《ヤドリギ条約》
胸元の紋章に、また触れた。
昨日も、今朝も確かめた。なくならないのは分かっているのに、硬い感触が指に触れるたび、頬が緩む。
――Lv.1。
私も、リナも。正式な冒険者だ。
「エレナ、見て!」
隣から声が飛んできた。
「これ、良くない?」
「んー、どれ?」
リナが指差している依頼書を覗き込む。近郊農地に現れた角兎の討伐。数は五匹前後。畑の作物を荒らしているらしい。場所は街から歩いて一時間ほど。討伐証明は右耳。報酬は――。
「結構いいでしょ?」
「報酬で決めたでしょ」
「え?」
「顔に書いてある」
「ちゃんと内容も見たよ!」
怪しい。私はもう一度、依頼書を上から読み直した。角兎なら、訓練でも何度か相手にしている。行動パターンや特性も習った。うん、覚えてる。名前の通り、額から一本の角を生やした兎型の魔物だ。
臆病で、こちらから近づけば逃げることが多い。ただし、追い詰めると途端に攻撃的になり、角を向けて突進してくる。厄介ではあるけれど……。
うん、二人で対応できない相手じゃない。
「……いいと思う」
「やった!」
「でも、受付で確認してから――」
「ムニンさーん! これに決めたー!」
「あ、ちょっとリナ!」
依頼書を手にしたリナが、もう受付へ走っていく。カウンターの向こうで、ムニンさんが顔を上げた。
「ロビーは走らないの」
「はーい!」
返事だけは素直だった。私は小さく息を吐いて、その背中を追う。たぶん、私も同じくらい浮かれている。
今日は指定された訓練じゃない。自分たちで選んだ依頼に、自分たちだけで向かう。胸元の紋章にもう一度触れて、私も少し足を速めた。
*
「――あんたらが、連盟から来た冒険者さん?」
「はい!」
元気よく答えたリナの隣で、私も頭を下げた。
「依頼を受けたリナです。こっちはエレナ」
依頼人は、畑仕事の途中だったらしい。日に焼けた顔のおじさんが、手にしていた鍬を地面へ置く。
「そうかそうか。いやぁ、助かったよ。昨日もまたやられてなぁ」
近づいてきたおじさんは、私たちを見て少し目を丸くした。
「女の子二人で大丈夫か? 角兎は、あの角が危ないだろう」
「はい! ギルドで討伐訓練も受けてます!」
リナが胸元の紋章を見せると、おじさんは「ああ、ヤドリギの」と頷いた。
鍬を握る手は傷だらけだ。角兎に畑を荒らされる怖さを、私たちより知っているんだろう。それでも、できるかどうかは見てから決めてほしい。
そう言う代わりに、私は畑の奥へ目を向けた。
「おじさん」
「ん?」
「畑を見せてもらってもいいですか?」
「ああ。それはもちろん」
案内されて、畑の奥へ向かう。食い荒らされた葉。土の上に残った、小さな足跡。しゃがみ込んで確認する。新しい。いくつも重なっているけれど、大きさにはそれほど差がない。指先で土を少し崩してみる。
「エレナ?」
「昨日だけじゃないと思う。今朝も来てる」
「なにぃ? それは気づかなかった」
おじさんは、そう言って頭を掻いた。
「ここ。周りの足跡より、縁が崩れてない」
立ち上がって、畑の向こうを見る。草地。その先に低い茂み。隠れる場所は多い。
「角兎、向こうから来るんじゃないですか?」
「え、ああ。そうだ。足跡だけで分かるのか。頼もしいなぁ」
おじさんは目を丸くしていた。
「じゃあ行ってみよっか」
「うん」
背中から短弓を下ろし、矢筒の位置を確かめる。リナも腰の剣を確かめていた。後ろから、おじさんの声がした。
「おーい、危ないと思ったら、無理しなくていいからな!」
少しだけ振り返ると、おじさんは純粋に心配してくれているようだった。少し進むと、リナが横に並んだ。
「私たち、そんなに頼りなく見えるかなぁ」
「紋章をつけたからって、急に背が伸びるわけじゃないしね」
「エレナはもう高いじゃん」
