、腰、肩。いつ来てもいい。
「15! 10!」
足裏が震えた。
「5――真下!!」
後ろへ跳ぶ。地面が爆ぜ、土砂の向こうに巨大な口器が開いた。
岩石と見紛う外殻。節を連ねた長い胴が、空へ伸びる。
「やっと出てきやがったな」
笑いながら剣を構え直す。横ではレイモンドが口早に呟いていた。
「生物の外皮が岩石、ないしは類似物質に変態している。ワーム属の行動と弱点を照合、分析――」
「15秒だぞ」
「分かってるよ」
「リリアン、地中に逃げる予兆があったら知らせろ。巻き込まれねぇように下がっとけ」
「了解」
後方32m。あいつはそこで止まった。
オレは全身の筋肉と腱へ魔力を通す。剣を引き寄せ、柄を顔の前へ。刀身が視界を二つに分けた。
二箇所で地面が爆ぜる。
伸び上がるロックワームの、さらに上へ。
「虫が制空権を奪りにくるんじゃねぇよ」
両手で剣を握り直す。斬る直前、左手を握り込んだ。柄とグローブが擦れ、キン、と鳴る。
「――兜割り!」
捉えた。
そう思った刹那、巨体が後端から捻れた。刃は外殻を削り、芯を外す。巻き上がった砂埃に、着地点まで消えた。
「左32°、下83°から反撃!」
「しっぽか? 行儀の悪ぃ」
声を頼りに、両手で握った剣を斜めに差し出す。
重い。腕ごと持っていかれそうな衝撃を、刃に沿って逃がす。
逸らした――はずの胴が、その先で折れ曲がった。
「こいつ!」
触れた先の節だけが緩み、脇へ回り込んできた。左腕ごと胴を締め上げられ、甲冑が軋む。剣を握る右手は自由だが、肩まで押さえられて振り下ろせねぇ。
息を吐いた。吸い直せない。
「くっそ、うじ虫が」
「悪い、ピュロス。16秒だが許せよ」
レイモンドの投げた何かが、ロックワームの頭部の前で弾けた。
閃光。締めつけが緩む。
左肘をねじ込み、巻きついた胴をこじ開ける。節の隙間に、外殻が隠していた肉が見えた。
自由になった左手を柄へ戻す。
「ほれ、悔やめ」
一閃。
剥き出しの筋組織が裂け、数百キロの胴が切り離された。
「ギョョョョオオオオ!」
落ちた先はリリアンの鼻先だ。地響きが足まで伝わってくる。それでも、あいつは動かねぇ。
「なんだ。意外と距離あるのね」
3mも離れてねぇだろうが。
着地して向き直るオレへ、レイモンドの声が飛んだ。
「ワーム属のコアは脳じゃない、心臓だ! スタングレネードを受けた瞬間、第13関節を庇った!」
「確率は!」
「高い!」
「十分!」
節を数える。剣先を下げ、刃へ魔力を通した。
剣気を真正面から叩きつける。
「来いよ、うじ虫」
咆哮。反り返った巨体が、全体重を乗せて突っ込んできた。
岩山が迫る。その前で腰を落とし、剣を引く。
何度も見た。何度も真似た。《竜殺し》の、あの一閃。
「おおおおッ!!」
すれ違いざまに刃を押し込む。
一節、二節。外殻が割れる。斬り裂きながら駆け抜ける。
十。十一。十二――。
「そこか!」
十三。
硬い手応えの奥で、柔らかな何かを断った。
ズンッ、と巨体が落ちる。
全身を両断とはいかなかった。だが、第13関節の奥まで達した斬撃が、心臓を断っていた。