「そういう話?」
リナが笑って、それから剣の柄を確かめた。
「ちゃんと仕事して帰ろうね」
「うん。無事にね」
茂みの手前で足を止める。私が手で制止する前に、リナもすでに止まっていた。葉の隙間に、白いものが動いた。
「いた」
声を落とす。リナがすぐに腰を沈めた。
「何匹?」
「三――」
違う。奥で草がわずかに揺れた。茂みの奥までは見通せない。動いた葉の位置を、もう一度確かめる。
「五匹。――いえ、たぶん、もう一匹いる」
「六匹だね。エレナを信じるよ。どうする?」
風はこっちへ吹いている。まだ気づかれていない。右は畑。その向こうには、さっきの家。左は背の高い草地。
「私が奥を狙う。リナは畑側を塞いで」
「了解」
「家の方には行かせないでね」
「任せて」
リナが音を立てずに離れていく。私は奥の一匹へ狙いを定め、矢を放った。
白い腹が跳ねて、茂みへ沈む。残った影が一斉に散った。
「リナ、右!」
「分かってるー!」
突っ込んできた角を、リナが抜きかけの鞘で逸らす。振り向きざまの一閃で、一匹を仕留めた。
「後ろ!」
続く一匹へ放った私の矢は、土を抉った。
「ごめん!」
「反省はあとで!」
リナが伏せる。その頭上を角兎が跳び越えた。
転がって距離を取り、追ってきた角を剣の腹で受け流す。踏み込んだ剣が、今度こそ白い身体を捉えた。三匹。
左の草が揺れ、私は弓を向けた。けれど、そこにはもう何もいない。
「エレナ!」
声と同時に、足元から白いものが飛び出した。
「っ!」
後ろへ跳ぶと、角が靴先を掠めた。
弓では間に合わない。手放して小刀を抜く間にも、角兎は次の突進に移っていた。正面で受けたら負ける。地面を蹴った瞬間を狙い、私は低く身を投げた。頭上を白い影が抜けていく。
土まみれで起き上がる。向こうも、もうこちらを向いていた。後脚が沈む。次に跳ぶ、その前に。
「――っ!」
今度は私から踏み込み、小刀を突き出した。
手応えとともに、角兎が倒れる。
「エレナ!」
「大丈夫!」
「そっち行った!」
白い影が一つ、畑へ飛び込んだ。
「リナ、畑!」
「おっけー!」
リナが追う。角兎が畝を飛び越える。リナも続いた。
「あっ!」
柔らかい土が跳ねた。角兎が苗を踏み、リナの靴が畝の端を崩す。私は弓を拾い上げた。矢をつがえる。狙って――止めた。駄目。射線の先に民家がある。
「リナ、左!」
「うん!」
リナが大きく回り込む。角兎が進路を変え、家から大きく離れる。今なら――。放つ。矢が後脚を掠めた。甲高い鳴き声。けど、倒れない。そのまま畑を抜け、草むらへ飛び込んでいく。
「追うよ!」
「待って!」
草むらの方へ走り出そうとするリナを制止する。私は拳を強く握りしめていた。
「でも!」
「でもじゃない。深追いしない。ここから先の地形、見てないでしょ?」
リナは少しだけ納得のいかない表情を浮かべた。それでも、小さく頷いた。二人で草むらを見る。血の跡が少しだけ続いている。でも、その先は分からない。
「……逃げられちゃったね」
「うん」
悔しい。だけど、追うべきではない。私たちはその後、周囲をしっかりと見回した。もう、動くものは見えなかった。
「任務完了ね」
「いやぁ、嬢ちゃんたちありがとう!」
おじさんは、並べた討伐証明を見て、そう労ってくれた。私たちの顔は、少し浮かない。
「あんなにいて、大変だっただろう? ありがとな」
「でも、二匹逃がしました。一匹は怪我をさせただけで……」
「畑も、少し……ごめんなさい」
崩れた畝を見る。角兎が踏み荒らしたところ。リナが追いかけて、崩してしまったところ。最初より、少しだけ畑が傷んでいる。
「何言ってんだ! こんなのどうってことないって」
おじさんは笑った。
「毎日食われ続ける方がよっぽど困る。これくらいなら昼飯までには直せるさ」
「……すみません」
「謝ることない。二人とも怪我してなくて良かった」
「ありがとうございます!」
「いやぁ、女の子二人で大したもんだなぁ!」
「えへへー、ありがとうございます!」
リナが嬉しそうに笑う。私も頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ちゃんと嬉しかった。依頼を終えて、二人とも怪我なく戻ってこられた。
それでも、崩した畝や逃がした角兎を見ると、もっと上手くできた気がする。女の子二人で、大したもの。その言葉にも、まだ少し引っかかっていた。次はただ「任せてよかった」と言ってもらえたら嬉しい。
*
帰り道。
「初依頼、成功だね!」
前を歩くリナが振り返った。
「……うん」
「次、何にする?」
「もう次の話?」
「だって、楽しかったでしょ?」
私は少し考えてから、
「……楽しかった」
と答えた。それは、本当だった。だから余計に。次は、もっと上手くやりたいと思った。
*
「ムニンさーん! ただいまー!」
ギルド連盟に戻るなり、リナが受付へ駆けていく。
「おかえり。で、どうだった?」
「六匹いて、四匹倒しました! 一匹は怪我させたけど逃げられて、もう一匹は――」
「待って待って。報告はエレナにお願いしようかな」
「なんで!?」
私は苦笑しながら、討伐証明をカウンターに並べた。畑を少し荒らしてしまったことも、逃げた角兎を追わなかったことも伝える。
「うん。深追いしなかったのは正解。依頼人からも問題なしって言ってもらえてたわよ。――初依頼、達成ね」
ムニンさんが報告書に印を押す。
「お疲れさま、二人とも」
「やったー!」
喜ぶリナの隣で、私もようやく少しだけ笑えた。
その夜、装備を外していると、下腹部に鈍い痛みが来た。腰も重い。
この感じには覚えがある。
「……今日かぁ」
明日もリナと依頼を探す約束をしていたのに。
私は着替えを取りに立って、ついでに予定を確かめた。明日は、休みにしよう。
*
「エレナどうしたの、顔色悪いよ?」
「うん、ごめん。ちょっと今日からで……」
「そっか。じゃあ今日はソロで行けるやつにしようかなぁ」
「ソロ? ソロはまだ……」
ソロの冒険者が受けられる依頼も、もちろんある。特に私たちLv1でも受けられるものなら、安全な場所での警護や、荷運びなどの力仕事。難易度の低い討伐依頼なんかもあるけれど、ギルド連盟はソロでの討伐を推奨していない。
一人では、ちょっとした事故がそのまま帰れない理由になるからだ。
「んー、じゃあパーティ組むかぁ」
リナが振り向いた。その先にあるのは、臨時パーティ用の待機所。ソロの冒険者や、人数の足りないパーティが、その依頼の間だけ一緒に行動する仲間を探すための場所だ。
「最初はエレナと一緒が良かったけど、一人でパーティ探してみようかな」
待機所には、装備を確かめながら話す男の人たちがいた。
リナはもう、どの輪に声をかけようかと見回している。
「依頼の内容と、自分の役割は先に確認してね」
「分かってるって。ムニンさんにも見てもらうよ」
それなら大丈夫だろう。知らない人と組むのは私も初めてだけど、リナは楽しみの方が大きいらしい。
「あんまり無理しないでね?」
「今日のエレナさんには、そのまま返すよ」
「む……」
リナは笑って手を振る。
「じゃあ、行ってきます!」
「……いってらっしゃい」
そのまま、リナは待機所へ向かっていった。私は、いつも通り明るく喋っているリナの様子を少しだけ確認してから、ギルド連盟を後にした。
*
帰り道に薬屋へ寄って薬をもらい、家に着くと、そのままベッドに倒れ込む。
「……うぅ」
重い。今日は、とてもじゃないけど冒険に出られそうになかった。出発前に分かった今日は、まだよかった。冒険の途中でこうなったら、どうすればいいんだろう。