「ははっ……流石だ、ピュロス」
横たわったロックワームは、もう動かない。
「皆さーん、ご無事ですかー?」
森の切れ目から、トーマスが走ってきた。
「けが人報告!」
「大丈夫だ」
「私も大丈夫よ」
黙っていると、トーマスがこっちを向いた。
「けが人報告!!!」
「うっせぇな、分かってるよ」
剣を傍らに置き、敷かれたござに座らされて回復術を受ける。
締めつけられた胴も、全力の《身体強化》で傷めた箇所も、少しずつ楽になった。いつもビクついてるくせに、怪我人がいる時だけ生き生きすんの、なんなんだこいつ。
「あ、そういえば、ここに来る途中に変な魔物いたんですよね」
「変な魔物? 具体的には?」
レイモンドがすぐに振り返った。
「あまりにも小さくて、痩せ細っていたので、確信はないんですけど。おそらくゴブルベアの幼体かなと」
「幼体だけ?」
リリアンが眉を寄せる。
「この辺はワイズベアの縄張りも多いし、ロックワームだっている。アイツら大食漢だし、家族で移動するのに、一匹だけって……」
「みんなのところへ急いでいましたし、脅威も感じなかったので。見間違いかもしれませんが」
なんだか引っかかる。
「リリアン。もういねぇかもしれんが、一応調べとけ」
「Yes、リーダー」
しばらくして、首が横に振られた。
「100mでは引っかからないわね。ちょっと自信ないけど、150……200mまで行ってみる」
額を汗が伝う。索敵に適性のないオレには、その感覚は分からねぇ。《索敵酔い》って言葉くらいは知っているが。
「150mも異変なし。下位魔物の群れはいるけど、生息域は正常。はぁ……200――」
リリアンの膝が揺らいだ。トーマスがすぐに肩を抱き、崩れかけた身体を支える。
「嘘でしょ」
両手で目を覆い、身体を丸める。あれほど正確だった報告が止まった。
「リリアンさん?」
「なんで……こんな……」
レイモンドが立ち上がる。オレも剣へ手をやった。
「何がいた」
「南西、200m……」
震える唇から、それだけが落ちた。
「竜」
「竜種だと? こんな所にいるはずがない!」
「あたしの索敵が嘘だって言いたいの?」
リリアンが睨み上げる。その目にも涙が浮いていた。
「あんなの、感知したことなかった。こんなに怖いなら……感知したくなかった」
「大丈夫。息をゆっくり吐いて。ね?」
トーマスが背を支え、呼吸を促す。
レイモンドが振り向き、オレを見て息を詰めた。
言葉を探すように唇が動く。オレの手元――剣を握った指へ目が落ち、すぐに逸れた。
「先に言うぞ。今すぐ帰還して、ギルドとギルド連盟に報告するべき異常事態だ」
「ああ」
「僕も同意見です。リリアンさんはもう戦闘不能ですし、彼女を連れて歩く僕も、戦闘には参加できません」
「……そうだな」
意地張って死んだら元も子もねぇ。報告すれば調査が入る。必要なら討伐依頼も出る。
分かってる。
分かってるのに、柄を握った指が緩まない。
「帰ろう。ネステン教官なら、即時撤退を推奨するはずだ」
――あ?