「……その時、どうするんだろ」
今まで、考えたこともなかった。ベッド脇の小さな机からコップを取り、薬を飲む。薬の残りは少ない。次に買う時、持ち歩き方も薬屋で聞いてみよう。
そこまで決めて布団を引き寄せた。今日の仕事は、休むことだ。
*
「君、一人?」
待機所で声をかけてきたのは、三人組の冒険者だった。
「はい! 今日は一人です」
「俺たち、ちょうど前衛を一人探してるんだ。よかったらどう?」
声をかけてきた人は朗らかな表情。ギルド紋章も見たことがあるところだった。
「前衛ならできます! どんな依頼ですか?」
「お、乗り気だね」
「まずは内容からだな」
三人が笑う。依頼は、街道沿いに現れた魔物の討伐。受付で手続きを済ませ、簡単に役割を確認して出発した。街を出てしばらくすると、一人が私の荷物を指差した。
「それ、持つよ」
「え? 大丈夫ですよ?」
「いいって。女の子には重いだろ」
「んー、そうですかね?」
「無理にとは言わないけどさ」
「じゃあ、帰りに疲れたらお願いします!」
自分の道具だから、重いと思ったこともなかったけど。道中で使う道具もあるし、ひとまず自分で持っていくことにした。
*
「いたぞ」
前を歩いていた人が足を止める。少し先の岩陰に、魔物が二匹。私もすぐに剣へ手をかけた。
「リナちゃんは、右を頼む」
「はい!」
一匹がこちらへ顔を向けた。低く身体を沈める。来る。私も腰を落とした、その時。
「下がって!」
「え?」
横にいた一人が、私の前へ出た。剣を抜き、飛び込んできた魔物の爪を受ける。
「あ、悪い。咄嗟に庇っちまった。右から回ってもらえるか」
「――はい!」
一瞬だけ遅れて、私も動いた。大きく右へ回る。魔物は目の前の相手に気を取られている。その横へ踏み込んだ。
「行きます!」
「おう!」
剣を振る。魔物がこちらに気づき、身を捻った。浅い。刃が脇腹を掠める。魔物が後ろへ跳ぶ。追わない。一度距離を取り、剣を構え直す。
「もう一回来るぞ!」
「分かってます!」
魔物が地面を蹴った。今度は真っ直ぐ私へ。一歩だけ横へ。爪が目の前を抜ける。着地する瞬間を狙って踏み込む。
「はっ!」
剣が入った。魔物が地面を転がる。まだ動いている。起き上がろうとしたところへ、もう一撃。今度こそ動かなくなった。
「一匹!」
「いいぞ!」
声が飛んでくる。振り返る。もう一匹は二人が挟んでいた。
「リナ、逃げ道を塞いでくれ!」
「はい!」
さすが先輩冒険者だな。的確な指示が飛んでくる。私は、魔物の逃走経路を予測したポイントへ走る。それを見た魔物が、慌ただしく進路を変えた。
「そっち行きます!」
「ナイスアシスト!」
一人が正面から受ける。もう一人が横へ回る。私は後方へ抜けようとする道を塞いだ。魔物が一瞬迷う。その隙に、剣が入った。
「よし!」
二匹目が倒れる。私は周囲を確認してから、剣を下ろした。
「終わりましたね」
「ああ。お疲れ」
「お疲れさまでした!」
「右に回ってくれて助かった。また前衛が足りない時、頼んでいいか?」
「はい! でも、次はちゃんと任せてくださいね」
「分かった。最初は悪かったな」
みんなが笑う。私も笑った。依頼は無事に終わった。初めての臨時パーティーは、楽しかった。
みんなに剣の腕も褒めてもらえた。なのに、最初に庇われた時の戸惑いだけが、少し残っている。
*
「でね、最初だけ急に前に出てきたの」
「リナの前に?」
「うん。びっくりした」
数日後。エレナと一緒にギルド連盟へ向かいながら、この前の依頼の話をしていた。エレナの顔色もすっかり戻っている。
「でも、そのあとは普通だったよ。私も一匹倒したし!」
「へえ、おめでと」
「荷物も持とうかって言ってくれたよ」