「お前らは撤退して、報告でもなんでもしてろ」
「ピュロス!」
「黙れよ、腰抜け」
睨んだレイモンドの顔が歪む。
上階から見下ろしていた、あの目がちらついた。
「ピュロスが行くなら、私は行くわ」
「リリアン、お前まで!」
リリアンの震えは止まらない。それでも目だけは、まっすぐだった。
「要救護者がいるのに、僕も戻れません。ただ、本当に危険ならリリアンさんを引きずってでも帰りますからね!」
「なんなんだ、お前ら……!」
レイモンドが髪を掻きむしる。
「頭おかしいんじゃないのか!? オレたちはただのLv2冒険者のパーティだぞ! 相手は竜種! 制度上も、実力的にも、竜種に挑むなんてあってはならない!!」
レイモンドがオレを見る。何か言いかけ、今度はリリアンへ顔を向けた。
「リリアン! 君は戦えるのか!? 索敵しただけでその状態なのに、目の前にして何ができる?!」
リリアンはトーマスの手を借りて立った。
「なぁ、トーマス。君ならオレの言ってることが正しいって分かるだろ? なぁ、君もピュロスに言ってやってくれよ。なぁ?」
トーマスは顔を歪め、首を振った。広げた救護道具を、袋へしまう。
オレは傍らの剣を拾い、南西へ足を向けた。
「くっそぉおおおおおっ!!」
背後で怒鳴り声が上がる。
「バカだ! 非合理だ! 全部間違ってる! だが、そんなバカ共を……仲間を見捨てるようなクズに、オレをしないでくれよ!」
駆け寄ってきた肩を受け止める。誰にも聞こえねぇくらいの声で、それだけ返した。
「――世話かける」
荒地の先で、木々が増えた。
血の臭いがする。
幹の間に、桃色を帯びた橙色の巨体が見えた。小さな翼。成竜の縞模様は、まだない。
竜の幼体。
右脇腹には、大きな傷が開いていた。欠けた外皮の下に丸く裂傷が並び、呼吸のたび血が落ちる。
閉じた瞼。折り畳まれた四肢。
最初の一撃を、あそこへ。
トーマスとリリアンを後方へ下げた。二人は通ってきた足場を確かめ、救護と退路の準備にかかる。
レイモンドは幼竜の右脇腹に近い木陰へ回った。
すぐに姿も、動く枝も見えなくなる。
上出来だ。
幼竜へ向き直り、脚から肩、腕まで魔力を通す。
《身体強化》――最大出力。
ロックワームを裂いた手応えが、まだ手に残っていた。
踏み込む。
地面が爆ぜた。
跳ぶ。剣を頭上へ振り上げた。
瞼が開く。
「――兜割り!」
尾が視界を塞いだ。
「がっ――!」
横っ腹を打ち抜かれ、枝をへし折り、幹へ叩きつけられた。
吐いた息が戻らねぇ。剣を握ったまま、膝をつく。
《身体強化》の最大出力で、これかよ。
幼竜が傷を庇って身体を起こした。漆黒の瞳がこっちを向く。
開いた口から、咆哮が迸った。
「――――――ッ!!」
枝葉が吹き散る。200mは離れていそうな林から鳥が飛び立ち、岩陰ではコウモリの群れが噴き出した。
耳鳴りの中、オレは立つ。
ほんの一瞬、あいつの消えた木陰へ目をやった。もう、動ける位置にいるはずだ。
視線を戻すと、漆黒の瞳がオレを見据えていた。
「……いいねぇ」
剣を構えた先で、竜が地面を蹴った。
顎。
沈み込んだ頭上で、歯が噛み合った。抜けようとした先に尾が来る。
剣で受けた衝撃が、両足を浮かせた。
「二度も食らうかよ!」
着地と同時に踏み込み、前脚へ刃を走らせる。
浅い。硬ぇ。
爪が土を抉った。飛んだ石に頬を切られながら、その横を抜ける。
右脇腹が見えた。
剥き出しの肉。丸く並んだ裂傷――噛み傷か?