「頼んだの?」
「ううん、自分で持った。帰りはちょっと疲れたけど」
「そこは頼めばよかったじゃない」
「だって、できるって言ったばっかりだったんだもん」
エレナが困ったように笑った。私は空を見上げながら、その時のことを思い返す。
「でも、楽しかったよ」
「そっか」
「みんないい人だったし!」
「うん」
少しだけ間が空いた。
「……でも、ちょっとだけ、なんか変だった」
「何が?」
「分かんない」
「分かんないんだ」
そう言って、エレナはぷっと吹き出した。
「だから話してるの!」
「あはは、ごめんて」
エレナが笑う。私もつられて笑った。
「まあ、いっか」
「いいの?」
「分かんないもん」
そんな話をしながら、私たちはギルド連盟の扉を開けた。
*
「今日はどれにする?」
「んー……」
ギルド連盟の掲示板を、上から順番に眺める。この前は角兎。その次は、リナが臨時パーティーに入って街道沿いの討伐。今日はまた二人だ。
「これとかどう?」
「薬草採取?」
「うん。場所もそんなに遠くないし――」
「それなら、こっちの護衛の方が報酬いいよ?」
「また報酬から見てる」
「大事でしょ!」
「大事だけど」
依頼書を一枚ずつ見比べる。どれも私たちが受けられるものだった。だからこそ、迷う。前までは、決められた依頼に参加するだけだったのに。選べるようになると、これはこれで難しい。
「ねえ、エレナ。これ――」
「だから嫌だって言ってるでしょ!」
リナの声を遮るように、大きな声が響いた。振り返る。臨時パーティー用の待機所。さっきまで何人かが話していた場所から、女の人の声がした。
「行こう」
「うん!」
リナはもう走り出していた。私もあとを追う。待機所には、数人の冒険者が集まっていた。その中心。
「だから、行かないって言ってるでしょ!」
「話くらい聞けって」
「聞いた! 断った!」
女の冒険者の手首を、男が掴んでいる。
「ちょっと!」
リナがその間へ飛び込んだ。
「手、離してください!」
「あ?」
男がリナを見る。
「なんだ、お前」
「嫌がってるじゃないですか」
「関係ねぇだろ。パーティーの話してるだけだ」
「だったら、手を掴む必要ないですよね?」
リナは退かない。男の手と、掴まれている女の人を交互に見る。私は周囲を見た。待機所。掲示板。受付側。近くに連盟の職員はいない。
「リナ」
「うん」
それだけで伝わった。リナが女の人の前に残る。私は受付へ走った。
*
「――ですから、次回の会議までには一度――」
「ムニンさん!」
声を上げてから、しまったと思った。ムニンさんは誰かと話していた。長い髪をまとめた女の人。服装はギルド連盟の職員より一段しっかりしている。でも、今は待っていられない。
「ごめんなさい、急ぎです!」
ムニンさんがすぐにこちらを向いた。
「どうしたの?」
「待機所で揉めてます。女の人が断ってるのに、男の人が手首を掴んでて。リナが今、間に入ってます」
ムニンさんの表情が変わった。
「分かった。すぐ――」
「私が行くわ」
隣にいた女の人が立ち上がった。
「え?」
「場所は臨時待機所ね?」
「は、はい」
「ムニン、ここお願い」
「畏まりました」
さっきまでとは違う、少し畏まった返事だった。女の人はそのまま歩き出す。私も慌ててあとを追った。速い。走っているわけでもないのに、迷いがない。
*
「パーティーの話だ。連盟は関係ないだろ」
戻ってきた私たちの前で、リナが首を振った。
「パーティーを組むかどうかの返事は、もうしてますよね」
「お前に話してるんじゃない」
「でも、この人は帰りたいって言ってます」
リナは女の人を背に庇ったまま、掴まれた手首へ目を向けた。剣には手をかけず、もう一度言う。
「手を離してから、話してください」
「だから――」