レイモンドも、見てるはずだ。
爪を避け、前へ踏み込む。硬い外皮に刃を弾かれたが、退かない。
首をこっちへ向けさせる。その右脇腹を、木陰へ晒す。
こいつ、止まらねぇ。
弾いても次。潜っても次。息を吸う隙間まで、巨体が潰しにくる。
あいつはまだ動かない。
そっちを確かめたくなって、堪えた。
任せたんだろうが。
「ほら! オレ様はこっちだ!」
開いた顎を引きつけ、横へ抜ける。追ってくる前脚へ、もう一太刀。
傷口が木陰を向く。
その向こうから、何かが飛んだ。
来た。
身を伏せる。幼竜の左側で轟音が弾けた。
竜の顔がそちらへ向く。
反対側の木陰から、レイモンドが飛び出した。
取った――。
幼竜の尾が跳ねた。
「レイモンド!」
レイモンドの鼻先を尾が抜ける。捻った身体を、しなった先端が打った。あいつは肩口から転がり、木の根元へ消える。
幼竜は、まだそっちを見ていねぇ。
声も出してねぇ。姿だって――。
あの一瞬。
立ち上がった時、オレが木陰へ目をやった。
――見てやがったのかよ。
幼竜の首が、木の根元へ向いた。
レイモンドが身体を起こしかけ、崩れる。
「こっちだろうが!」
踏み込んで前脚を斬った。刃を弾かれ、そのまま幹の陰へ転がり込む。
追ってきた顎が木を噛み砕いた。折れた幹に押され、白いローブが土を擦る。
振り向きざま、右脇腹が見えた。
いける――。
剣を引いた途端、爪が来た。
飛び退く鼻先を抜け、傷口を隠すように前脚が地を掴む。
くそ。見えてりゃ、刺せるってもんじゃねぇ。
「ピュロス!」
木の根に手をつき、レイモンドが立ち上がる。片腕を押さえたまま、幼竜の右脇腹へ向かった。
傷のある側。
首がそちらへ動いた。
オレは左へ踏み込む。
振り下ろされた爪へ、両手剣を斜めに合わせた。重い。受け止めず、外へ滑らせる。
その懐へ入る。
「こっち見ろ!」
顎が下りてきた。
引きつけて、横へ。歯が肩口を掠める。
「レイモンド!」
「分かってる!」
傷口へ迫るあいつを追って、幼竜が首を捻った。
尾が浮く。
今度は、レイモンドもそっちを見ていた。
「また食らうかよ!」
低く潜った背中の上を、尾が薙いだ。
その間にオレは胸の前を抜け、幼竜の右前脚へ回り込む。
レイモンドは身を起こし、さらに脇腹の後ろへ踏み込んだ。
あいつを追って、竜の首が捻れる。
こっちへは、右前脚が振り上がった。
爪を潜る。傷口を隠していた前脚が、頭の上を抜けた。
「ピュロス、今だ!」
「見えてる!」
剥き出しの肉へ、剣を突き立てた。
手応え。
竜が絶叫する。
「うぉっ!?」
柄を握ったまま、身体ごと持ち上げられた。
空。幹。地面。視界が振り回される。
「ちょ、待て待て待て!!」
「離せ、ピュロス!」
くそ、腕が千切れる!
迫った幹から脚を畳み、地面へ叩きつけられる寸前、また宙へ振られた。
怖ぇ。
怖ぇよ、クソ。
こんなもん、人間が戦う相手じゃ――。
奥歯を噛んだ。
誰が言ってんだ。
オレ様だぞ。《竜殺し》になる男が。
「こんなところで、泣き言言ってられっかよ!!」
剣を離す。
放り出された身体を捻った。胴に残った刃は、まだ浅い。
脚、腹、背の魔力を絞る。右腕へ。
暴れる胴が、こっちへ戻ってくる。
突き出した柄頭が、拳の先を横切った。
「もっと奥まで――」
叩く。
「行ってろ!!」
ガンッ!!