「待機所での勧誘なら、連盟にも関係があるわ」
女の人がリナの隣に立った。
「まず、手を離して」
男は眉を寄せたが、その手はまだ動かない。
「前にも組んだ相手だぞ。もう少し話を――」
「彼女にも確認させて」
女の人は、掴まれている冒険者へ顔を向けた。
「今日は組まないと伝えたのね?」
「はい。……三回、断りました」
「分かったわ」
返事を待ってから、男へ向き直る。
「臨時パーティーは、双方が合意して組むものよ。彼女が断った以上、勧誘はここまで」
「腕を掴んだくらいで、大げさだろ」
「待機所を使う冒険者には、誘う自由も、断る自由もある。断った相手を引き止めて、参加を迫ることは認められないわ」
女の人は、掴まれた手首へ視線を落とした。
「彼女があなたを振り払えるかどうかで、扱いは変わらない。ここを利用する条件に、相手より強いことは含まれていないもの」
声は静かだった。感情をぶつける代わりに、誰にも同じように適用される決まりを、一つずつ確かめていた。
「話を聞くことも、組むことも、本人が決めることよ。手を離しなさい」
男はようやく手を放した。
女の冒険者が一歩下がり、リナがその間に残る。
「……分かったよ」
男は掴んでいた手を引き、踵を返しかけた。けれど、すぐに振り向く。
「だいたい、あんたにそこまで言われる筋合いは――」
「よせって」
仲間の一人が男の肩を押さえ、声を落とした。
「連盟長のサミラさんだぞ。もうやめとけ」
――ギルド連盟長?
思わず女の人を見た。男も言葉を呑み、今度はそれ以上続けなかった。
「待機所で起きたことは、こちらでも確認するわ」
サミラさんはそう告げ、通路を示した。
三人が離れていくと、周りに集まっていた冒険者たちも、それぞれの場所へ戻り始めた。
「……大丈夫ですか?」
リナが振り返る。
「う、うん……」
女の冒険者は答えたけれど、まだ少し身体が強張っていた。掴まれていた手首を、反対の手で押さえている。サミラさんは、その人と目を合わせるように少し身を屈めた。
「手首、痛む?」
「いえ。大丈夫です」
「そう。落ち着くまで、奥で休んでいって」
さっきと同じ声なのに、今はずいぶん柔らかく聞こえた。
女の冒険者が頷くのを待って、サミラさんは歩き出した。私たちも一緒に受付へ向かう。
*
受付の奥には、職員用の小さな休憩室があった。壁際に並んだソファへ案内される。
「ムニン」
「はい」
「この後、お願いしてもいい?」
「もちろんです」
「じゃあ、私は戻るわね」
サミラさんは、女の冒険者を見る。
「何かあったら、遠慮なくムニンに話して」
「……ありがとうございます」
「うん」
さっきと同じ優しい笑顔を見せてから、サミラさんは部屋を出ていった。ギルド連盟長。もっと話を聞いてみたい気もしたけれど。たぶん、忙しい人なんだろう。
「さて、と」
ムニンさんが立ち上がる。
「ちょっと待っててね」
部屋の奥へ行ったかと思うと、しばらくして四つのカップを持って戻ってきた。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
「私たちも?」
「もちろん」
受け取る。温かい。
「ミルク?」
「そう。熱いから気をつけてね」
「わぁ」
リナが両手でカップを包む。私も一口飲んだ。ほんのり甘い。
「……おいしい」
「でしょ?」
ムニンさんもカップを手に、向かいのソファへ座った。しばらく、誰も喋らなかった。女の冒険者も、少しずつミルクを飲んでいる。さっきまで震えていた手は、もう落ち着いていた。
「あの――」
声が重なった。
「あ」
「あ……」
顔を見合わせる。リナが小さく笑った。それにつられて、女の冒険者も少しだけ笑った。さっきまで張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ気がした。