剣が根元まで沈んだ。
竜が跳ねる。噴き出した血が、顔を打った。
右腕へ集めた魔力を戻す。全身へ。間に合え――。
「がっ!」
竜の胴が胸を打ち、背中から地面へ叩きつけられた。
「――っ、ぁ……!」
胸の奥が焼ける。息を吸おうとしただけで、目の奥が白くなった。
手をつく。膝を立てる。
もう一度、手をつく。
「ピュロス!」
「うる、せぇ……」
立った。
幼竜も、立っていた。腹に刺さった剣から血が流れ、一歩進むたび地面を染める。
二歩。三歩。
右前脚が沈み、巨体が傾いた。すぐに踏ん張る。
「右だ。傷のある側が落ちてる!」
レイモンドが片腕を押さえ、こっちへ来る。足も引きずっていた。
「剣を取り返す」
「どうやって?」
「考えろ」
「この野郎……!」
竜が吠える。レイモンドの目が、刺さった剣へ走った。
「オレが左。お前は右へ回れ!」
「最初からそう言え」
「今考えたんだよ!」
走り出したレイモンドへ、竜の頭が向いた。
オレは右へ。
一歩ごとに胸が軋む。脇腹は、すぐそこだ。
「うぉっ!」
レイモンドが顎をかわした。転がった背中を、爪が追う。
「早くしろ!」
柄へ手を伸ばす。
竜の首が、こっちへ動いた。
「まだだ!」
鼻先で、何かが弾けた。
地面に片膝をついたレイモンドが、もう次を拾っている。
「石かよ!」
「文句言ってる場合か!」
柄を掴んだ。
抜けねぇ。両足を踏ん張り、引く。
「返せ!!」
肉を裂いて、剣が抜けた。噴き出した血に、腕が濡れる。
「取った!」
「じゃあ逃げろ!!」
もう顎が来ていた。
身を沈める。歯が髪を掠めた。上がった前脚から、横へ――。
間に合わねぇ。
竜の右前脚が沈んだ。
傾いた身体から爪が振り下ろされ、オレのすぐ横を抉った。
「……っ!」
土を浴び、後ろへ跳ぶ。
右脇腹から、まだ血が流れていた。
「ピュロス、離れろ!」
言われなくても。
走ろうとして、胸が引き攣った。
背後で地面が鳴る。
「……マジかよ」
振り返った先に、開く顎。
剣を構える。あんなもん、受け止められねぇ。
右前脚が、沈んだ。
巨体が傾く。
切っ先の向こうへ、首が落ちてきた。
「ピュロス!!」
「見えてる!」
踏み込む。顎の下へ。
歯が迫る。剣を突き上げた。
「――ッらぁああああ!!」
入った。
それでも止まらねぇ。
残った魔力を右腕へ。押し込む。
「入れぇえええええ!!」
刃が沈む。
顎が、止まった。
熱い息。血の臭い。
歯が、頬のすぐ横にあった。
「……もう、いいだろ……」
巨体が沈む。
剣を離して転がった。
ズン、と地面が揺れる。
鳥の戻らない森に、土埃だけが舞っていた。
「……ピュロス」
「……」
「ピュロス!」
「聞こえてる……」
レイモンドは木にもたれたまま。オレの脚は、もう立ち上がりそうになかった。
「……勝った?」
「……たぶん」
「たぶんで答えんなよ……」
「お前が言うな……」
笑って、胸を押さえた。
痛ぇ。
息をしてるだけで、痛ぇ。
それでも、倒れた竜から目を離せなかった。
なぁ、《竜殺し》。
オレ様も――。
今日、竜を倒したぞ。
風が血と臓物の臭いを運んできた。
レイモンドが、森の奥へ目をやる。
「……来ねぇな」
「トーマスたちか」
「ああ」
「あれだけ待ってろって言ったからな」
「素直かよ……」
「いいことだろ……」
「今だけは悪いことだよ……」
笑いかけて、二人揃って呻いた。
「《痛覚鈍化》……」
魔力を巡らせる。少しだけ、痛みが遠のいた。
「効いてるか?」
「効いてこれだよ」
「オレも……」
レイモンドが腰を浮かせ、また木へ戻る。
杖にしたい剣は、竜の喉に刺さったままだ。取りに行く足さえ動かねぇ。
枝を踏む音に、二人で顔を上げた。