「あの、ムニンさん」
「うん?」
「こういうのって、珍しくないんですか?」
私が聞くと、ムニンさんは少し考えた。
「さっきみたいなの?」
「はい」
「あそこまで強引なのは多くないけど、相談はあるよ。だから、職員を呼んでくれてよかった」
ムニンさんが私を見て頷き、それからリナにも目を向けた。
「間に入ってくれたのも助かった。でも、相手が手を出しそうなら離れること。二人が怪我をしたら困るからね」
「……はい」
リナがカップに目を落とす。私も頷いた。隣の女の冒険者が、ぽつりと言った。
「私、あの人たちと組んだことがあって」
初めて、自分から口を開いた。
「前は普通だったんです。だから今日も声をかけられて、最初は話を聞いてて……」
「うん」
「でも、今日は受けたくない依頼だったから断ったら……」
掴まれていた手首を見る。
「……ああなって」
「そうだったんですね」
リナが呟く。
「知らない人じゃなかったんだ……」
「うん」
また少し、静かになる。
「私も、この前ここで臨時パーティー組んだよ」
「そうなの?」
「うん。先輩三人と」
女の冒険者がこちらを見る。
「みんないい人だったんだけどね。なんか……」
リナが首を傾げる。
「なんか?」
「分かんない」
「またそれ?」
「だって分かんないんだもん!」
思わず笑ってしまった。女の冒険者も、今度はちゃんと笑った。
「この前の依頼では、女の子二人で大丈夫かって心配されました」
私はカップを見ながら言った。
「角兎は倒せたんですけど、女の子二人で大したものだって」
「嬉しいけど、ちょっと引っかかる?」
女の冒険者に聞かれて、頷く。
「そう。普通に、仕事を見てもらえたらいいなって」
「私は、前衛を頼まれたのに庇われたのが変だったんだ!」
リナが顔を上げた。
「助けてもらうのはいいんだけど、剣を出す前だったから、あれって」
「それ、本人には言った?」
「次は任せてくださいって言ったよ。分かったって」
「じゃあ、次はきっと組みやすいね」
ムニンさんの言葉に、リナは嬉しそうに頷いた。あの依頼人も、リナの先輩たちも、心配してくれた。
今日、断った相手を掴んで離さなかった人とは違う。
「でも、こういう時って、どこまで言っていいのか迷います」
隣の女の冒険者が言った。
「今日も、前に組んだことがあるから、ちゃんと納得してもらわなきゃって……」
私にも少し分かる気がした。ありがたい気持ちがあると、違うと言いづらいこともある。
仲間のことも、体調のことも。冒険を始めてから、迷うことが増えていた。
「……自由に冒険するって、できないんでしょうか?」
思っていたより、頼りない声が出た。
「できるわよ」
返事はあっさりしていた。
「そのための窓口も、仕組みもあるわよ」
ムニンさんはカップを机へ置いた。
「女性冒険者保護制度と、ソロ冒険者保護制度」
私とリナが顔を見合わせる。女の冒険者も顔を上げた。
「正式には別々の制度なんだけどね。まとめて呼ばれることの方が多いかな」
「なんて?」
リナが身を乗り出す。ムニンさんは笑った。
「通称――《ヤドリギ条約》」
「え? 《ヤドリギ条約》?」
「困った時に相談したり、必要な支援を受けたり。女性も、一人で活動する人も、冒険を続けられるようにする制度ね」
ムニンさんが私たちの胸元を指差した。
ヤドリギの紋章。この条約を作ったのは、もしかして。
「誰が作ったんですか? もしかして」
隣を見る。リナは頭に「?」を浮かべている。ムニンさんは頷いて言った。
「現ギルド長さんが発案して、ギルド連盟長と一緒に制度化まで持っていったの」
やっぱり。スライム狩り様だ。
それに、ギルド連盟長のサミラさん……。
いや、サミラ様!