速い。
剣を探して竜を見た。腕を上げかけて、やめる。
「ピュロス!! レイモンド!!」
飛び出してきたトーマスが、倒れた竜とオレたちを見比べた。
「……生きてる?」
「見りゃ分かるだろ」
「分かんないよ!!」
駆け寄り、膝をつく。
「怪我人、動くな!」
「動けねぇよ」
「そう? じゃあちょうどいい。痛い?」
「全部」
「レイモンドは?」
「全部」
「一緒かよ!」
胸、腹、腕。声は震えてんのに、触れてくる手は止まらない。
回復魔法が流れ込み、ようやく息を深く吸えた。
「……リリアンは?」
「帰還ルートを確かめながら来てます。竜の影響で周囲は比較的安全そうだったので、僕だけ先に」
「――ピュロス!」
声に振り向く。木々の間から現れたリリアンが、膝へ手をついた。
「よかっ……た……二人とも、死んだかと思った……」
「勝手に殺すな」
「誰のせいよ!!」
頭を叩かれた。
「いてぇ! 怪我人だぞ!」
「心配させた罰!」
「僕が治療してる横で、怪我増やすことは許さない!!」
トーマスに、二人まとめて叱られちまった。
レイモンドが吹き出す。リリアンも、トーマスも笑った。
オレも笑って、胸を押さえる。
「いっ……!」
「だから動くなって!」
何度も治療を受け、休んだ。身体を起こせるようになってから、支えてもらって剣を回収した。それだけで、また座り込む。
日は傾き、帰還予定時刻はとっくに過ぎていた。
「ピュロス、立てる?」
「誰に向かって聞いてんだ」
剣を地面に突いて立つ。視界が揺れた。
「立ててないじゃない」
「立ってはいる」
「揺れてる」
レイモンドもトーマスの肩を借りて立ち上がった。
「お前、ダセぇな」
「お前もリリアンに掴まれ」
「断る」
「じゃあ、もう倒れろ」
「てめぇ」
トーマスは青い顔をしている。リリアンの足取りも、まだ怪しい。
四人とも、ひでぇ有様だ。
「……忘れてた」
竜へ引き返すと、三人が揃って声を上げた。
頭に生えた角へ、剣を当てる。
竜角。竜種討伐の証だ。
「それ、今やるのかよ」
「置いて帰れるか」
腕が震えて刃がずれた。何度もやり直し、最後はレイモンドまで手を貸す。
二人がかりで外した角は、ずしりと重かった。
抱えて歩き出し、よろめく。
リリアンに腕を掴まれた。今度は振りほどかなかった。
「帰りましょ」
「ああ」
帰還予定時刻は、もう過ぎている。
戻らねぇオレたちのために、ギルドが救護と捜索の人員を出す。助けられる側だ。
抱えた竜角を握り直した。こんなもんまで手に入れて、歩く速さひとつ上がらねぇ。
沈んでいく日を見ながら、それでも四人で足を進めた。
「誰一人欠けなくて、良かった」
その言葉が、暗がりへ消えた。
*
四人がバルムンクの救護詰所へ辿り着いた時、捜索隊はすでに出発していた。ギルド連盟への報告も、内密に済んでいた。
「……ピュロスたちか?」
担架を取りに走る者の傍らで、居合わせた冒険者が足を止めた。
血に濡れた白いローブ。仲間の肩を借りて、なお揺れる足。
四人の顔を確かめた男が、持っていた剣を壁へ立てかけた。
「何とやり合った」
ピュロスの抱えた竜角へ目が落ちる。
次の言葉は出なかった。
斥候の少女は、魔力がほぼ枯渇。限界を超えた索敵による重度の索敵酔いを起こしており、継続的な治療が必要と判断された。四人の中では最も負傷の軽かった回復術師も、魔力枯渇状態。加えて極度のストレスと疲労が認められ、そのまま入院となった。
分析役を兼ねる前衛の男は、全身打撲に複数箇所の骨折。内臓にも軽度の損傷が認められた。帰還まで持ちこたえたのは、道中も同じパーティの回復術師が治療を続けていたためだった。長期入院となる。
ピュロスに至っては、救護詰所へ着くなり吐血していた。