*相談窓口。ソロで活動する冒険者の行き先を記録して、必要な時に支援へ繋ぐ仕組み。臨時パーティーやギルドで問題があった時の対応。
説明を聞くうちに、思っていたより身近な制度だと分かってきた。
「体調のことで、依頼を休む時も相談できるんですか?」
「もちろん。無理して出発する前に声をかけてね」
それなら、次に薬屋へ行く時だけじゃなく、ここでも聞いてみよう。
冒険の途中で具合が悪くなったらどうするか。自分だけで考えなくてもいいらしい。
「……知らなかった」
リナが呟く。隣の女の冒険者も頷いた。
「全部を覚えなくても大丈夫。困った時は受付で、でいいの」
ムニンさんは空になったカップを机へ置いた。
「あなたたちの冒険は、自由であっていいの」
隣の女の冒険者が顔を上げる。
「誰と組むかも、今日は休むかも、自分で決めていい。断ったことで困ったら、私たちに話して」
「もちろん!」
ムニンさんが人差し指を立てた。
「適切な依頼の中で、適切なリスクを負うこと。これは絶対よ」
「あはは……」
「自由だからって、何してもいいわけじゃないからね?」
「はい!」
リナが元気よく返事をする。
「特にリナちゃん」
「なんで私!?」
「なんとなく」
「ひどい!」
女の冒険者が、くすっと笑った。私も笑う。相談先が一つ分かっただけで、少し肩の力が抜けた。
全部を一人で切り抜けられるようになってから、冒険者を名乗るわけじゃない。カップに残ったミルクを飲み干す。
次の依頼を選ぶ前に、聞いておきたいことがいくつかあった。
*
「じゃあ、私はこっちだから」
ギルド連盟を出たところで、女の冒険者が立ち止まった。
「あ、はい」
「今日は、本当にありがとう」
「いえ!」
リナが笑う。
「また待機所で会ったら、一緒に依頼行きましょう!」
「リナ」
「え?」
「早いって」
「あはは」
女の冒険者も笑った。
「でも、その時はお願いしようかな」
「はい!」
「じゃあ、また」
「またね!」
手を振って、別れる。その背中は、さっき待機所で見た時よりも少しだけ軽く見えた。
「私たちも帰ろっか」
「うん」
歩き出す。胸元で、ヤドリギの紋章が小さく揺れた。
「ねえ、エレナ」
「なに?」
「次、何の依頼にする?」
「もう探すの?」
「だって、自由に冒険していいんでしょ?」
「そういう意味じゃないと思う」
「あれ?」
思わず笑った。たぶん。私の足取りも、来た時より少しだけ軽かった。
*
後日。リナと一緒にギルド連盟へ行くと、女性冒険者から声をかけられた。
「あの!」
振り返る。
「あっ」
この前、待機所で会った女の冒険者だった。目が合うと、彼女は少し緊張した顔のまま、こちらへ歩いてきた。
「パーティー、組みませんか?」
「「もちろん!」」
彼女の名前は、ユーロ。小規模な商人ギルドに所属する冒険者で、私たちより少し先輩らしい。歳も近くて、三人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。
「今日は何にする?」
「せっかく三人なら――」
依頼掲示板の前で、リナが一枚の依頼書へ手を伸ばす。ちらっと見えた内容に、私はその手を見た。
「適切な依頼と、適切なリスクを?」
「……考えますー」
少し不服そうに、リナが依頼書を戻そうとする。
「んー」
横からユーロが覗き込んだ。
「でもこれ、あと一人後衛がいてくれればいけそうだけどなぁ」
依頼書を指でなぞる。
「エレナもそう思わない?」
「え? ――うん。まあ、人がいるならいけるけど……」
隣を見る。
「あれ? リナがいない」
いつの間にか、姿が消えていた。依頼書を見ている隙に。こういう時だけ、本当に素早い。
「ニアちゃんだー! 久しぶりー!!」
少し離れたところから、聞き覚えしかない声が響いた。
「いた」
声の方を見る。そこには、最後の選定依頼で同じ臨時クランを組んだ、小さな女の子がいた。
「リ、リナちゃん、久しぶ――」
「元気だったー!?」
「う、うん――」
リナが勢いよく手を振ると、ニアちゃんもつられたように手を上げた。
「どうやら、これは」
ユーロがにんまりしながら、私を見る。
「……だね」
私は戻しかけていた依頼書を、もう一度手に取った。四人パーティー推奨。前衛。斥候。そして、後衛が二人。
「行こっか」
「うん」
依頼書を手に、ユーロと一緒に二人のもとへ向かう。
「ニアちゃーん! 今日暇ー!? 四人で行けそうな依頼があるんだけど!」
「リナ、勧誘が雑!」
笑いながら、その背中を追いかけた。