全身打撲に複数箇所の骨折。竜の攻撃を受けた胸では肋骨三本が粉砕し、肺まで損傷していた。
バルムンクでの処置だけでは危険と判断され、通常の依頼経路を通さず、回復術を専門とする術師へ治療が委託された。
二日後、ピュロスは状態を安定させ、バルムンクの救護詰所へと戻ってきた。その状態を確認した救護詰所長は、後日こう報告している。
「――ここまで安定した状態で戻ってこられたのは、奇跡としか言いようがない」
*
ピュロスが救護詰所に戻って、四日後。
「この、大馬鹿者共がぁ――っ!!」
救護室を飛び越えた怒号に、訓練所の冒険者まで背筋を伸ばした。中には反射的に、
「申し訳ありませんでした! ネステン教官!!」
と謝った者までいた。
「レイモンド! お前がいながら、この撤退判断の遅さはなんだ!」
「も、申し訳ありません!」
「私に謝ったら事故はなくなるのか、馬鹿者が!」
「は、はいっ!!」
ネステンは足を吊り上げられながら寝ているレイモンドにも、容赦がなかった。
「トーマス」
「ぴ、ぴゃい!」
「貴様は仲間の傷を癒し、仲間を死地に送ることが仕事だったのか?」
「…………!」
トーマスはびくっと肩を震わせ、目いっぱいに涙を溜めながら俯いた。ネステンは鋭い眼光をリリアンへ向ける。
「私は貴様の索敵の繊細さ、いかなる場面でも冷静な判断ができるところを買っていたのだがな。初めから学び直せ、馬鹿者が」
「申し開きもございません」
リリアンは深く頭を下げた。
「小僧」
ピュロスはベッドの上から睨み返した。
「幼竜を倒したそうだな」
「そうだ」
「見事だ」
返すはずだった言葉が、喉で止まる。
ネステンの顔に、皮肉はなかった。
「……なら、何が気に食わねぇ」
「お前の指揮だ」
ピュロスの眉が寄る。
「レイモンドの分析は退けて、戦い始めれば頼るのか」
布団の上で、指が曲がった。
レイモンドの方へは、目を向けなかった。
「……倒しただろ」
「次も、同じ四人で倒せるか」
言い返そうとして、息が詰まる。
宙へ振られた身体。指の先を通った柄頭。頬の横で止まった歯。
「じゃあ、ジジィはオレが竜を殺さなければ良かったって言いてぇのか!?」
「違う。一度退き、整えてから倒せばよかったのだ」
ネステンは踵を返した。
「そんな判断もできぬうちは――」
扉に手をかける。
「お前はまだ、Lv2なのだ」
ピュロスは口を開き、閉じた。
吊られたレイモンドの足が、視界の端で揺れていた。
扉が閉まる。
布団を掴んだ拳は、しばらくほどけなかった。
*
「せい!」
「はっ!」
活気づくバルムンクの訓練場。そこには、ようやく復帰したピュロスやレイモンドの姿もあった。
「せい!」
「せい!」
「はぁあ!」
ピュロスはあれから、《幼竜殺し》と呼ばれることがあった。そのたびに、呼んだ相手を睨み返して黙らせた。やがて、その呼び名も消えた。残ったのは――実力ある、生意気な新人。それだけだった。
「……ギルド長」
その一言で、剣を振る音が途絶えた。
「…………」
「――!」
討伐へ向かう出で立ち。脇には副ギルド長。索敵隊の精鋭二人。そして、ネステンの姿。その中央を歩く男。《竜殺し》。ピュロスは、その男と目が合った。
「今日はテオドシウス防衛圏を越えた先の竜種討伐らしいぞ」
「なんでも、ギルド連盟から名指しの依頼らしい」
「かっけぇ、しびれる、憧れるぅ!」
視線が交わり、切れた。
《竜殺し》は足を止めず、訓練場を通り過ぎていく。
「……ピュロス?」
誰よりも早く剣を振り始めたピュロスに、レイモンドが気づく。討伐へ向かう《竜殺し》を送りながら、その姿を見たネステンは嬉しそうに笑っていた。




